6話 六
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はいって来たさえは部屋の隅へ坐り、身をすぼめるようにしながら会釈した。ぜんたいに窶れているようだし、肩をすぼめるような身ごなしも、羞を含んだ哀しげな微笑のし方にもかつて見たことのない寂しそうなかげが滲み出ていた。伊兵衛はあまりの変り方に暫らくは言葉も出ず、心うたれた者のようにさえの姿を見まもっていた。
「ずいぶん久しくお逢い申しませんけれど、どうかあそばしたのでございますか」
挨拶が済むとさえはそう云った。
「……御病気というお噂も聞かず、おいでもございませんので、何か御機嫌を損じたのではないかと母が心配しておりました、それでぶしつけですけれど、ちょっと御容子を伺いにあがりましたの」
「なにも理由はないさ、つい足が遠くなったというだけだよ」
「どうぞいらっしって下さいまし、母も家の者たちもお待ち申しておりますから」
「話というのはそのことか」
「はあ、……いいえ」
さえはそっと頭を振り、両の袂を膝の上に重ねながら俯向いた。そして伊兵衛が黙っているままに、じっとなにか思い耽っていたが、やがてふと顔をあげ、こちらを挑むような眼でもとめながら卒然と云った。
「半年まえ、貴方様はわたくしに、脇田さまへ嫁く気があるかとお訊ねなさいました、あれは、おたわむれだったのでございますか」
「たわむれ……」
伊兵衛は思いがけない言葉に眼を瞠った。
「どうしてそんなことを云うんだ、脇田との間になにかあったのか」
「わたくし、お受け申しますとお返辞を致しました」
「おれはその通り脇田へ伝えた」
「脇田さまはなんと仰せでしたの」
「すぐ正式に人を立てて縁組をすると云っていた」
「なんのお話もございませんわ、それらしいお人もみえず、そういうおとずれもございませんでした」
伊兵衛の脳裡に、その刹那ふと宗之助の逞しい顔が思いうかんだ。桃園の庭で自分を捻じ伏せながら、勝ち負けを執拗に追究した顔、それから忽然と変った不敵な笑い顔が、……その一種特別な笑い顔が、今なにかを伊兵衛の心に叩きつけるようだった。
「それは本当だな」
「それでわたくし、お伺い申しました」
「家へ帰っておいで」
伊兵衛は抱き緊めるような眼でさえを見た。
「……あとでゆく」
「脇田さまへおいでになりますのね」
「他にも用があるんだ」
「こんどは」
と、さえは燃えるような眼で伊兵衛を見た。
「……こんどは、お断わり申しても宜しゅうございますわね」
「いやそれは待って呉れ、おれが会って」
「いいえ」
さえは屹と頭を振った。
「……わたくしあれからずいぶんいろいろなことを考えました。そして半年のあいだ待っていましたのは、ただ脇田さまからの縁談だけでございませんでした、頼三郎さま」
伊兵衛は体を躱わすとでもいうようにつと起った。それに続くべきさえの言葉の重大さが、光のように彼の感情へ反射したからである。縋りつくようなさえの眼から外向きながら、彼はもういちど、
「家へお帰り」
と云った。
「あとでゆく、そのときあとを聞こう、おれからも話すことがある、いいか」
そして大股に居間のほうへ去った。
海のほうからなまぬるい風が吹いていた。夕立でも来そうな空で、鼠色の断雲が低く北へ北へとながれていた。大手外にある脇田の家を訪ねると、
「登城しております」
ということで、そのまま城へ上った。宗之助は勘定奉行役所で、うず高い書類をまわりに、筆を取ってなにか書き物をしていた。側には腹心の例の三人だけで、他には人がいなかった。
「もうすぐ済むから暫らく待って呉れ」
伊兵衛を見ると彼はそう云って書き物を続けたが、やがて終った物から順に、
「これは作事方へ、これは御船方へ」
と三人に渡し、かれらが出てゆくと、
「待たせて済まなかった」
と云いながら伊兵衛の側へ来て坐った。
「かけ違って暫らく会わなかった、なにか急な用でもあるのか」
「口を飾らずに云うから、其許も言葉の綾なしに答えて貰いたい」
伊兵衛は片手を膝に置いて云った。
「……先頃から世間に妙な評判が立っている、年貢、運上、一律半減、家臣一統の扶持を表高に復帰するという、あの風評が其許の手から出ているというのは事実か」
「ほう、来たな」
宗之助はにやっと笑った。
「……それは樫村伊兵衛の質問か、それとも筆頭年寄としての問か、どっちだ」
「今のところは古い友人として訊くことにしよう」
「ではその積りで答えるが、ああいう評判を撒いたのはいかにもおれだ、それについてなにか意見があるのかね」
「おれの意見はあとだ、風評が其許から出たとすると、それにはそれだけの根拠があるのだな」