泡鳴五部作 01 発展

15話 十三

3,756字 約8分 2016年5月9日 公開

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 知り合ひの博士がやつてゐる耳科病院で診察と手術とを受け、當分は毎日かよつて來いと云はれてから、義雄は先づ笛村を訪ふと、留守であつた。

 で、その近處に住んでゐる詩人で、前者と共に「耽溺」を持つて歩いて呉れた友人に會ひ、それの出版は今のところ危險がられて、とても見込みないことを聽いた。雜誌にでもと思つて、笛村が現代小説社へ行つて見たが、そこではまた餘り長いからと云つて斷わつたさうだ。

「然し雜誌になら出さないこともなからう」と、渠は自分で日本橋通りへ行き、現代小説の主筆に相談して見た。初めは矢張りしぶつてゐたが、たツてと云ふなら、引き受けることにするが、稿料の半額だけを明日渡し、そのあとのは雜誌に出た時、渡さうと云ふことにきまつた。

 先づ一と安心したので、その足で村松を訪ひ、出發前に借りた金を返し、久し振りの一杯を共にしてから、一緒に養精軒へ行つて玉突をやつた。

 勝負にさん/″\負けて、お鳥のもとへ歸つたのは九時過ぎであつた。かの女は、もう、とこに這入つてゐた。

「おい、あの原稿のかたをつけて來たぞ」と、義雄は嬉しさうに云つた。

「さう。」かの女は枕の上でちよツと微笑したが、直ぐそれが苦笑に落ちて、不斷、艶のいい顏が電燈の光りに青ざめてゐるやうに見えた。

「どうかしたのか?」

「痛いの。」

「どこが?」

「‥‥」

「えツ?」渠はかの女の無言なのが萬事を語ると思つた。あれだけ、これまで用心してかかつてゐたのに――!

 渠はかの女の枕もとに坐わつたまま顏を()むけて、暫らく自分の三四ヶ月以前までの苦しみと不愉快とを考へた。そしてお鳥とも絶縁しなければならないことの餘りに早く初まつたのを後悔しないではゐられなかつた。

 かの女の高まつた呼吸がひどい鼻息に聽える。でも、今夜から別々な眠りだと思ふと、元の他人だと云ふ氣もして、どう手をつけてやつていいのか分らなくなつた。

 かの女はこちらの冷淡なのに激して、蒲團をはね飛ばして起き直つた。そして青い顏の青い目でこちらを睨みながら、

「どうして呉れる?」

「どうツて」と、冷やかにかの女の方に向いて、「醫者に見て貰ふより仕かたがない。」

「いやだ、いやだ!」からだをゆすぶつて、「醫者なんぞに見て貰ふもんか!」

「ぢやア、手療治の道もないことはない、さ。」

「そんなことで直るもんか?」

「全體、いつから痛い?」

「けさから、さ。」

「ひどくか?」

「さうでもないけれど――」

「兎に角、醫者に見せて、早く直す方がいいよ――おれの經驗で見ても、つらいものだから。」

「ふん!」鼻ごゑで泣き出しさうな顏をして、お鳥はまた枕に就いた。そして、これが直らなかつたら打ち殺すぞとか、おこられてもいいから北海道の兄を呼び寄せて強談するとか、頻りにいろいろな恨み言を云つてゐた。

 義雄はかの女が寢ながら獨りでもがいてゐるのを知つてゐたが、きのふからの疲勞が出て、眠くツて、眠くツて仕やうがなかつた。

 とろ/\と眠つたかと思ふと、渠はお鳥がにがり切つた顏をして、外出の衣物を着かへてゐるのが目に這入つた。

「どうするのだ?」渠は目がぱツちりしてしまつた。同時に、向ふがこちらを殺す氣ではないか知らんと云ふやうなことが浮んだ。次ぎに、寢床のまはりに刄物が出てはゐないかと見まわして見た。

「自分は醫者へ連れて行かうとしないぢやないか?」

「醫者へ行くつもりかい?」

「行かなくつて、どうする? 一ときでも後れたら、それだけあたいの損だ。」

「そりやア、損どころぢやアない――行くなら、おれがついてツてやるよ。」

 義雄も起きあがつて、衣物を着かへた。そして時計を見ると、もう、十二時を大分過ぎてゐる。

 二人は外出の用意が出來ても、互ひに目を反むけて暫らく默つて突ツ立つてゐた。下では皆よく寢てゐるやうで、外を通り過ぎる夜車(よぐるま)の音が聽えたばかりだ。

「どこへ行かう?」實は、義雄に當てがなかつた。

「どこまででも行く!」かうお鳥はかた足で疊を踏み叩いて云つた。「醫者のあるところまで行く――醫者が無かつたら、警察へいつて、お前の不埒を訴へてやる!」

「そりやア、それでもよからうよ。」

「‥‥」

「でも、ね」と、わざとうち解けた口調で、「そんなことをしたら、誰れがこれからの世話をするのだ?」

「世話するものなんぞ入らん! 裁判所へ出てでも、お前から無理に治療代を取つてやる!」

「そんなことはしなくツても、おれが直るやうにしてやる、さ。」

「分るもんか?」

「さう心配するな。」渠はお鳥の背中へ手をかけて、動悸の烈しくしてゐるのを衣物の上からさすつてやつた。

「ふん、つらい! つらい!」かの女は二三度からだをゆすつて、こちらの顏を憎々しさうに見詰めたが、ぽろ/\涙がこぼれる目へ長い袖を燒けに持つて行つた。

 かう心がいら立つて來たら、かの女が外で何を仕出かすかも知れないと思つたので、分りきつてゐることだが、念の爲めに云つて聽かせた――餘り輕卒なことをすれば、渠自身の惡名が出るばかりでなく、同時にかの女も歌はれて、それこそ、かの女が常々最も心配する通り、その兄弟や友人に再び顏を合せることが出來なくなるかも知れないと。

