4話 耽溺(4)
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田島が帰ると同時に、入れ代って、吉弥の両親がはいって来た。
「明きましたから、どうぞ二階へ」と、今度はここのかみさんから通知して来たので、僕は室を出て、またはしご段をのぼろうとすると、その両親に出くわした。
「お言葉にあまえて」と、お袋は愛相よく、「先生、そろってまいりましたよ」
「さア、おあがんなさい」と、僕はさきに立って二階の奥へ通った。
おやじというのは、お袋とは違って、人のよさそうな、その代り甲斐性のなさそうな、いつもふところ手をして遊んでいればいいというような手合いらしい。男ッぷりがいいので、若い時は、お袋の方が惚れ込んで、自分のかせぎ高をみんな男の賭博の負けにつぎ足しても、なお他の女に取られまい、取られまいと心配したのだろうと思われる。年が寄っても、その習慣が直らないで、やッぱりお袋にばかり世話を焼かせているおやじらしい。下駄の台を拵えるのが仕事だと聴いてはいるが、それも大して骨折るのではあるまい。(一つ忘れていたが、お袋の来る時には、必らず僕に似合う下駄を持って来ると言っていたが、そのみやげはないようだ)初対面の挨拶も出来かねたようなありさまで、ただ窮屈そうに坐って、申しわけの膝ッこを並べ、尻は少しも落ちついていない様子だ。
「お父さんの風ッたら、ありゃアしない」お袋がこう言うと、
「おりゃアいつも無礼講で通っているから」と、おやじはにやりと赤い歯ぐきまで出して笑った。
「どうか、おくずしなさい。御遠慮なく」と、僕はまず膝をくずした。
「お父さんは」と、お袋はかえって無遠慮に言った、「まァ、下駄職に生れて来たんだよ、毎日、あぐらをかいて、台に向ってればいいんだ」
「そう馬鹿にしたもんじゃアないや、ね」と、おやじはあたまを撫でた。
「御馳走をたべたら、早く帰る方がいいよ」と、吉弥も笑っている。
おかしくないのは僕だけであった。三人に酒を出し、御馳走を供し、その上三人から愚弄されているのではないかと疑えば、このまま何も言わないで立ち帰ろうかとも思われた。まして、今しがたまでのこの座敷のことを思い浮べれば、何だか胸持ちが悪くなって来て、自分の身までが全くきたない毛だ物になっているようだ。香ばしいはずの皿も、僕の鼻へは、かの、特に、吉弥が電球に「やまと」の袋をかぶせた時の薄暗い室の、薄暗い肌のにおいを運んで、われながら箸がつけられなかった。
僕の考え込んだ心は急に律僧のごとく精進癖にとじ込められて、甘い、楽しい、愉快だなどというあかるい方面から、全く遮断されたようであった。
ふと、気がつくと、まだ日が暮れていない。三人は遠慮もなくむしゃむしゃやっている。僕は、また、猪口を口へ運んでいた。
「先生は御酒ばかりで」と、お袋は座を取りなして、「ちッともおうなは召しあがらないじゃアございませんか?」
「やがてやりましょう――まア、一杯、どうです、お父さん」と、僕は銚子を向けた。
「もう、先生、よろしゅうございますよ。うちのは二、三杯頂戴すると、あの通りになるんですもの」
「しかし、まだいいでしょう――?」
「いや、もう、この通り」と、おやじは今まで辛抱していた膝ッこを延ばして、ころりと横になり、
「ああ、もう、こういうところで、こうして、お花でも引いていたら申し分はないが――」
「お父さんはじきあれだから困るんです。お花だけでも、先生、私の心配は絶えないんですよ」
「そう言ったッて、ほかにおれの楽しみはないからしようがない、さ」
「あの人もやッぱし来るの?」吉弥がお袋に意味ありげの目を向けた。
「ああ、来るよ」お袋は軽く答えて、僕の方に向き直り、「先生、お父さんはもう帰していいでしょう?」
「そこは御随意になすってもらいましょう。――御窮屈なら、お父さん、おさきへ御飯を持って来させますから」と、僕は手をたたいて飯を呼んだ。
