路上

5話 路上(5)

8,324字 約17分 1999年3月1日 公開

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 俊助(しゅんすけ)は不快になっていた矢先だから、初子(はつこ)新田(にった)とを後に残して、うす暗い廊下(ろうか)へ退却した。と、そこには辰子(たつこ)が、途方(とほう)に暮れたように、白い壁を背負って(たたず)んでいた。

「どうしたのです。気味が悪いんですか。」

 辰子は水々しい眼を挙げて、訴えるように俊助の顔を見た。

「いいえ、可哀(かわい)そうなの。」

 俊助は思わず微笑した。

「僕は不愉快です。」

「可哀そうだとは御思いにならなくって?」

「可哀そうかどうかわからないが――とにかくああ云う人間が、ああしているのを見たくないんです。」

「あの人の事は御考えにならないの。」

「それよりも先に、自分の事を考えるんです。」

 辰子の青白い頬には、あるかない微笑の影がさした。

「薄情な方ね。」

「薄情かも知れません。その代りに自分の関係している事なら――」

「御親切?」

 そこへ新田と初子とが出て来た。

「今度は――と、あちらの病室へ行って見ますか。」

 新田は辰子や俊助の存在を全く忘れてしまったように、さっさと二人の前を通り越して、遠い廊下のつき当りにある戸口の方へ歩き出した。が、初子は辰子の顔を見ると、心もち濃い(まゆ)をひそめて、

「どうしたの。顔の色が好くなくってよ。」

「そう。少し頭痛(ずつう)がするの。」

 辰子は低い声でこう答えながら、ちょいと(てのひら)を額に当てたが、すぐにいつものはっきりした声で、

「行きましょう。何でもないわ。」

 三人は皆別々の事を考えながら、前後してうす暗い廊下を歩き出した。

 やがて廊下のつき当りまで来ると、新田はその部屋の戸を開けて、(うしろ)の三人を振返りながら、「御覧なさい」と云う手真似(てまね)をした。ここは柔道の道場を思わせる、広い畳敷の病室だった。そうしてその畳の上には、ざっと二十人近い女の患者が、一様に(ねずみ)の棒縞の着物を着て雑然と群羊のごとく動いていた。俊助は高い天窓(てんまど)の光の(もと)に、これらの狂人の一団を見渡した時、またさっきの不快な感じが、力強く蘇生(よみがえ)って来るのを意識した。

「皆仲良くしているわね。」

 初子は家畜(かちく)を見るような眼つきをしながら、隣に立っている辰子に囁いた。が、辰子は静に(うなず)いただけで、口へ出しては、何とも答えなかった。

「どうです。中へはいって見ますか。」

 新田は嘲るような微笑を浮べて、三人の顔を見廻した。

「僕は()(ぴら)だ。」

「私も、もう沢山。」

 辰子はこう云って、今更のようにかすかな吐息を洩らした。

「あなたは?」

 初子は生々した血の気を(ほお)に漲らせて、()びるようにじっと新田の顔を見た。

「私は見せて頂きますわ。」

        二十八

 俊助(しゅんすけ)辰子(たつこ)とは、さっきの応接室へ引き返した。引き返して見ると、以前はささなかった日の光が、(ななめ)窓硝子(まどガラス)を射透して、ピアノの脚に落ちていた。それからその日の光に蒸されたせいか、壺にさした薔薇(ばら)の花も、前よりは一層重苦しく、甘い《にお》いを放っていた。最後にあの令嬢の()くオルガンが、まるでこの癲狂院(てんきょういん)の建物のつく吐息(といき)のように、時々廊下の向うから聞えて来た。

