2話 その次の屈託
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日曜の朝、安達君は散髪屋へ行った。容姿端正ということは会社の勤務規定に書いてないけれど、現代青年は本能的にその努力をする。殊に安達君は几帳面の方だ。学生時代にも伸びるから伸びるまでゝなく、月一回と規則正しく定めていた。それを今回少し早目にしたのは矢張り就職気分の刺戟だった。
「旦那」
と床屋の主人がチョキ/\鋏を入れながら呼びかけた。
「何だい?」
「イヨ/\お勤めでお芽出度うございます」
「有難う。何うして分ったんだい?」
「吉川さんから承わりました」
「成程」
「これで陰ながら歯ぎしりをしていました。何しろ六年からのお得意さまです」
「長いことお世話になったね。学校へ入った時からだから」
「今後とも何分宜しく。御卒業御就職は結構ですが、早速お嫁さんを貰って、砧村あたりへお引っ越しになっちゃ困りますよ」
「ハッハヽヽ。砧村は好かったね」
「逆さまに読めばタヌキ村でさあ」
「成程。ハッハヽヽ」
「大丈夫ですか?」
「そんな遠っ走りはしないよ」
「遠っ走りをしないと仰有るところを見ると、近っ走りをなさる当てがあるんでしょう?」
「いや、当分現状維持だよ」
と安達君は話が余り個人的になるので、不図目を開いた。周囲を見廻したが、未だ早かったから、客は自分一人だった。
「旦那。俺はお世辞でも何でもなく、旦那に感心しているんですよ」
「何うして?」
「吉川さんのように歴乎とした御自分の家なら兎に角、六年間も同じところから通う大学生さんってものは滅多にありません。それ丈けでも旦那は人格者です」
「好くしてくれるから動かないのさ。何も意味はないんだ」
「綺麗な娘さんでもいるなら兎に角」
「ハッハヽヽ」
「しかし奥さんはナカ/\綺麗な人で、思い切って若作りですな」
「うむ。子供がないからね」
「一寸有閑マダムの方でしょう。よく出てお歩きになります」
「よく知っているんだね」
「こゝは電車への関門ですから、毎日見ています。それにチョク/\お顔を当りにお出になりますから」
「成程」
「余計なことを伺うようですが、お幾つですか? 美人と西洋人の年は何うも俺にはキッカリしたところが判りません」
「三十五だよ。僕と十違うんだから」
「それじゃ未だ本当にお若いんですな」
「若いとも。それだから小母さんというと厭がる。奥さんと呼んでくれって註文だ」
「それは当り前でしょう」
「夫婦ともよく物の分った人だよ」
「御主人は十年からのお得意さまです。好い人ですな」
「これこそ人格者だよ」
「書生さんを大学へ通わせるなんてことは一寸出来ない芸当です」
「えゝ?」
「俺は初めの中、あなたを大谷さんの甥御さんだとばかり思っていましたが、二三年前に泥棒が入った時の新聞で分りました。書生安達の談と出ていましたから」
と親方はその折の間違った記事をそのまゝ信じているのらしかった。泥棒が入ったけれど、安達君が目を覚したものだから何も取らないで逃げ出した。丁度巡査が通り合せて、泥棒と格闘が始まった。安達君は金盥を叩き鳴らして近所へ急を報じた。隣家の書生が出て来て手伝ったのだけれど、それがどう間違ったのか、安達君の武勇伝として新聞に現われたのである。
「書生じゃないんだよ、僕は」
「はゝあ」
「大谷さんは郷里の先輩だよ。僕は家から預けられているんだから、何方にしても頭が上らないんだけれど」
「然うですか? これは失礼申上げました」
「あれ以来方々で僕を書生だと思っているのらしい」
「しかしお手柄でしたな」
「何あに、金盥を叩いたばかりだ」
「それにしてもです」
「手柄でも何でもない」
「いや、下宿から通える身分でいながら、窮屈な監督を受けて、六年も御辛抱なさるところがお堅い証拠です。俺が会社の重役なら、そこへ直ぐに目をつけます。これで長年この稼業をやっていますから、人間ってものが判るんです」
「何うだかね。僕を書生だと思っていたんだから」
と安達君は尠からず不平だった。
そこへお客さんが来たものだから、親方は如才なく応対を始めた。しかしその間もチョキ/\/\と鋏は休ませない。口八丁手八丁だ。お客さんを職人に委せて置いて、又話し出す。
「旦那、斯うっと、何処まで申上げましたかな?」