「お父さんは御飯を頂戴したら、すぐお帰りよ」と、お袋はその世話をしてやった。
僕は女優問題など全く撤回しようかと思ったくらいだし、こんなおやじに話したッて要領を得ないと考えたので、いい加減のところで切りあげておいたのだ。
飯を独りすませてから、独りで帰って行くのらくらおやじの姿がはしご段から消えると、僕の目に入れ代って映じて来るまぼろしは、吉弥のいわゆる「あの人」であった。ひょッとしたら、これがすなわち区役所の役人で、吉弥の帰京を待っている者――たびたび花を引きに来るので、おやじのお気に入りになっているのかも知れないと推察された。
一四
その跡に残ったのはお袋と吉弥と僕との三人であった。
「この方が水入らずでいい、わ」と、お袋は娘の顔を見た。
「青木は来たの?」吉弥はまた母の顔をじッと見つめた。
「ああ、来たよ」
「相談は定まって?」
「うまく行かないの、さ」
「あたい、厭だ、わ!」吉弥は顔いろを変えた。「だから、しッかりやって頂戴と言っておいたじゃアないか?」
「そう無気になったッてしようがない、わ、ね。おッ母さんだッて、抜かりはないが、向うがまだ険呑がっていりゃア、考えるのも当り前だア、ね」
「何が当り前だア、ね? 初めから引かしてやると言うんで、毎月、毎月妾のようにされても、なりたけお金を使わせまいと、わずかしか小遣いも貰わなかったんだろうじゃないか? 人を馬鹿にしゃアがったら、承知アしない、わ。あのがらくた店へ怒鳴り込んでやる!」
「そう、目の色まで変えないで、さ――先生の前じゃアないか、ね。実は、ね、半分だけあす渡すと言うんだよ」
「半分ぐらいしようがないよ、しみッたれな!」
「それがこうなんだよ、お前を引かせる以上は青木さん独りを思っていてもらいたい――」
「そんなおたんちんじゃアないよ」
「まア、お聴きよ」と、お袋は招ぎ猫を見たような手真似をして娘を制しながら、「そう来るのア向うの順じゃアないか? 何でもはいはいッて言ってりゃいいんだア、ね。――『そりゃア御もっとも』と返事をすると、ね、お前のことについて少し疑わしい点があると――」
「先生にゃア関係がないと言ってあるのに」
「いいえ、この方は大丈夫だが、ね、それ――」
「田島だッて、もう、とっくに手を切ッたって言ってあるよ」
「畜生!」僕は腹の中で叫んだ。
「それが、お前、焼き餅だァ、ね」と、お袋は、実際のところを承知しているのか、いないのか分らないが、そらとぼけたような笑い顔。「つとめをしている間は、お座敷へ出るにゃア、こッちからお客の好き嫌いはしていられないが、そこは気を利かして、さ――ねえ、先生、そうじゃアございませんか?」
「そりゃア、そうです」と、僕は進まないながらの返事。
「実は、ね」と、吉弥はしまりなくにこつき出して、「こんなことがあったのよ。このお座敷に青木さんがいて、下に田島が来ていたの。あたい、両方のかけ持ちでしょう、上したの焼き持ち責めで困っちまった、わ。田島がわざと跡から攻めかけて来て、焼け飲みをしたんでしょう、酔ッぱらッちまって聴えよがしに歌ったの、『青木の馬鹿野郎』なんかんて。青木さんは年を取ってるだけにおとなしいんで、さきへ帰ってもらった、わ」
こう話しながらも、吉弥はたッた今あったことを僕が知っているとは思わないので、十分僕に気を許している様子であった。僕は、吉弥とお袋との鼻をあかすために、すッぱり腹をたち割って、僕の思いきりがいいところを見せてやりたいくらいであったが、しみッたれた男が二人も出来ているところへ、また一人加わったと思われるのが厭さに、何のこともない風で通していた。
「そんなことのないようにするのが」と、お袋は僕に向った、「芸者のつとめじゃアございませんか?」
「大きにそうです、ね」僕はこう答えたが、心では、「芸者どころか、女郎や地獄の腕前もない奴だ」と、卑しんでいた。