「あの御嬢さんは、まだ弾いていらっしゃるのね。」

 辰子はピアノの前に立ったまま、うっとりと眼を遠い所へ漂わせた。俊助は煙草へ火をつけながら、ピアノと向い合った長椅子(ながいす)へ、ぐったりと疲れた腰を下して、

「失恋したくらいで、気が違うものかな。」と、独り語のように(つぶや)いた。と、辰子は静に眼を俊助の顔へ移して、

「違わないと御思いになって?」

「さあ――僕は違いそうもありませんね。それよりあなたはどうです。」

(わたし)? 私はどうするでしょう。」

 辰子は誰に尋ねるともなくこう云ったが、急に青白い頬に血の色がさすと、眼を白足袋(しろたび)の上に落して、

「わからないわ。」と小さな声を出した。

 俊助は金口(きんぐち)(くわ)えたまま、しばらくはただ黙然(もくねん)と辰子の姿を眺めていたが、やがてわざと軽い調子で、

「御安心なさい。あんたなんぞは失恋するような事はないから。その代り――」

 辰子はまた静に眼を挙げて俊助の眉の間を見た。

「その代り?」

「失恋させるかも知れません。」

 俊助は冗談のように云った言葉が、案外真面目(まじめ)な調子を帯びていたのに気がついた。と同時に真面目なだけ、それだけ厭味なのを恥しく思った。

「そんな事を。」

 辰子はすぐに眼を伏せたが、やがて俊助の方へ(うしろ)を向けると、そっとピアノの蓋を開けて、まるで二人をとりまいた、薔薇(ばら)のいのする沈黙を追い払おうとするように、二つ三つ鍵盤(けんばん)を打った。それは打つ指に力がないのか、いずれも音とは思われないほど、かすかな音を響かせたのに過ぎなかった。が、俊助はその音を聞くと共に、日頃彼の軽蔑(けいべつ)する感傷主義(センティメンタリズム)が、彼自身をもすんでの事に捕えようとしていたのを意識した。この意識は勿論彼にとって、危険の意識には相違なかった。けれども彼の心には、その危険を(まぬか)れたと云う、満足らしいものはさらになかった。

 しばらくして初子(はつこ)新田(にった)と一しょに、応接室へ姿を現した時、俊助はいつもより快活に、

「どうでした。初子さん。モデルになるような患者が見つかりましたか。」と声をかけた。

「ええ、御蔭様で。」

 初子は新田と俊助とに、等分の愛嬌(あいきょう)をふり()きながら、

「ほんとうに(わたし)ためになりましたわ。辰子さんもいらっしゃれば()いのに。そりゃ可哀そうな人がいてよ。いつでも、御腹(おなか)に子供がいると思っているんですって。たった一人、隅の方へ坐って、子守唄(こもりうた)ばかり歌っているの。」

        二十九

 初子が辰子と話している間に、新田はちょいと俊助(しゅんすけ)の肩を叩くと、

「おい、君に一つ見せてやる物がある。」と云って、それから女たちの方へ向きながら、

「あなた方はここで、しばらく御休みになって下さい。今、御茶でも差上げますから。」

 俊助は新田の云う通り、おとなしくその(あと)について、明るい応接室からうす暗い廊下(ろうか)へ出ると、今度はさっきと反対の方向にある、広い畳敷の病室へつれて行かれた。するとここにも向うと同じように、(ねずみ)の棒縞を着た男の患者が、二十人近くもごろごろしていた。しかもそのまん中には、髪をまん中から分けた若い男が、口を()いて、(よだれ)を垂らして、両手を(つばさ)のように動かしながら、怪しげな踊を踊っていた。新田は俊助をひっぱって、遠慮なくその連中の間へはいって行ったが、やがて膝を抱いて坐っていた、一人の老人をつかまえると、

「どうだね。何か変った事はないかい。」と、もっともらしく問いかけた。

「ございますよ。何でも今月の末までには、また磐梯山(ばんだいさん)が破裂するそうで、――昨晩(さくばん)もその御相談に、神々が上野(うえの)へ御集りになったようでございました。」

 老人は目脂(めやに)だらけの眼を見張って、囁くようにこう云った。が、新田はその答には頓着(とんちゃく)する気色(けしき)もなく、俊助の方を振返って、

「どうだ。」と、嘲るような声を出した。

 俊助は微笑を洩したばかりで、何ともその「どうだ」には答えなかった。と、新田はまた一人、これはニッケルの眼鏡をかけた、(かん)の強そうな男の前へ行って、

「いよいよ講和条約の調印もすんだようだね。君もこれからは暇になるだろう。」

 が、その男は陰鬱な眼を挙げて、じろりと新田の顔を見ながら、

「とても暇にはなりませんよ。クレマンソオはどうしても、僕の辞職を聴許(ちょうきょ)してくれませんからね。」

 新田は俊助と顔を見合せたが、そこに漂っている微笑を認めると、また黙然(もくねん)と病室の隅へ歩を移して、さっきからじっと二人を見つめていた、品の()い半白の男に声をかけた。