「もう宜いよ」
「然う/\。相済みません。飛んだ粗相を申上げました。大失策です」
「何あに、構わないけれど」
「これでも人間は分る積りです。一口に散髪屋といっても、俺のところは高級で、それ、その、トンソリヤル・サルーンですから、インテリの頭ばかり扱います。インテリは頭が資本です。その資本を扱うからには、一種の資本家でしょう」
「好い加減にしてくれよ」
「数を手がけていると、恰好で分りますよ」
「何が?」
「頭の恰好で出世する人か、出世しない人か、将来が分ります」
「僕のは何うだい?」
「保険つきです。重役ですよ、この真黒な毛が悉皆禿げ落ちる時分には」
「それまで首が持つまい」
「大丈夫です。動いちゃいけません」
「動きはしないよ」
「いや、お勤めの話です。人間、動かないことが一番ですな。俺にしても、十何年こゝに腰を据えて動かなかったればこそ、お得意が固定して、もう押しも押されもしません。これでも組合へ行けば、幅利きの方ですよ。旦那も一つ腰を据えて、動かないで下さい」
「動かない積りだ」
「六年同じところからお通いになったんですから見込があります。一寸出来ない芸当ですよ。近所にいても時折気が変るものですが、旦那はそれがない。ズッと続けて俺のところです」
「何だい? 学校のことだと思ったら、散髪の話かい?」
「トンソリヤル・アーテストですから、散髪で世の中を見ているんです。始終散髪屋を更えるような人は一事が万事ですから、何処へ行っても長続きがしません。根を張る暇がなければ、草木にしても伸びずじまいで、早く枯れる勘定でございましょう」
「するとタヌキ村へは越せないね」
「もっての外です」
「仕方がない。この上とも、精々御厄介になろう」
「何分宜しく」
「ハッハヽヽ」
「早い話が其方の旦那は俺がこの店を出した頃からのお得意さまです。十何年というもの、頭の毛が薄くなるまで些っともお動きになりませんから、御出世が早くて、もう課長さんですよ」
「おい/\。人を店の宣伝に使うなよ」
と隣りの椅子の客がシャボン泡の中から、故障を申立てた。
「ヘッヘヽヽ」
「その上、頭の禿げたことなんか余計な話じゃないか?」
「恐れ入りました」
「未だそれほどでもない積りだ」
「ヘッヘヽヽ」
「おい。親方」
「何でございますか?」
「近所へ新店が出来たのを神経に病んでいるんじゃないかい?」
「先ずその辺かも知れません。何分宜しく」
と親方が本音を吹いたので、大笑いになった。
「何軒出来たって恐れることはない」
「へい」
「先方が余計勉強すれば、此方が負ける丈けの話だ」
「それじゃ困りますよ。先方は新店だから勉強を看板にするに定っています。此方は老舗だから、今更勉強なんかしたくありません」
「横着だね」
「勉強で勝つのは当り前でしょう」
「怠けていても負けない法を考えているのかい?」
「へい。頭を悩ましています」
「一つ相談に乗って、策を授けてやろうか?」
「何分宜しく」
「マネキンを置いちゃ何うだね? 素晴らしいのを。来るぜ」
「来たって、高くついたんじゃ勉強になります」
「いや、数さえ来れば引き合う。引き合いさえすれば、勉強にならないから、別に気の咎めることはあるまい」
「へい。しかしマネキンは高いでしょう?」
「五円ぐらいからある」
「いけません。五円頭を刎ねられるんじゃ気が咎めます。大勉強ですよ。商売が上ったりです」
「分らない男だな。その代り客が押しかけて来る。僕にしても、二度のところを三度も四度も来る」
「毎日五円取られるんですから、余っ程来て下さらなければ立ち行きません」
「カフェーへ行く代りだ。一晩置きに、来てやる」
「そんなに頭の毛があるお積りですか?」
「おい。打ん撲るぜ」
と客人も親方に劣らない達者ものだから、二人の遣り取りが面白かった。安達君は傾聴の役に廻った。元来親方の敵手でない。その中にお客さんが押しかけ始めた。日曜の朝を利用するのは大抵サラリーマンだ。それも親方が宣伝する通り、相応のところが多い。安達君は、兎に角もうこの連中の仲間入りをしたのだと思ったら、肩身が広かった。
家へ帰ると間もなく、大谷夫人が二階へ上って来て、
「安達さん、斯ういうお方がお見えになりました」
と名刺を取次いだ。村上君だった。
「友人です」
と安達君は立とうとした。
「先刻よ。もうお帰りになりましたの」