「あたいばかり責めたッて、しようがないだろうじゃないか?」吉弥はそのまなじりをつるしあげた。それに、時々、かの女の口が歪む工合は、お袋さながらだと見えた。
「まア、すんだことはいいとして、さ」と、お袋は娘をなだめるように、「これからしばらく大事だから、よく気をおつけなさい。――先生にも頼んでおきたいんです、の。如才はございますまいが、青木さんが、井筒屋の方を済ましてくれるまで、――今月の末には必らずその残りを渡すと言うんですから――この月一杯は大事な時でございます。お互いに、ね、向うへ感づかれないように――」と、僕と吉弥とを心配そうに見まわした様子には、さすが、親としての威厳があった。
「そりゃアもちろんです」と、僕はまた答えた。僕は棄てッ鉢に飲んだ酒が十分まわって来たので、張りつめていた気も急にゆるみ、厭なにおいも身におぼえなくなり、年取った女がいるのは自分の母のごとく思われた。また、吉弥の坐っているのがふらふら動くように見えるので、あたかも遠いところの雲の上に、普賢菩薩が住しているようで、その酔いの出たために、頬の白粉の下から、ほんのり赤い色がさす様子など、いかにも美しくッて、可愛らしくッて、僕の十四、五年以前のことを思い出さしめた。
僕は十四、五年以前に、現在の妻を貰ったのだ。僕よりも少し年上だけに、不断はしッかりしたところのある女だが、結婚の席へ出た時の妻を思えば、一、二杯の祝盃に顔が赤くなって、その場にいたたまらなくなったほどの可愛らしい花嫁であった。僕は、今、目の前にその昔の妻のおもかげを見ていた。
そのうちにランプがついたのに気がつかなかった。
「先生はひどく考え込んでいらッしゃるの、ね」と、お袋の言葉に僕は楽しい夢を破られたような気がした。
「大分酔ったんです」と、僕はからだを横に投げた。
「きイちゃん」と、お袋は娘に目くばせをした。
「しッかりなさいよ、先生」吉弥は立って来て、僕に酌をした。かの女は僕を、もう、手のうちにまるめていると思っていたのか、ただ気まま勝手に箸を取っていて、お酌はお袋にほとんどまかしッきりであったのだ。
「きイちゃん、お弾きよ――先生、少し陽気に行きましょうじゃアございませんか?」
吉弥のじゃんじゃんが初まった。僕は聴きたくないので、
「まア、お待ち」と、それを制し、「まだお前の踊りを見たことがないんだから、おッ母さんに弾いてもらって、一つ僕に見せてもらおう」
「しばらく踊らないんですもの」と、吉弥は、僕を見て、膝に三味をのせたままでからだを横にひねった。
「………」僕は年の行かない娘が踊りのお稽古の行きや帰りにだだをこねる時のようすを連想しながら、
「おぼえている物をやったらいいじゃないか?」
「だッて」と、またからだを振ると同時に、左の手を天心の方に行かせて、しばらく言葉を切ったが、――「こんな大きななりじゃア踊れない、わ」
「お酌のつもりになって、さ」とは、僕が、かの女のますます無邪気な様子に引き入れられて、思わず出した言葉だ。
「そういう注文は困る、わ」吉弥は訴えるようにお袋をながめた。
「じゃア」と、お袋は娘と僕とを半々に見て、「私に弾けなくッても困るから、やさしい物を一つやってごらん。――『わが物』がいい、傘を持ってることにして、さ」三味線を娘から受け取って、調子を締めた。
「まるで子供のようだ、わ」吉弥ははにかんで立ち上り、身構えをした。
お袋の糸はなかなかしッかりしている。
「わがーアものーオと」の歌につれて、吉弥は踊り出したが、踊りながらも、
「何だかきまりが悪い、わ」と言った。
そのはにかんでいる様子は、今日まで多くの男をだまして来た女とは露ほども見えないで、清浄無垢の乙女がその衣物を一枚一枚剥がれて行くような優しさであった。僕が畜生とまで嗅ぎつけた女にそんな優しみがあるのかと、上手下手を見分ける余裕もなく、僕はただぼんやり見惚れているうちに、