「どうした。まだ細君は帰って来ないかね。」

「それがですよ。(さい)の方じゃ帰りたがっているんですが、――」

 その患者(かんじゃ)はこう云いかけて、急に疑わしそうな眼を俊助へ向けると、気味の悪いほど真剣な調子になって、

「先生、あなたは大変な人を()れて御出でなすった。こりゃあの評判の女たらしですぜ。私の(さい)をひっかけた――」

「そうか。じゃ早速僕から、警察へ引き渡してやろう。」

 新田は無造作(むぞうさ)に調子を合わすと、三度(みたび)俊助の方へ振り返って、

「君、この連中が死んだ後で、脳髄(のうずい)を出して見るとね、うす赤い皺の重なり合った上に、まるで卵の白味(しろみ)のような物が、ほんの指先ほど、かかっているんだよ。」

「そうかね。」

 俊助は依然として微笑をやめなかった。

「つまり磐梯山(ばんだいさん)の爆発も、クレマンソオへ出した辞職届も、女たらしの大学生も、皆その白味のような物から出て来るんだ、我々の思想や感情だって――まあ、他は推して知るべしだね。」

 新田は前後左右に(うごめ)いている鼠の棒縞を見廻しながら、誰にと云う事もなく、喧嘩を吹きかけるような手真似をした。

        三十

 初子(はつこ)辰子(たつこ)とを載せた上野行(うえのゆき)の電車は、半面に春の夕日を帯びて、静に停留場(ていりゅうば)から動き出した。俊助(しゅんすけ)はちょいと角帽(かくぼう)をとって、窓の内の吊皮(つりかわ)にすがっている二人の女に会釈(えしゃく)をした。女は二人とも微笑していた。が、殊に辰子の眼は、微笑の(うち)にも憂鬱な光を湛えて、じっと彼の顔に注がれているような心もちがした。彼の心には刹那(せつな)の間、あの古ぼけた教室の玄関に、雨止(あまや)みを待っていた彼女の姿が、稲妻(いなずま)のように閃いた。と思うと、電車はもう速力を早めて、窓の内の二人の姿も、見る見る彼の眼界を離れてしまった。

 その後を見送った俊助は、まだ一種の興奮が心に燃えているのを意識していた。彼はこのまま、本郷行(ほんごうゆき)の電車へ乗って、索漠(さくばく)たる下宿の二階へ帰って行くのに忍びなかった。そこで彼は夕日の中を、本郷とは全く反対な方向へ、好い加減にぶらぶら歩き出した。賑かな往来は日暮(ひぐれ)が近づくのに従って、一層人通りが多かった。のみならず、飾窓(ショウウインドウ)の中にも、アスファルトの上にも、あるいはまた並木の(こずえ)にも、至る所に春めいた空気が動いていた。それは現在の彼の気もちを直下(じきげ)に放出したような外界だった。だから町を歩いて行く彼の心には、夕日の光を受けながら、しかも夕日の色に染まっていない、頭の上の空のような、微妙な喜びが流れていた。………

 その空が全く暗くなった頃、彼はその通りのある珈琲店(カッフェ)で、食後の林檎(りんご)()いていた。彼の前には硝子(ガラス)の一輪挿しに、百合(ゆり)の造花が挿してあった。彼の後では自働ピアノが、しっきりなくカルメンを鳴らしていた。彼の左右には幾組もの客が、白い大理石の卓子(テエブル)を囲みながら、綺麗(きれい)に化粧した給仕女と盛に饒舌(しゃべ)ったり笑ったりしていた。彼はこう云う周囲に身を置きながら、癲狂院(てんきょういん)の応接室を領していた、(ものう)い午後の沈黙を思った。室咲(むろざ)きの薔薇(ばら)、窓からさす日の光、かすかなピアノの響、伏目になった辰子の姿――ポオト・ワインに暖められた心には、そう云う快い所が、代る代る浮んだり消えたりした。が、やがて給仕女が一人、紅茶を持って来たのに気がついて、何気(なにげ)なく眼を林檎から離すと、ちょうど入口の硝子戸が()いた所で、しかもその入口には、黒いマントを着た大井篤夫(おおいあつお)が、燈火(ともしび)の多い外の夜から、のっそりはいって来る所だった。

