2話 脳髄の断崖
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高橋少年を不思議がらせた老紳士は、会議が終ると、陸軍省の自動車によって、鄭重に自宅まで送りとどけられた。
老紳士は自動車の客席におさまると、何かブツブツひとりごとを云いながら、じっとしていられないように、しきりと身動きをした。果ては狭い車内に立ち上ろうとでもするように、幾度も腰を上げては、天井で頭を打った。自動車が急に曲った時などは、客席の床に尻餅をついたほどである。
会議室では老紳士はニヤニヤ笑っているばかりで、興奮していたのは他の六人の高官達であったが、今や老紳士自身が興奮しはじめ、まるで酔っぱらいのようにもがき狂っているのだ。狂いながらも、彼は大事そうに小脇に抱えた大きな折鞄を、決して手離さなかった。その中には余程大切なものが入っているのに相違ない。
車上の人の狂態にはお構いなく、間もなく車は麻布区××町の古い屋敷町に着いていた。そして、とある横丁の生垣に囲まれた住宅の、低い石門の前に停車した。表札には、「五十嵐東三」とある。
自動車を帰すと、老紳士は躍るような足どりで自宅の玄関に辿りついた。いつもとはまるで様子の違う主人を、びっくりして出迎えている女中に、
「新一はいるか。ウン、いるなら、すぐわしの書斎へ来るように云ってくれ。大事な話があるからとな。いいか、すぐにだよ」
といい捨てて、着換えもせずに奥まった書斎へ急いだ。
しっかり抱えていた大きな折鞄を、ドサリと机の上に置いて、廻転椅子に腰かけたが、腰かけたかと思うと、すぐにまた立ち上って、書斎の中をグルグルと歩き廻る。歩きながら、まるで演説でもしているように、両手を顔の前で振り動かすのだ。
「お帰りなさい」
開け放しの扉の外に、二十五六歳の青年が立っていた。老紳士とは似てもつかぬ整った顔立ちの、非常に色の白い青年である。銘仙飛白の袷をキチンと着て、素足にスリッパを穿いている、その足が女のように白くて美しい。
「ウン、新一か。お前に話があるんだ。お母さんはどうしている。寝ているのか」
「エエ、まだとても起きられませんよ。もう二三日は寝かせておかなくっちゃ」
「ウン、あれの持病にも困ったもんだな。しかし、そんなことはマアどうでもいい。お前に話があるんだ。今夜は、お前に一大事を打ちあけなくちゃならん。お前は明日から警視庁の翻訳係をやめるんだ。いいか。そして、わしの助手をやって貰わなくちゃならん」
「エ、勤めをやめるって?」
新一はあっけにとられて、まるで別人のようにはしゃいでいる父の顔を眺めた。彼は今まで父にこんな躁狂的な多弁な半面があろうとは、少しも知らなかったのである。
「ウン、マアいいからそこへ坐れ。話があるんだ。びっくりするような話があるんだ。お前がびっくりするばかりじゃないよ。日本中がびっくりするんだ。イヤ、世界中がびっくりするんだ」
新一は長椅子に腰をおろして、心配らしく父の顔を見つめた。五十嵐氏はその前を行ったり来たりしながら、狂人のように喋べりつづける。
「新一、お前は顔がお母さんに似ているばかりじゃない。心持もお母さんそっくりだ。わしとは顔も性格もまるで違う。何となくうちとけない親子だった。お前とはついぞしみじみと話をしたこともなかった。だが、今夜は何もかも打ちあける。新一、お前もお母さんも、このわしが何者であるか、少しも知ってはいないのだ。むろん、七年前、城東航空機製作所をやめるまでの、工学博士五十嵐東三については、お前達もよく知っていた。しかし、その後わしが何をしていたか、現在のわしが何者であるか、同じ家に住んでいながら、お前達は、まるで知らないのだ。