「待つウ身にイ、つらーアき、置きイごたーアつ」も通り抜けて、終りになり、踊り手は畳に手を突いて、しとやかにお辞儀をした。こうして踊って来た時代もあったのかと思うと、僕はその頸ッ玉に抱きついてやりたいほどであった。
「もう、御免よ」吉弥は初めて年増にふさわしい発言をして自分自身の膳にもどり、猪口を拾って、
「おッ母さん一杯お駄賃に頂戴よ」
「さア、僕が注いでやろう」と、僕は手近の銚子を出した。
「それでも」と、お袋は三味を横へおろして、
「よく覚えているだけ感心だ、わ。――先生、この子がおッ師匠さんのところへ通う時ア、困りましたよ。自分の身に附くお稽古なんだに、人の仕事でもして来たようにお駄賃をくれいですもの。今もってその癖は直りません、わ。何だというと、すぐお金を送ってくれい――」
「そうねだりゃアしない、わ」と、吉弥はほほえんだ。
「………」また金の話かと、僕はもうそんなことは聴きたくないから、すぐみんなで飯を喰った。
一五
お袋は一足さきへ帰ったので、吉弥と僕とのさし向いだ。こうなると、こらえていた胸が急にみなぎって来た。
「先生にこうおごらして済まない、わ、ねえ」と、可愛い目つきで吉弥が僕をながめたのに答えて、
「馬鹿!」と一声、僕は強く重い欝忿をあびせかけた。
「そのこわい目!」しばらく吉弥は見つめていたが、「どうしたのよ」と、かおをしがめて僕にすり寄って来た。
「ええッ、穢れる、わい!」僕はこれを押し除けて、にらみつけ、「知らないと思って、どこまで人を馬鹿にしゃアがるんだい? さッき、おれがここへ来るまでのここのざまッたら何だ?」
吉弥はちょっとぎゃふんとしたようであったが、いずまいを直して、
「聴いてたの?」と、きまりが悪い様子。
「聴いてたどころか、隣りの座敷で見ていたも同前だい!」
「あたい、何も田島さんを好いてやしない、わ」
「もう、好く好かないの問題じゃアない、病気がうつる問題だよ」
「そんな物アとっくに直ってる、わ」
「分るもんか? 貴様の口のはたも、どこの馬の骨か分りもしない奴の毒を受けた結果だぞ」
言っておかなかったが、かの女の口のはたの爛れが直ったり、出来たりするのは、僕の初めから気にしていたところであった。それに、時々、その活き活きした目がかすむのを井筒屋のお貞が悪口で、黴毒性のそこひが出るのだと聴いていたのが、今さら思い出されて、僕はぞッとした。
「寛恕して頂戴よ」と、僕の胸に身を投げて来た吉弥をつき払い、僕はつッ立ちあがり、「おッ母さんにそう言ってもらおう、僕も男だから、おッ母さんに約束したことは、お前の方で筋道さえ踏んで来りゃア、必らず実行する。しかしお前の身の腐れはお前の魂から入れ変えなけりゃア、到底、直りッこはないんだ。――これは何も焼き餅から言うんじゃアない、お前のためを思って言うんだ」
怒りはしたものの、僕は涙がこぼれた。それとなく、ハンケチを出して目を拭きながら座敷を出た。出てからちょっとふり返って見たが、かの女は――分ったのか、分らないのか――突き放されたままの位置で、畳に左の手を突き、その方の袂の端を右の手で口へ持って行った。目は畳に向いていた。
その翌日、午前中に、吉弥の両親はいとま乞いに来た。僕が吉弥をしかりつけた――これを吉弥はお袋に告げたか、どうか――に対する挨拶などは、別になかった。とにかく、僕は一種不愉快な圧迫を免れたような気がして、女優問題をもなるべく僕の心に思い浮べないようにしようときめた。かつ、これからは僕から弱く出てかれこれ言うには及ばない、吉弥に性根があったら、向うから何とか言って来るだろう、それを待っているにしくはないと考えた。
「先生も御如才はないでしょうが――この月中が肝心ですから、ね」と、お袋の別れの言葉はまたこうであった。