「おい。」

 俊助は思わず声をかけた。と、大井は驚いた視線を挙げて、煙草の煙の立ちこめている珈琲店(カッフェ)の中を見廻したが、すぐに俊助の顔を見つけると、

「やあ、妙な所へ来ているな。」と云いながら、彼の卓子(テエブル)の向うへ歩み寄って、マントも脱がずに腰を下した。

「君こそ妙な所が御馴染(おなじみ)じゃないか。」

 俊助はこう冷評(ひやか)しながら、大井に愛想(あいそ)を売っている給仕女を一瞥(いちべつ)した。

「僕はボヘミヤンだ。君のようなエピキュリアンじゃない。到る処の珈琲店(カッフェ)酒場(バア)、ないしは(くだ)って縄暖簾(なわのれん)(たぐい)まで、ことごとく僕の御馴染(おなじみ)なんだ。」

 大井はもうどこかで一杯やって来たと見えて、まっ赤に顔を火照(ほて)らせながら、こんな下らない気焔を挙げた。

        三十一

「但し御馴染(おなじみ)だって、借のある所にゃ近づかないがね。」

 大井(おおい)は急に調子を下げて、嘲笑(あざわら)うような表情をしたが、やがて帳場机の方へ半身を《ね》じ向けると、

「おい、ウイスキイを一杯。」と、横柄(おうへい)な声で命令した。

「じゃ、至る所、近づけなかないか。」

莫迦(ばか)にするな。こう見えたって――少くとも、この(うち)へは来ているじゃないか。」

 この時給仕女の中でも、一番背の低い、一番子供らしいのがウイスキイのコップを西洋盆(サルヴァ)へ載せて、大事そうに二人の所へ持って来た。それは(くく)(あご)の、眼の大きい、白粉(おしろい)の下に琥珀色(こはくいろ)皮膚(ひふ)()いて見える、健康そうな娘だった。俊助(しゅんすけ)はその給仕女がそっと大井の顔へ親しみのある()なざしを送りながら、盛りこぼれそうなウイスキイのコップを卓子(テエブル)の上へ移した時、二三日前に郁文堂(いくぶんどう)であの土耳其帽(トルコぼう)藤沢(ふじさわ)が話して聞かせた、最近の大井の情事なるものを思い出さずにはいられなかった。と、果して大井も臆面(おくめん)なく、その給仕女の方へまっ赤になった顔を向けると、

「そんなにすますなよ。僕が来て嬉しかったら、遠慮なく嬉しそうな顔をするが好いぜ。こりゃ僕の親友でね、安田(やすだ)と云う貴族なんだ。もっとも貴族と云ったって、爵位なんぞがある訳じゃない。ただ僕よりゃ少し金があるだけの違いなんだ。――僕の未来の細君、お(ふじ)さん。ここの家じゃ、まず第一の美人だね。もし今度また君が来たら、この人にゃ特別に沢山ティップを置いて行ってくれ。」

 俊助は煙草に火をつけながら、微笑するよりほかはなかった。が、娘はこの種類の女には珍しい、純粋な羞恥(しゅうち)の血を頬に上らせながら、まるで弟にでも対するように、ちょいと大井を()めると、そのまま派手な銘仙(めいせん)(たもと)(ひるがえ)して、(そうそう)帳場机の方へ逃げて行ってしまった。大井はその後姿(うしろすがた)を目送しながら、わざとらしく大きな声で笑い出したが、すぐに卓子(テエブル)の上のウイスキイをぐいとやって、

「どうだ。美人だろう。」と、冗談のように俊助の賛同を求めた。

「うん、素直そうな好い女だ。」

「いかん、いかん。僕の云っているのは、お(ふじ)の――お藤さんの肉体的の美しさの事だ。素直そうななんぞと云う、精神的の美しさじゃない。そんな物は大井篤夫(おおいあつお)にとって、あってもなくっても同じ事だ。」

