2話 二
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「私はもと/\アルジェリイ駐屯軍に召集されて、沙漠のなかの支隊から支隊へ連絡する伝令兵に選ばれてゐたのです。子供の時から足が強かつたものですから。――それで、私はいつの間にか長距離に適した人間になつたのです。」
エルアフイは部屋の中央にある、まるで野戦病院のそれのやうに簡素な寝台のうへに俯伏しながら、マッサージ師の肩越しに、ゆつくり話しはじめた。
「この私を思ひ出したのは、オラムピック準備委員会の委員をしてをられた外務省のS氏でした。Sさんは昔チュニス本隊付の大尉だつたのです。こんなわけで、私は勤務先きのマレシェルブ通りの自動車店からコロンブ競技場へ練習に引き出されたのです。」
「私にはお註文のやうな生ひ立ちのロマンスもありませんな。さきほどお話ししたやうに、砂と蠅のなかに育つたのですから。それに、特別に運動が好きになつた動機といふものもありませんよ。もと/\アルジェリイの人には静かな生活といふものはないのですから。たゞ私は小馬のやうに足が強かつた。それで白人の使ひ走りで小使銭をかせいでゐた。それだけです。――ですから、このやうな単調な話よりも、さつきの作家の先生との因縁話でもしませうか。――君にそれが何かお役に立てばよいが。――もう十二三年も前になりますか――」
頸すぢをマッサージ師に押されて、枕のなかに顔を埋めたので、エルアフイは一瞬間黙つた。しかし、それは遠い記憶を追ふ人にふさはしいものであつた。
「冬の或る晴れた昼さがりの事でした。村にたつた一つあるホテルの庭に入り込んでゐた私たちの子供仲間のアマタルが、突然土塀を乗り越え、息をきらせて村の広場へ逃げて来ました。私たちはその広場で石けりや力くらべをやつて遊んでゐたのです。私はてつきりアマタルが物を盗んで逃げて来たものと思ひました。ところが彼が懐から出したのは菓子と小銭が二スウでした。驚いたことに、その菓子とその銅銭とはホテルにゐる白人の夫婦が呉れたのださうです。それも忍び込んだところを見つかつたあげく、優しい言葉で呉れたのださうです。私たちは白人のこんな扱ひに出会つたことはありません。私たちの知つてゐる白人の旅行者はそんな優しい人間ではありません。」
「アマタルから聞いた話はかうなのです。――その夫婦はまことに物静かな夫婦でした。しかも新婚の若い夫婦でした。主人の方は旅行中に喀血してこのホテルにたどり着き、仰向けになつたまゝ長い間肺病の療養をしてゐるのださうです。生きるか死ぬかといふ病気であつたさうです。奇妙な事に普通の白人の習慣とは違つて、奥さんはあまりその傍に附き添つてゐないのです。気むつかしい主人が孤独を好むのださうです。奥さんはいつも控へ目に隣室の入口で編み物をしてゐたのです。こゝに盗み癖のあるアマタルの付け入る隙がある――と彼は思つたのです。
アマタルは仲間の私たちにも黙つて、幾日か辛抱強くホテルの土塀の上に寝そべりながら、機会を待つてゐました。そしてその日が来ました。それは静かな日曜日でした。日曜日の朝は、この若い奥さんは教会へミサに与かりに外出するのが習慣でした。朝の九時、奥さんはテラスから奥に入りました。青空がガラス戸一ぱいに映り、その陰で主人の方はぐつすり眠つてゐる様子でした。今だ、とアマタルは思ひました。そして塀を飛び降り、早足に庭を横切り、人気のない奥さんの部屋の入口の椅子のうへにある鋏をつかみました。ピカ/\光つた高価な鋏です。
その瞬間、アマタルは大きな笑ひ声を背中に浴びたのです。アマタルは幽霊に笑はれたかのやうな恐怖をうけ、身体がこはゞり、そのまゝ立ちすくみました。彼はガラス戸にうつる青空の影像のために眼がくらんでゐたのです。日陰に入つて彼は今、はじめてその大きなガラス戸のすぐ後ろの長椅子に起き直つてゐる寝衣姿の紳士から直視されてゐる事に気が附きました。痩せた面長の、アゴ鬚をつけた、大きな深い眼差の、そして背の高いフランス紳士でした。アマタルは狼狽して血の気を失ひました。彼の手から落ちた鋏は大きな音を立てて石畳に落ちました。そこへ、髪の手入れをしてゐた奥さんが馳けつけてアマタルの腕を掴みました。静かだが、厳しい掴み方でした。奥さんは、本当に静かだが、しかし厳しいカトリック信者だつたのです。奥さんはその朝、まだ教会に出かけてゐなかつたのです。