「無論ですとも」と答えたが、僕はあとで無論もくそもあったものかという反抗心が起った。そして、それでもなお実は、吉弥がその両親を見送りに行った帰りに、立ち寄るのが本当だろうと、外出もしないで待っていたか、吉弥は来なかった。昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。
そのまたあくる日も、日が暮れるまで待っていたが、来なかった。もうお座敷に行ったろうからだめだと、――そして、井筒屋ははやらないが、井筒屋の独り芸者は外へ出てはやりッ子なんだから――あきらめて、書見でもしようと、半分以上は読み終ってあるメレジコウスキの小説「先駆者」を手に取った。国府津へ落ちついた当座は、面白半分一気に読みつづけて、そこまでは進んだが、僕の気が浮かれ出してからは、ほとんど全くこれを忘れていたありさまであったのだ。この書の主人公レオナドダヴィンチの独身生活が今さらのごとく懐かしくなった。
仰向けに枕して読みかけたが、ふと気がつくと、月が座敷中にその光を広げている。おもてに面した方の窓は障子をはずしてあったので、これは危険だという考えが浮んだ。こないだから持っていた考えだが、――吉弥の関係者は幾人あるか分らないのだから、僕は旅の者だけに、最も多くの恨みを買いやすいのである。いついかなる者から闇打ちを喰らわされるやも知れない。人通りのない時、よしんば出来心にしろ、石でもほうり込まれ、怪我でもしたらつまらないと思い、起きあがって、窓の障子を填め、左右を少しあけておいて、再び枕の上に仰向けになった。
心が散乱していて一点に集まらないので、眼は開いたページの上に注がれて、何を読んでいるのか締りがなかった。それでもじッと読みつづけていると、新らしい事件は出て来ないで、レオナドと吉弥とが僕の心をかわるがわる通過する。一方は溢れるばかりの思想と感情とを古典的な行動に包んだ老独身者のおもかげだ。また一方はその性情が全く非古典的である上に、無神経と思われるまでも心の荒んだ売女の姿だ。この二つが、まわり燈籠のように僕の心の目にかわるがわる映って来るのである。
一方は、燃ゆるがごとき新情想を多能多才の器に包み、一生の寂しみをうち籠めた恋をさえ言い現わし得ないで終ってしまった。その生涯はいかにも高尚である、典雅である、純潔である。僕が家庭の面倒や、女の関係や、またそういうことに附随して来るさまざまの苦痛と疲労とを考えれば、いッそのこと、レオナドのように、独身で、高潔に通した方が幸福であったかと、何となく懐かしいような気がする。しかし、また考えると、高潔でよく引き締った半僧生活は、十数年前、すでに、僕は思想と実験との上で通り抜けて来たのだ。そんな初々しいことで、現在の僕が満足出来ないのは分りきっている。僕の神経はレオナドの神経より五倍も十倍も過敏になっているだろう。
こう思うと、また、古寺の墓場のように荒廃した胸の中のにおいがして来て、そのくさい空気に、吉弥の姿が時を得顔に浮んで来る。そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よりは重く、足も常よりは倦怠いのをおぼえた。
僕の過敏な心と身体とは荒んでいるのだ。延びているのだ。固まっていた物が融けて行くように、立ち据わる力がなくなって、下へ下へと重みが加わったのだろう。堕落、荒廃、倦怠、疲労――僕は、デカダンという分野に放浪するのを、むしろ僕の誇りとしようという気が起った。
「先駆者」を手から落したら、レオナドはいなくなったが、吉弥ばかりはまだ僕を去らない。
かの女は無努力、無神経の、ただ形ばかりのデカダンだ、僕らの考えとは違って、実力がない、中味がない、本体がない。こう思うと、これもまた厭になって、僕は半ばからだを起した。そうすると、吉弥もまた僕の心眼を往来しなくなった。
暑くッてたまらないので、むやみにうちわを使っていると、どこからか、
「寛恕して頂戴よ」という優しい声が聴える。しかしその声の主はまだ来ないのであった。
一六