 俊助は相手にならないで、埃及(エジプト)の煙ばかり鼻から出していた。すると大井は卓子(テエブル)越しに手をのばして、俊助の鼈甲(べっこう)の巻煙草入から金口(きんぐち)を一本抜きとりながら、

「君のような都会人は、ああ云う種類の美に盲目(もうもく)だからいかん。」と、妙な所へ攻撃の火の手を上げ始めた。

「そりゃ君ほど烱眼(けいがん)じゃないが。」

「冗談じゃないぜ。君ほど烱眼じゃないなんぞとは、僕の方で云いたいくらいだ。藤沢のやつは、僕の事を、何ぞと云うとドン・ジュアン呼ばわりをするが、近来は君の方へすっかり御株を取られた形があらあね。どうした。いつかの両美人は?」

 俊助は何を()いても、この場合この話題が避けたかった。そこで彼は大井の言葉がまるで耳へはいらないように、また談柄(だんぺい)をお藤さんなる給仕女の方へ持って行った。

        三十二

「幾つだ、あのお(ふじ)さんと云うのは?」

行年(ぎょうねん)十八、寅の八白(はっぱく)だ。」

 大井(おおい)はまた新に註文したウイスキイをひっかけながら、高々と椅子(いす)の上へあぐらをかいて、

「年まわりから云や、あんまり素直でもなさそうだが、――まあ、そんな事はどうでも好い、素直だろうが、素直でなかろうが、どうせ女の事だから、退屈な人間にゃ相違なかろう。」

「ひどく女を軽蔑(けいべつ)するな。」

「じゃ君は尊敬しているか。」

 俊助(しゅんすけ)は今度も微笑の(うち)に、韜晦(とうかい)するよりほかはなかった。と、大井は三杯目のウイスキイを前に置いて、金口の煙を相手へ吹きかけながら、

「女なんてものは退屈だぜ。(かみ)は自動車へ乗っているのから(しも)は十二階下に巣を食っているのまで、突っくるめて見た所が、まあ精々十種類くらいしかないんだからな。嘘だと思ったら、二年でも三年でも、滅茶滅茶に道楽をして見るが()い。すぐに女の種類が尽きて、面白くも何ともなくなっちまうから。」

「じゃ君も面白くない方か。」

「面白くない方か? 冗談(じょうだん)だろう。――いや、皮肉なら皮肉でも好い。面白くないと云っている僕が、やっぱりこうやって女ばかり追っかけている。それが君にゃ莫迦(ばか)げて見えるんだろう。だがね、面白くないと云うのも本当なんだ。同時にまた面白いと云うのも本当なんだ。」

 大井は四杯目のウイスキイを命じた頃から、次第に平常の傲岸(ごうがん)な態度がなくなって、酔を帯びた眼の中にも、涙ぐんでいるような光が加わって来た。勿論俊助はこう云う相手の変化を、好奇心に富んだ眼で眺めていた。が、大井は俊助の思わくなぞにはさらに頓着しない容子(ようす)で、五杯六杯と続けさまにウイスキイを(あお)りながら、ますます熱心な調子になって、

「面白いと云うのはね、女でも追っかけていなけりゃ、それこそつまらなくってたまらないからなんだ。が、追っかけて見た所で、これまた面白くも何ともありゃしない。じゃどうすれば好いんだと君は云うだろう。じゃどうすれば好いんだと――それがわかっているぐらいなら、僕もこんなに寂しい思いなんぞしなくってもすむ。僕は始終僕自身にそう云っているんだ。じゃどうすれば好いんだと。」

 俊助は少し持て余しながら、冗談のように相手を(やわら)げにかかった。

()れられるさ。そうすりゃ、少しは面白いだろう。」

 が、大井は(かえ)って真面目な表情を眼にも眉にも動かしながら、大理石の卓子(テエブル)拳骨(げんこつ)で一つどんと叩くと、

「所がだ。惚れられるまでは、まだ退屈でも我慢がなるが、惚れられたとなったら、もう万事休すだ。征服の興味はなくなってしまう。好奇心もそれ以上は働きようがない。(あと)に残るのはただ、恐るべき退屈中の退屈だけだ。しかも女と云うやつは、ある程度まで関係が進歩すると、必ず男に惚れてしまうんだから始末が悪い。」