「はゝあ。失敬しちゃったな、これは」
「御散髪ってこと分っていましたが、初めてお見えになった方ですから、お留守と申上げてしまいました」
「嘘じゃないから宜いです。又来ましょう」
「保険会社の方ね」
「はあ」
「勧誘にお出になったんじゃありません?」
「それもあるんです」
「保険なら◎◎へお入り下さい。兄が勤めていますから精々御便宜を計らせます」
と奥さんは世話好きだ。
「いや、保険は何処でも金城鉄壁です」
「お入りになりません?」
「えゝ」
「今日は何処かへお出掛け?」
「さあ」
「お勤めが始まると、日曜は好いものでしょう?」
「えゝ」
「秋晴れで家にいるのは惜しいようね」
「はあ」
「安達さん」
「何ですか?」
「あなたは現金ね」
「何故ですか?」
「御就職のことで私が駈廻っていた間は下にも置かないようにして下すったのに、御用済みになれば生返辞ばかりですもの」
「占まった」
と安達君は慌てゝ立って、座蒲団を持って来て、
「奥さん、さあ、何うぞお敷き下さい」
と薦めた。
「オホヽヽヽ」
「忘れていたんですよ。もう一枚差上げましょうか?」
「まあ。オホヽヽヽ」
「全くお蔭さまです」
「お礼なんか仰有らなくても宜いのよ」
「漸く一人前になりました。会社の方も何うやら勤まりそうです」
「お勤まりになりますとも」
「そこで僕一つ奥さんにお願いして見ようかと思って考えていたことがあったものですから、つい失敬したんです」
「宜いのよ、もうそんなこと。御冗談に申上げたんですわ」
「実は僕、奥さんにお願いがあるんです。もう就職して一人前になったんですから、学生とは違います。交際上も不便だからって、友人が注意してくれましたから……」
「私、その方も疾うから考えていますのよ」
「何の方ですか?」
「お嫁さんでしょう?」
「ハッハヽヽ」
「この頃の若い人ってものは豪いんですわね。お顔一つ赤くもなさらないで、お頼みになるんですから」
「ハッハヽヽ」
「狡いのね、笑って誤魔化して」
「違うんですよ、奥さん」
「心得ていますから御安心下さい」
「本当に違うんですよ」
「何あに? それじゃ」
「僕の標札を門へ出させて戴きたいんです。名刺に書くのに、大谷方では如何にも居候のようで具合が悪いというんです」
「まあ。そんなこと?」
「はあ」
「お安い御用ですわ」
「御主人にも奥さんからお願いして置いて下さい」
「お願いも何もないじゃありませんか?」
「それじゃ早速出させて戴きます。実は先刻来た村上君の注意です。成程と思っていたところへ、今散髪屋で書生と間違えられました。六年間辛抱したと言って頻りに褒めてくれましたから、得意になっていたら、親方は僕をこゝの家の書生だと思っていたんです」
「まあ/\」
「矢っ張り僕は人間が地味に出来ているんでしょうね。普段小さくなっていることがこれで分ります」
「人聞きが悪いわ。大威張りのくせに」
「ハッハヽヽ」
「何か書生さんらしい御用をなすった覚えがあって?」
「部屋の掃除をします」
「それは御自分のお部屋ぐらいはね」
「朝、新聞を取って来ることがあります」
「その外は縦のものを横にもなさいませんわ」
「ハッハヽヽ」
「主人や主婦に就職運動をさせる書生さんがありますか?」
「重々恐れ入りました」
「到頭降参なさいましたわね」
「決して徒疎かに思っていません。お世話序にこの上とも何分宜しくお願い申上げます」
「御冗談は兎に角、お勤め口がお定りになって一段落ついたんですから、今度はその次の問題でございます」
「何ですか?」
「結婚問題」
「それは前途遼遠です。卒業してからまだ半年しかたっていません」
「でも小宮さんはどう?」
「小宮君だって未だ結婚はしていません」
「何うせお貰いになるんですから、好いのがあったら、早い方が宜いでしょう?」
「迚も/\。五十五円じゃ、お嫁さんの干物が出来てしまいます。未だ/\前途遼遠です」
「そこはお家でも、お考えになって下さいますわ。お父さんお母さんも早く御安心なさりたいんでございましょう。実は私、クレ/″\もお頼みを受けていますの」
「はゝあ」
「好いのがあったら勧めて下さいって」
「あるんですか?」
「えゝ。二人も三人も」
「本当ですか?」
「御覧なさい。前途遼遠が乗り出していらっしゃいましたわ」
と奥さんはナカ/\機敏だ。