わしはこの七年間、お前達からも、友達からも気違い扱いを受けて来た。頭が変になった失職技師として物笑いの的になって来た。世間の凡人共の目には、わしは正に一人の気違い親爺にすぎなかったのだ。彼等には偉大なる夢を理解する力がなかった。彼等は一に二をたせば三だとしか考えられないのだ。それが八にも十にもなり得ることを知らぬのだ。おこがましいことを云うようだが、わしが世間から受けた軽蔑は、コペルニクスが当時の世間から受けた軽蔑と同じものであったのだ」
新一は目を丸くして、狂ったような父の饒舌を聴いていた。日頃控え目で黙り屋の父が、こんな誇大妄想狂のような熱弁を振おうとは、全く思いもかけぬことであった。夢でも見ているのではないかと、わが目わが耳を疑う外はなかった。
五十嵐老博士は、まだ長椅子の前を右に左に歩きつづけながら、顔を赤らめ、目を輝かせ、二十歳の青年の情熱をもって、止めどもないお喋べりをつづけるのであった。
「新一、お前は語学の方をやったのだから、数学には暗い。わしの専門のことは理解する力がない。だが、わし達科学者の任務がどこに在るかは知っているだろう。それは不可能を可能にすることだ。昔の人間は鳥の飛翔力に憧れた。人間が自在に空を飛び得たらという不可能な夢を抱いた。科学者は、その不可能を可能にしたのだ。
鳥以上の速さで空を飛び得るようになると鳥などという生物を相手にしないで、今度は音という無生物を競争者とした。世界中の科学者が、音の速度をのりこすために脂汗を絞っている。人間の力で音の速度をしのいだものは、今のところ砲弾ばかりだが、飛行機は砲弾の早さに憧れているのだ。音よりも早く飛ぶということは、うしろの物音は絶対に聴くことが出来ないということだ。背中で爆弾が破裂しても、その音が聞えないのだ。新一、この意味が分るかね。わしはうしろに音のない状態を創造するために、七年というもの夢中になって来たのだよ」
老博士はこの時、歩きつづけていた足を止めて、新一に隣り合って長椅子に腰をおろした。白皙長身の子と、白髪まじりの不精鬚につつまれた異相矮躯の父とは、まことに奇妙な対照である。
老人が聴手のとなりに腰かけたのは、声を低めるためであった。彼は一大事を打ちあけるかのごとく、突然圧し殺したようなささやき声になった。
「ところが、そういう苦労をしている間に、一つの奇蹟が起ったのだ。いいかね。凡庸な科学者の頭はいかに努力しても算術級数的にしか進まないものだ。航空機にのせる発動機の力を一千馬力から千五百馬力、二千馬力とじりじり増して行くということぐらいしか考えつけないのだ。
しかし、天才的な科学者の頭には、奇蹟がおこる。彼の能力は幾何級数的に進む。イヤ、それどころではない、断崖的に進むことがあるのだ。全く常識では想像もおよばないような奇蹟的着想を掴むことがあるのだ。誰でも知っている歴史上の例を上げれば、コペルニクスがそうだ。ダーウィンがそうだ。アインシュタインがそうだ。
生物の進化は、一から二と算術級数的にじりじり進むものだが、時としては断崖的進化の起ることがある。進化論では、これを突然変異といっているが、それがつまり奇蹟なのだ。その奇蹟が、脳髄の奇蹟が、新一、このわしに起ったのだよ。
いいかね。わしは音波の速度と競走することをやめて、光波と競走しだしたのだ。むろん、音などとは比較にならぬ速度を持っている光に追いつくことは、まだ遠い夢にすぎないが、兎も角そこに一つの飛躍が起ったのだ。光と同じ早さで飛ぶということが何を意味するかお前に分るかね。それは飛んでいる当人には、この世の時間というものが無くなることなのだ。若し光を追い越す早さで飛べたならば、時間が逆転し出すのだ。歴史がさかさまになるのだ。弾丸が的から銃口に飛び帰るのだ。
あの超遠距離砲を発明したドイツ人が、弾道に成層圏を利用するという着想を得たのは、確かに断崖的飛躍であった。飛行機の速度を増すために通路を成層圏にもとめるという着想も、脳髄の奇蹟の一つだということができる。わしもむろん、それに無関心ではない。しかし、わしの考えは、動力そのものに集中されていたのだ。動力の突然変異だ。わしはその秘密をにぎった。