 かの女はただ聲をあげて泣いた。

「今ごろ見ツともないから泣くのだけおよし、ね。一緒に醫者は見付けて上げるから。」斯うなだめすかして、渠はあす、また金が取れることを語つて、治療代には決して困らないことを示めした。

 夜が更けると、街道を吹く風が、もう本統の秋だ。寒けがすると云つて、お鳥がわざ/\袷せ羽織りを出して着たのは、利口であつた。

 宵なら隨分賑やかな通りではあるが、もうみな戸が締つてゐた。各店頭の軒燈もぽつり/\消え殘つて、眠たさうにまたたいてゐる。そして、二人の無言で投げる影が四つにも五つ六つにも黒い地上に寫つた。

 無言で歩きながらも、義雄は、二三歩あとから附いて來るお鳥が、突然飛びかかつて來て、ナイフか何かの鋭利な刄物で自分の背中をつき刺しはしないかと云ふ疑ひも起つた。

 で、通りの暗い隅を行く時などは、向ふの後れを待つてやるやうな振りで、實はおづ/\ふり返つて見た。

 ところが、ふり返つて見る度毎に、かの女の伏し目がちにしてゐる顏が、街燈のあかりのさし加減で、眞ツ青に見えたり、眞ツ黒に見えたりする。

 眞ツ青でもいい。また、眞ツ黒でもいい。が、その度毎に、かの女の顏からふツくらした肉附きが殺げて行くやうだ。

 家を出た時も既に筋肉の働らきがとまつたかのやうなこわい顏であつたが、一歩々々、闇を拔けるに從つて、筋肉のうちに藏してゐた刄物のやうな骨が現はれて來たのだらうかと思はれた。そして、もツと行くうちに、かの女の骨ぐみが全く刄物その物になつて、こちらの身につき刺さるのではないかと云ふ心配まで起つた。

 考へて見ると、かの女は鹽山にゐても、本統に愛されようとはしなかつた。まして自分から愛しようとするなどとは恐らく夢にもなかつたらう。

「可愛いのよ」と、自分も口に出し、また實際全身にその意味の力を込めたと思はれるのは、この二日二晩のことだ。そしてそれが結局かの女には惡夢であつた。

「罰當り! もう、どうせ、おれに愛せられようといふ氣も出まい――おれを愛しようと云ふ氣はなほ更ら出まい。今までは五歩も十歩も讓つてゐたおれだが、もう、なアに、一歩なりと假借しないぞ!」かう義雄も殘忍な性質をあらはして見ると、後ろから附いて來るお鳥が腐れ縁といふ鎖りを引き摺つた痩せ犬であるやうに思はれた。

 黒田邸の外壁にさしかかつた時、それに添ふて掘れてゐる大きなどぶがあつた。渠はこの中へこの附き物を突き落して、暫らく身を隱してしまはうかとも思つた。が、そばの交番から巡査が出て來て、瓦斯燈のそこ光りを擴げたので、素直にそこを通り過ぎることが出來た。

「‥‥」お鳥も物は云はなかつた。

「困つたものを引き受けなければならなくなつた」と思ふと、星だらけの夜ぞらを仰いでも、その暗い部分だけが目にも心にも殘つて、自分とかの女との見分けが附かなくなつた。

 黒田のすぢかひに、西洋建ての藥局を持つてゐる大きな藥種屋がある。渠はそこでいろんな注入液を買つて來て、私かに不愉快な手療治をやつて見たことを思ひ出した。

「まだなほりませんか」と、そこの番頭がこいぎになつて云つたツけが――。

「この病氣に罹つた以上は、とても急になほりやアしない」と、ます/\燒けな冷酷を、押し詰つた自分の呼吸に引き入れた。

 赤阪田町六丁目と福吉町とが挾んだ通りは、片かはが矢張り黒田邸につづいた一條邸で、繁つた樹木の影などで暗かつた。お鳥はそこで足をとどめた。ひやりとして、義雄はその方へふり返つた。

「どこへ行くのよ」と云ふ自烈たさうな聲が聽える。

「まア、附いてこい!」つい(けは)しい返事をしたが、別に訂正もせずに、そのまま進んだ。實際、あてはないのだが、この先きへ行くと待ち合や藝者屋が多いから、そんな場所にはそんな醫者がゐないことはなからう位の考へはあつたのである。

 田町三丁目のよく玉突きに來た赤阪亭のあたりへ來てから、ふと思ひ出したのだが、赤阪見附けのそばに梅毒、痳病、皮膚科專門といふ看板を出してあるところがあつた。

 渠はそこへ行つて、そこを無理に叩き起した。

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