おさん

1話 一の一

1,296字 約3分 2022年6月22日 公開

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 これ本当のことなの、本当にこうなっていいの、とおさんが云った。それは二人が初めてそうなったときのことだ。そして、これが本当ならあした死んでも本望だわ、とも云った。言葉にすればありきたりで、いまさらという感じのものだろうが、そのときおさんは全身で哀れなほどふるえてい、歯と歯の触れあう音がしていた。世間にはありふれていることではあっても、それは人間が一生にいちど初めて口にする、しんじつで混りけのない言葉であった。おれはごく平凡な人間だった。職人の中でも「床の間大工」といわれ、床柱とか欄間(らんま)、または看板とか飾り板などに細工彫りをするのが職で、大茂の参太といえば相当に知られた名だとうぬぼれていた。行状だってちっとも自慢することはない、素人(しろうと)の娘、ひとのかみさん、なか(新吉原)には馴染(なじみ)もいたし品川も知っている、酔ったときにはけころと寝たこともあるくらいで、ただ、しんそこ惚れた相手がなかった、というのが取り得といえばいえたかもしれない。としは二十四、仕事が面白くなりだしたときだから、女のことなどはどっちでもよかった。おさんは大茂の帳場で中(なか)どんを勤めていた。吉原の若い衆の呼び名のようであるが、「中ばたらき」というくらいの意味だろう、いってみれば奥と職人とをかけもちで、茶をはこんだり、弁当の世話をするくらいで、それほど親しく知りあってはいなかった。あとで聞くと、おさんのほうではまえからおれのことが好きで、自分の気持を知ってもらいたいために、いろいろじつをつくしたということだ。そう云われてもおれにはなにも思いだせなかった。ちょっときれいな女だな、くらいなことは思ったろうが、自分が好かれているなどということはまったく気がつかなかった。それが十月十日の晩、ひょっとしたでき心でそうなってしまったのだ。その夜は親方の家で祝いがあった。親方とおかみさんが夫婦になってから、ちょうど十二年めに男の子が生れ、お七夜に親類や組合なかまや、町内の旦那たちや、大茂から出た棟梁(とうりょう)たちが招かれた。派手なことの嫌いな親方だが、よっぽどうれしかったんだろう、おれたちはじめ追い廻しの者にまで、八百政(やおまさ)の膳が配られ、酒が付けられた。おれはなかまでも酒に強いほうだから、いい気になって飲んでいるうちに酔いつぶれてしまい、眼がさめてみると側におさんがいた。おれが手を伸ばすと、おさんの躯(からだ)はなんの抵抗もなくおれの上へ倒れかかってきた。そしてあれが起こったのだ、おれが抱き緊(し)めて、まだそれ以上になにをするつもりもなかったとき、おさんの躯の芯のほうで音がした。音とはいえないかもしれない、水を飲むときに喉がごくっという、音とも波動ともわかちがたい音、抱き緊めているおれの手に、それがはっきり感じられたのだ。おれはそれで夢中になった。おどろくほどしなやかで柔らかく、こっちの思うままに撓(しな)ううぶな躯の芯で、そんなに強く反応するものがある、ということがおれを夢中にしてしまったらしい。そして、終ったとも思えないうちにおさんが云ったのだ。これ本当のことなの、本当にこうなってしまっていいの。全身でふるえ、力いっぱいしがみつきながら……。

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