わしは砲弾よりも早い航空動力を発見した。もうわしの競争相手は光の外にはなくなったのだ。その機構はお前にさえ、まだ説明する時期ではない。またたとえ説明しても、お前には理解する力がないのだ。わしの頭の中でその機構が完成したのは、一年前のことであった。それを具体的な設計図にあらわすために、半年あまりを要したのだ。わしは夜の目も寝ないで、細かい数字と取り組んだ。あらゆる細部を再検討した。あとは、もう試作に着手するばかりとなった」
老博士の声はいよいよ低く、いよいよ力がこもって来た。
「今から三月ほど前、わしはこの設計図を、極秘の内に航空技術本部の最高技術官に見せたが、その男をすっかり納得させるのに一ヶ月半もかかったのだ。わしはその男の私宅にお百度をふんで、人を遠ざけた部屋で二人さし向いになって、幾晩も議論を戦わせた。細かい数字の計算をやった。その結果、流石に疑い深いその男も、とうとうわしの設計が確実無比であることを承認した。もっとも優秀な専門家を納得させるのにさえ、それだけの手数と時間を要したのだよ。
わしの設計を確認した時、その男は、本田という少将の工学博士だが、丁度さいぜんわしがしていたように、わしの目の前で部屋の中をグルグル歩きまわった。そして、何度も両手を振り上げて、えたいの知れぬわめき声を立てたものだ。
それから、この試作計画を国家が採用するまでに、また一ヶ月半の手間がかかった。本田少将が関係方面の最高首脳者を説得してくれたのだが、誰も急には信用しなかった。それほどわしの新動力は断崖的着想なのだ。不可能の幕が一枚ずつはがれて、可能の実体を掴むために、聴手の頭は一世紀の飛躍をしなければならなかったのだ。
だが、とうとう今日の最終会議まで漕ぎつけることができた。わしは今日初めて陸軍大臣と参謀次長に会った。お二人とも、わしの着想については、予め聞いておられたが、何をいうにも専門家ではないのだから、いよいよ採用という決定を見るまでには、ずいぶん手数がかかった。今日も陸軍省の会議室で、三時間も費して理論の蒸し返しをやったものだ。むろん十分に分っていただくことはできなかったが、航空技術本部長と本田少将の裏書きが物をいって、最後の断案が下された。いくら費用がかかっても構わん、至急、試作に着手せよということであった。
しかしわしの設計図をそのまま使うわけには行かない。航空技術本部から、機構の細部について、いろいろな註文が出ている。それに全体としての航空機は、決してわしの能力で設計できるものではない。機体設計の専門家の助力を乞わなければならぬし、成層圏航空の権威者にも参加して貰わなければならぬ。完全な設計図ができるまでには、昼夜兼行でやっても二ヶ月はかかるのだ。その間、わしとわしの共働者のために、長野県の山奥にある或る貴族の別荘が貸し与えられることになった。
エ、新一、わしがこれほど興奮している意味が分るかね。陸軍大臣が顔色を変えたほんとうの意味が分るかね。わしの動力は、成層圏という無抵抗の通路を勘定に入れないでも、現にどこの国の飛行機でも飛んでいる亜成層圏を通るとしても、東京ニューヨーク間を五時間で飛べるのだよ。五時間だよ。エ、新一、あらゆる細部にわたる精密な計算がこれを確証しているのだ。本田少将がおどり出した意味がここにあるのだよ。
一千台の新爆撃機が、翼を揃えてニューヨークの空に殺到する日を考えてごらん。ロンドンの空を蔽う時を考えてごらん。国民が快哉を絶叫する声が聞えるようじゃないか。そこでこのわしが何者であるかということが分ったかね。エ、新一、わしは一体何者だね」
老博士は椅子から立ち上って、また室内をグルグルと廻りはじめた。目に見えぬ敵に突撃でもするかのように、握り拳を打ちふりながら、いつまでも歩くことをやめなかった。