 俊助は思わず大井の熱心さに釣りこまれた。

「じゃどうすれば好いんだ?」

「だからさ。だからどうすれば好いんだと僕も云っていたんだ。」

 大井はこう云いながら、殺気立った眉をひそめて、七八杯目のウイスキイをまずそうにぐいと飲み干した。

        三十三

 俊助(しゅんすけ)はしばらく口を(つぐ)んで、大井(おおい)の指にある金口(きんぐち)がぶるぶる震えるのを眺めていた。と、大井はその金口を灰皿の中へ抛りこんで、いきなり卓子(テエブル)越しに俊助の手をつかまえると、

「おい。」と、切迫した声を出した。

 俊助は返事をする代りに、驚いた眼を挙げて、ちょいと大井の顔を見た。

「おい、君はまだ覚えているだろう、僕があの七時の急行の窓で、女の見送り人に手巾(ハンケチ)を振っていた事があるのを。」

「勿論覚えている。」

「じゃ聞いてくれ。僕はあの女とこの間まで同棲していたんだ。」

 俊助は好奇心が動くと共に、もう好い加減にアルコオル性の感傷主義(センティメンタリズム)は御免を蒙りたいと云う気にもなった。のみならず、周囲の卓子(テエブル)を囲んでいる連中が、さっきからこちらへ迂散(うさん)らしい視線を送っているのも不快だった。そこで彼は大井の言葉には曖昧(あいまい)な返事を与えながら、帳場の側に立っているお(ふじ)に、「来い」と云う相図(あいず)をして見せた。が、お藤がそこを離れない内に、最初彼の食事の給仕をした女が、急いで卓子(テエブル)の前へやって来た。

勘定(かんじょう)をしてくれ。この(かた)の分も一しょだ。」

 すると大井は俊助の手を離して、やはり眼に涙を湛えたまま、しげしげと彼の顔を眺めたが、

「おい、おい、勘定を払ってくれなんていつ云った? 僕はただ、聞いてくれと云ったんだぜ。聞いてくれりゃ好し、聞いてくれなけりゃ――そうだ。聞いてくれなけりゃ、さっさと帰ったら好いじゃないか。」

 俊助は勘定をすませると、新に火をつけた煙草を(くわ)えながら、(いたわ)るような微笑を大井に見せて、

「聞くよ。聞くが、ね、我々のように長く坐りこんじゃ、ここの(うち)も迷惑だろう。だから一まず外へ出た上で、聞く事にしようじゃないか。」

 大井はやっと納得(なっとく)した。が、卓子(テエブル)を離れるとなると、彼は口が達者なのとは反対に、(すこぶ)る足元が蹣跚(まんさん)としていた。

「好いか。おい。危いぜ。」

「冗談云っちゃいけない。高がウイスキイの十杯や十五杯――」

 俊助は大井の手をとらないばかりにして、入口の硝子戸(ガラスど)の方へ歩き出した。と、そこにはもうお(ふじ)が、大きく硝子戸を()けながら、心配そうな眼を見張って、二人の出て来るのを待ち受けていた。彼女はそこの天井から下っている支那燈籠(しなどうろう)の光を浴びて、最前(さいぜん)よりはさらに子供らしく、それだけ俊助にはさらに美しく見えた。が、大井はまるでお藤の存在には気がつかなかったものと見えて、(たくまし)い俊助の手に背中を抱えられながら、口一つ()かずにその前を通りすぎた。

難有(ありがと)うございます。」

 大井の(あと)から外へ出た俊助には、こう云うお藤の言葉の中に、彼の大井に対する厚情を感謝しているような響が感じられた。彼はお藤の方を振り返って、その感謝に答うべき微笑を送る事を(おし)まなかった。お藤は彼等が往来へ出てしまってからも、しばらくは(あかる)い硝子戸の前に(たたず)みながら、白い前掛(エプロン)の胸へ両手を合せて、次第に遠くなって行く二人の後姿を、懐しそうにじっと見守っていた。

        三十四

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