爲替相場が金解禁準備の爲に漸次上つて來た。爲替相場が騰ることは日本の通貨の對外價値が上ることであるから外國から直接輸入せらるゝものは悉く値段が安くなる、一ヤール五圓の羅紗が五圓五十五錢であつたものが、爲替相場が上るに連れて五圓で其羅紗が買へるやうになる。消費者から見れば此上もない福音である。併ながら爲替相場が上る、それに連れて直接輸入する品物の價格が段々下ると云ふ道程を考へて見ると、此商品を取扱ふ商人或は商賣社會から云ふと、物價が漸次低落するときには、手持の品物ならば成たけ早く之を捌かう、又手持の品物を成たけ少くしよう、斯う云ふことは當然の結果と云はなくてはならぬ。手持の商品を少くすることは、商取引が減ることである。それだけ經濟界には不景氣を來すと云ふことである。それであるから爲替相場の上る道程に於ては不景氣は已むを得ない現象であつた。併ながら今日は金解禁によつて爲替相場が既に頂上まで騰貴をしたのであるから、爲替相場の騰る爲の經濟界の不景氣は既に過去の事實になつたと見てよろしいのである。今後此意味から來る不景氣はないと考へて宜からうと思ふ。世の中に金解禁が出來たならば、經濟界に一時の景氣が出て來はしないかと言ふ人があるが、それは即ち過去六箇月間爲替相場の上る爲に、從て物價の下る爲に、成るたけ手持の商品を減じて居つたが、既に爲替相場が上つてしまつて、其方面から來る物價低落がなくなつたからして、最早安心して手持を殖すことが出來る、即ち商取引が殖える、斯う云ふことを意味する次第である。私は日本の今日の經濟界は金解禁が出來たからと云つて、掌を返す如く景氣が出て來やうとは考へぬ。併ながら今言ふ説は私が茲に説明して居る半面の事實を語るものと見て宜からうと思ふのである。
金解禁が我國の輸出貿易にどんな影響を與へるかと云ふと爲替相場が下落する道程に於ては日本品の賣値は同一であつてもこれを輸入する國の貨幣での買値は段々低落するのであるから買手は買ひ易くなる譯である。外國市場に於て他國品と競爭の位置にある場合に爲替相場の下落の爲めに日本品が競爭に打ち勝つて多く賣れることは時々經驗した處である。又反對に爲替相場が騰貴の道程にある場合には日本品の賣値を下げずに同一としておくには輸入國の貨幣買値を段々引上げて高く買はすことになるのであるから商賣がし惡くなることは事實である。例へば昨年の七月二日に日本の標準生糸百斤の横濱相場は千三百二十圓であつて、其の日の對米爲替相場は四十四弗八分の一であつたから、米國ではこれが五百八十二弗四十五仙であるが、其の後對米爲替相場は金解禁後の今日に於ては四十九弗四分の一に騰貴したから、若し今日日本に於て昨年七月二日と同じ千三百二十圓の相場とすれば、これは六百五十弗十仙に相當するので、米國に於ては日本生糸の買値が騰貴する譯であるから商賣はし惡くなることになる。それで日本に於ける賣値は安くなる道理であるが併し事實は爲替相場の騰貴する丈は輸出品の賣値が低落するものではないのである。昨年七月金解禁準備に着手以來の生糸貿易の實況を見ると、
七月 二日 四十四弗八分の一 千三百二十圓
十五日 四十五弗四分の一 千二百七十圓
八月 十日 四十六弗二分の一 千二百九十圓
九月十三日 四十六弗八分の五 千三百五十圓
十月十五日 四十七弗八分の五 千二百八十五圓
十二月卅一日 四十九弗 千百七十圓
七月から八月に懸けて生糸相場は多少低落した、併し爲替相場の騰貴した割合には低落せざるのみならず七月以來常に非常な好賣行であつて爲替相場は漸次騰貴するに拘らず九月に入りては千三百五十圓となつたのである。然るに十月初旬より米國證劵市場は不安定の状況となり遂に十一月に入りては大紛亂を惹起するに至つた。米國經濟界全般には何等懸念すべき状態を認めざるも、人氣の中心たる證劵市場が大變動を來したことであるから勢ひ生糸相場にも波及して十月初旬より低下の趨勢となり、十一月下旬には千二百圓臺となり十二月には遂に千百圓臺となつた。爲替相場の騰貴にも拘らず糸價却て騰貴し賣行又良好なりしに米國證劵市場の不安定の爲め糸價下落したるは我國生糸貿易の爲め非常に遺憾とする處である。
又金解禁が我國の工業に與へる影響に付て見るに、我國に於ては對米爲替相場は大正十年以來平均二弗乃至三弗の下落にして、これは四分乃至六分の輸入關税と同樣の保護を或る種の工業に對して與へつゝあつたもので、金解禁によつて爲替相場が騰貴し又一定する爲めに過去數年間得つゝありしこの保護を失ふことゝなるが、斯くの如く其の國の貨幣價値の下落から來る保護は永續すべき性質のものにあらず、又一方に我國の經濟は立直しが出來て堅實なる基礎の上に立つのであるからこれより來る生産費の低減によりて失ふ處を償ふ丈けの用意と覺悟をなすべきことゝ考へるのである。