彩虹

6話 六

1,860字 約4分 2022年5月12日 公開

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 はいって来たさえは部屋の隅へ坐り、身をすぼめるようにしながら会釈した。ぜんたいに窶(やつ)れているようだし、肩をすぼめるような身ごなしも、羞(はじらい)を含んだ哀(かな)しげな微笑のし方にもかつて見たことのない寂しそうなかげが滲(にじ)み出ていた。伊兵衛はあまりの変り方に暫らくは言葉も出ず、心うたれた者のようにさえの姿を見まもっていた。

「ずいぶん久しくお逢い申しませんけれど、どうかあそばしたのでございますか」

 挨拶が済むとさえはそう云った。

「……御病気というお噂も聞かず、おいでもございませんので、何か御機嫌を損じたのではないかと母が心配しておりました、それでぶしつけですけれど、ちょっと御容子を伺いにあがりましたの」

「なにも理由はないさ、つい足が遠くなったというだけだよ」

「どうぞいらっしって下さいまし、母も家の者たちもお待ち申しておりますから」

「話というのはそのことか」

「はあ、……いいえ」

 さえはそっと頭を振り、両の袂(たもと)を膝の上に重ねながら俯向(うつむ)いた。そして伊兵衛が黙っているままに、じっとなにか思い耽っていたが、やがてふと顔をあげ、こちらを挑むような眼でもとめながら卒然と云った。

「半年まえ、貴方様はわたくしに、脇田さまへ嫁(い)く気があるかとお訊ねなさいました、あれは、おたわむれだったのでございますか」

「たわむれ……」

 伊兵衛は思いがけない言葉に眼を瞠(みは)った。

「どうしてそんなことを云うんだ、脇田との間になにかあったのか」

「わたくし、お受け申しますとお返辞を致しました」

「おれはその通り脇田へ伝えた」

「脇田さまはなんと仰(おお)せでしたの」

「すぐ正式に人を立てて縁組をすると云っていた」

「なんのお話もございませんわ、それらしいお人もみえず、そういうおとずれもございませんでした」

 伊兵衛の脳裡に、その刹那ふと宗之助の逞しい顔が思いうかんだ。桃園の庭で自分を捻(ね)じ伏せながら、勝ち負けを執拗に追究した顔、それから忽然(こつぜん)と変った不敵な笑い顔が、……その一種特別な笑い顔が、今なにかを伊兵衛の心に叩きつけるようだった。

「それは本当だな」

「それでわたくし、お伺い申しました」

「家へ帰っておいで」

 伊兵衛は抱き緊めるような眼でさえを見た。

「……あとでゆく」

「脇田さまへおいでになりますのね」

「他にも用があるんだ」

「こんどは」

 と、さえは燃えるような眼で伊兵衛を見た。

「……こんどは、お断わり申しても宜しゅうございますわね」

「いやそれは待って呉れ、おれが会って」

「いいえ」

 さえは屹(きっ)と頭を振った。

「……わたくしあれからずいぶんいろいろなことを考えました。そして半年のあいだ待っていましたのは、ただ脇田さまからの縁談だけでございませんでした、頼三郎さま」

 伊兵衛は体を躱(か)わすとでもいうようにつと起った。それに続くべきさえの言葉の重大さが、光のように彼の感情へ反射したからである。縋りつくようなさえの眼から外向きながら、彼はもういちど、

「家へお帰り」

 と云った。

「あとでゆく、そのときあとを聞こう、おれからも話すことがある、いいか」

 そして大股(おおまた)に居間のほうへ去った。

 海のほうからなまぬるい風が吹いていた。夕立でも来そうな空で、鼠色の断雲が低く北へ北へとながれていた。大手外にある脇田の家を訪ねると、

「登城しております」

 ということで、そのまま城へ上った。宗之助は勘定奉行役所で、うず高い書類をまわりに、筆を取ってなにか書き物をしていた。側には腹心の例の三人だけで、他には人がいなかった。

「もうすぐ済むから暫らく待って呉れ」

 伊兵衛を見ると彼はそう云って書き物を続けたが、やがて終った物から順に、

「これは作事方へ、これは御船方へ」

 と三人に渡し、かれらが出てゆくと、

「待たせて済まなかった」

 と云いながら伊兵衛の側へ来て坐った。

「かけ違って暫らく会わなかった、なにか急な用でもあるのか」

「口を飾らずに云うから、其許も言葉の綾(あや)なしに答えて貰いたい」

 伊兵衛は片手を膝に置いて云った。

「……先頃から世間に妙な評判が立っている、年貢、運上、一律半減、家臣一統の扶持を表高に復帰するという、あの風評が其許の手から出ているというのは事実か」

「ほう、来たな」

 宗之助はにやっと笑った。

「……それは樫村伊兵衛の質問か、それとも筆頭年寄としての問か、どっちだ」

「今のところは古い友人として訊くことにしよう」

「ではその積りで答えるが、ああいう評判を撒(ま)いたのはいかにもおれだ、それについてなにか意見があるのかね」

「おれの意見はあとだ、風評が其許から出たとすると、それにはそれだけの根拠があるのだな」

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