道草

20話 二十

1,318字 約3分 1999年1月22日 公開

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 その不安は多少彼の仕事の上に即(つ)いて廻った。けれども彼の仕事はまたその不安の影をどこかへ埋(うず)めてしまうほど忙がしかった。そうして島田が再び健三の玄関へ現れる前に、月は早くも末になった。

 細君は鉛筆で汚ならしく書き込んだ会計簿を持って彼の前に出た。

 自分の外で働いて取る金額の全部を挙げて細君の手に委(ゆだ)ねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。彼はいまだかつて月末(げつまつ)に細君の手から支出の明細書(めいさいがき)を突き付けられた例(ためし)がなかった。

「まあどうにかしているんだろう」

 彼は常にこう考えた。それで自分に金の要(い)る時は遠慮なく細君に請求した。月々買う書物の代価だけでも随分の多額に上(のぼ)る事があった。それでも細君は澄ましていた。経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえ疑(うたぐ)った。

「月々の勘定はちゃんとして己(おれ)に見せなければいけないぜ」

 細君は厭(いや)な顔をした。彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。

「ええ」

 彼女の返事はこれぎりであった。そうして月末(つきずえ)が来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。健三も機嫌の好(い)い時はそれを黙認した。けれども悪い時は意地になってわざと見せろと逼(せま)る事があった。そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月に肴(さかな)をどれだけ食(くっ)たものか、または米がどれほど要(い)ったものか、またそれが高過ぎるのか、安過ぎるのか、更に見当が付かなかった。

 この場合にも彼は細君の手から帳簿を受取って、ざっと眼を通しただけであった。

「何か変った事でもあるのかい」

「どうかして頂かないと……」

 細君は目下の暮し向について詳しい説明を夫にして聞かせた。

「不思議だね。それで能(よ)く今日(きょう)まで遣(や)って来られたものだね」

「実は毎月(まいげつ)余らないんです」

 余ろうとは健三にも思えなかった。先月末(すえ)に旧(ふる)い友達が四、五人でどこかへ遠足に行くとかいうので、彼にも勧誘の端書をよこした時、彼は二円の会費がないだけの理由で、同行を断った覚(おぼえ)もあった。

「しかしかつかつ位には行きそうなものだがな」

「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども」

 細君はいい悪(にく)そうに、箪笥(たんす)の抽匣(ひきだし)にしまって置いた自分の着物と帯を質に入れた顛末(てんまつ)を話した。

 彼は昔自分の姉や兄が彼らの晴着を風呂敷へ包んで、こっそり外へ持って出たりまた持って入ったりしたのをよく目撃した。他(ひと)に知れないように気を配りがちな彼らの態度は、あたかも罪を犯した日影者のように見えて、彼の子供心に淋(さび)しい印象を刻み付けた。こうした聯想(れんそう)が今の彼を特更(ことさら)に佗(わ)びしく思わせた。

「質を置いたって、御前が自分で置きに行ったのかい」

 彼自身いまだ質屋の暖簾(のれん)を潜(くぐ)った事のない彼は、自分より貧苦の経験に乏しい彼女が、平気でそんな所へ出入(でいり)するはずがないと考えた。

「いいえ頼んだんです」

「誰に」

「山野のうちの御婆(おばあ)さんにです。あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから」

 健三はその先を訊(き)かなかった。夫が碌な着物一枚さえ拵(こしら)えてやらないのに、細君が自分の宅(うち)から持ってきたものを質に入れて、家計の足(たし)にしなければならないというのは、夫の恥に相違なかった。

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