アマタルは警察に突き出されるものと覚悟して、すつかり首をうなだれました。ところが、主人の方は異常なほど眼をかゞやかし、溢れるやうな笑顔で奥さんに云ひました。
『マリイ、もう放しておやり。』
奥さんもアマタルもその声の優しさに驚いて主人を見つめました。
『これがアフリカだよ。御覧。』と主人は上機嫌で太陽の反射のつよい部屋を見まはしました。『この子の忍び足の工合はどうだ。鋏に飛びついた工合はどうだ。まるで、鷹が獲物をねらふ時の智恵とそつくり同じだよ。弱い兎が鷹に文句が云へないやうに、鋏を椅子のうへに放り出しておいた君はこの子に文句は云へないんだよ。あゝ、やつぱりこゝはアフリカだな。新世界だな。』彼は両手をあげ、一層声を高めました。『さあ、その手を放して、この子に小遣銭をおやりなさい。』
アマタルは背を丸めて恥ぢらひ、奥さんの手が銅銭と菓子とを彼の掌のなかに握らせてくれたと知ると、まつしぐらに逃げ出して塀を飛び越えました。」
「私たち村の子供はこの話を聞いて驚きました。これは変つてゐる。今までの白人の旅行者にはない振舞だと思ひました。そしてそれ以来われ/\は、毎日ホテルの土塀にのぼつては遠くに見える客室の様子を窺ふやうになりました。そのうちに、たうとう私は奥さんと近づきになりました。私の母が奥さんの洗濯物を引き受けるやうになつたからです。混血児の私の母はカトリック信者でフランス語を話したからです。そんな訳で、私も奥さんの使ひ走りをするやうになつたのです。私も母にフランス語を少しばかり教はつてゐましたから。」
「私は奥さんの用事を忠実に働くやうになりましたが、主人の方には最初のうち、どうも親しめませんでした。ところが、思ひがけない出来事のために、この主人にも親近感を持つやうになつたのです。
或る晩、駐屯軍の軍医が馬を飛ばしてホテルに来ました。主人の容態がよくないといふ事でした。軍医を迎へるホテルのガルソンの手にあるランプが赤黄ろくガラス戸の向ふに動くのを、私は重苦しい思ひで眺めてゐました。診断は長く続きました。すべての人の声が低く、すべての人の動作が控へ目でした。私は不吉なものを感じ、忍び足でテラスに近づき、石畳に腰をおろしてゐました。やがて人々の出て行く気配があり、馬の馳け去る蹄の音が街の外に消えました。しばらくして奥さんがひとり静かに戻つて来ました。奥さんはランプの一つを主人の枕元に置き、もう一つを手に捧げて主人を見守つてゐました。それで、私ははじめて照らし出される二人の顔を同時に見たのです。
一瞬間、奥さんが俯向いて主人の額に唇を近づけました。私は緊張しました。実を云ふと、われ/\村の子供は新婚旅行のこのやうな情景を幾度か面白がつてのぞき見したものです。
ところが、私は全く予期したものと違ふ声を聞きました。
『マリイ、わたしのために祈るのぢやないよ。』
冷やかな声でした。
『わたしのために祈るのぢやないよ。』
もう一度主人は繰り返しました。
『どうしてなの、アンドレ。』
『わたしは護りを受けるのは厭だ。』
『あなたひとりでは癒りませんわ。可哀想なアンドレ。』
長い沈黙がありました。私は庇のうへの高い/\星の流れを見上げてゐました。
『ぢやあ、仕方がないさ。』主人は寝返りを打つたやうです。『気のすむやうにしておくれ。』
『あなたのお頼りになるのは、何ですの。』
奥さんは低くとがめるやうに訊ねました。
『あなたのお頼りになるのは何ですの。』
二度目に奥さんが訊ねた時、前とは違つて泣き声に変つてゐました。私は何故か居たゝまれなくなつて、テラスを逃げ出しました。そして、吠えつく犬を叱り飛ばして土塀を飛び越えました。しかし、町中に出ると、私は妙に快活になりました。あの立派な髯を生やして傲然と構へてゐるパリの紳士が、信仰のことで奥さんにたしなめられてゐるのです。まるで私が母親から不信を叱られるやうに、あの紳士は奥さんから不信を歎かれてゐるのです。これは何といふ事だ。あの人も私と同じやうに教会で足をしびれさせるのは厭だといふ仲間だな。――これは野生児の私にとつては痛快な発見でした。私は透きとほつて見える高い星空の下で、主人と私との類似点を見つけたやうに思ひました。私ははじめてあの主人に親しみを抱きました。」