護持院原の敵討

2話 護持院原の敵討(2)

7,114字 約14分 2000年10月17日 公開

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 松坂の目代にこの顛末(てんまつ)を聞いた時、この坊主になった定右衛門の伜亀蔵が敵だと云うことに疑を挾(はさ)むものは、主従三人の中(うち)に一人もなかった。宇平はすぐに四国へ尋ねに往こうと云った。しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡ったかも知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国へもいずれ往くとして、先ず手近な土地から捜すが好いと云った。

 一行は松坂を立って、武運を祈るために参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国(せっつのくに)大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便(たより)があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病(きやみ)で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮(にしのみや)、兵庫(ひょうご)を経て、播磨国(はりまのくに)に入(い)り、明石(あかし)から本国姫路に出て、魚町(うおまち)の旅宿に三日いた。九郎右衛門は伜の家があっても、本意を遂げるまでは立ち寄らぬのである。それから備前国(びぜんのくに)に入り、岡山を経て、下山(しもやま)から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ四国へ渡った。松坂以来九郎右衛門の捜索方鍼(ほうしん)に対して、稍(やや)不満らしい気色を見せながら、つまりは意志の堅固な、機嫌に浮沈(うきしずみ)のない叔父に威圧せられて、附いて歩いていた宇平が、この時急に活気を生じて、船中で夜の更(ふ)けるまで話し続けた。

 十六日の朝舟は讃岐国丸亀(さぬきのくにまるがめ)に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山(ぞうずさん)へ祈願に登った。すると参籠人(さんろうにん)が丸亀で一癖ありげな、他所者(たしょもの)の若い僧を見たと云う話をした。宇平はもう敵を見附けたような気になって、亥(い)の刻に山を下った。丸亀に帰って、文吉を松尾から呼んで僧を見させたが、それは別人であった。

 伊予国(いよのくに)の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春(こはる)、今治(いまばり)に二日いて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、暑(あつさ)を侵(おか)して旅行をした宇平は留飲疝通(りゅういんせんつう)に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。大分体が好くなったと云って、中大洲(なかおおす)を二日捜して、八幡浜(やはたはま)に出ると、病後を押して歩いた宇平が、力抜けがして煩(わずら)った。そこで五日間滞留して、ようよう九州行の舟に乗ることが出来た。四国の旅は空(むな)しく過ぎたのである。

 舟は豊後国佐賀関(ぶんごのくにさがのせき)に着いた。鶴崎(つるさき)を経て、肥後国(ひごのくに)に入り、阿蘇山(あそさん)の阿蘇神宮、熊本の清正公(せいしょうこう)へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国(ひぜんのくに)島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代(やつしろ)を一日、南工宿(なんくじゅく)を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽(おんせんだけ)の下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎上筑後町(かみちくごまち)の一向宗(いっこうしゅう)の寺に、勧善寺と云うのがある。そこへ二十歳前後の若い僧が来て、棒を指南していると云うのである。一行は又長崎行の舟に乗った。

 長崎に着いたのは十一月八日の朝である。舟引地町(ふなひきじまち)の紙屋と云う家に泊って、町年寄(まちどしより)福田某に尋人(たずねにん)の事を頼んだ。ここで聞けば、勧善寺の客僧はいよいよ敵らしく思われる。それは紀州産(うまれ)のもので、何か人目を憚(はばか)るわけがあると云って、門外不出で暮していると云うのである。親切な町年寄は、若し取り逃がしてはならぬと云って、盗賊方二人(にん)を同行させることにした。町で剣術師範をしている小川某と云うものも、町年寄の話を聞いて、是非その場に立ち会って、場合に依っては助太刀がしたいと申し込んだ。

 九郎右衛門、宇平の二人は、大村家の侍で棒の修行を懇望(こんもう)するものだと云って、勧善寺に弟子入の事を言い入れた。客僧は承引して、あすの巳(み)の刻に面会しようと云った。二人は喜び勇んで、文吉を連れて寺へ往く。小川と盗賊方の二人とは跡に続く。さて文吉に合図を教えて客僧に面会して見ると、似も寄らぬ人であった。ようようその場を取り繕って寺を出たが、皆忌々(いまいま)しがる中に、宇平は殊(こと)に落胆した。

 一行は福田、小川等に礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が足痛を起して、杖(つえ)を衝(つ)いて歩くようになった。筑後国(ちくごのくに)では久留米(くるめ)を五日尋ねた。筑前国では先(ま)ず大宰府天満宮に参詣(さんけい)して祈願を籠め、博多(はかた)、福岡に二日いて、豊前国小倉(こくら)から舟に乗って九州を離れた。

 長門国(ながとのくに)下関に舟で渡ったのが十二月六日であった。雪は降って来る。九郎右衛門の足痛は次第に重るばかりである。とうとう宇平と文吉とで勧めて、九郎右衛門を一旦(いったん)姫路へ帰すことにした。九郎右衛門は渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国室津(むろのつ)に着いた。そしてその日のうちに姫路の城下平(ひら)の町(まち)の稲田屋に這入(はい)った。本意を遂げるまでは、飽くまでも旅中の心得でいて、倅の宅には帰らぬのである。

 宇平は九郎右衛門を送って置いて、十二月十日に文吉を連れて下関を立った。それから周防国(すおうのくに)宮市に二日いて、室積(むろづみ)を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国(あきのくに)宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国(びんごのくに)に入り、尾の道、鞆(とも)に十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞旁(かたがた)姫路に立ち寄った。

 宇平、文吉が姫路の稲田屋で九郎右衛門と再会したのは、天保六年乙未(きのとひつじ)の歳正月二十日であった。丁度その時広岸(こうがん)(広峯)山(ざん)の神主(かんぬし)谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。非人は石見産(いわみうまれ)だと云っていた。人に怪まれるのは脇差を持っていたからであった。しかし敵ではなかった。

 九郎右衛門の足はまだなかなか直らぬので、宇平は二月二日に文吉を連れて姫路を立って、五日に大阪に着いた。宿は阿波座(あわざ)おくひ町の摂津国屋(つのくにや)である。然るに九郎右衛門は二人を立たせてから間もなく、足が好くなって、十四日には姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。

 三人は摂津国屋に泊って、所々を尋ね廻るうちに、路銀が尽きそうになった。そこで宿屋の主人の世話で、九郎右衛門は按摩(あんま)になり、文吉は淡島(あわしま)の神主になった。按摩になったのは、柔術の心得があるから、按摩の出来ぬ筈はないと云うのであった。淡島の神主と云うのは、神社で神に仕えるものではない。胸に小さい宮を懸けて、それに紅(もみ)で縫った括猿(くくりざる)などを吊(つ)り下げ、手に鈴を振って歩く乞食(こじき)である。

 その時九郎右衛門、宇平の二人は文吉に暇(いとま)を遣ろうとして、こう云った。これまでも我々は只お前と寝食を共にすると云うだけで、給料と云うものも遣らず、名のみ家来にしていたのに、お前は好く辛抱して勤めてくれた。しかしもう日本全国をあらかた遍歴して見たが、敵はなかなか見附からない。この按排(あんばい)では我々が本意を遂げるのは、いつの事か分らない。事によったらこのまま恨(うらみ)を呑(の)んで道路にのたれ死をするかも知れない。お前はこれまで詞(ことば)で述べられぬ程の親切を尽してくれたのだから、どうもこの上一しょにいてくれとは云い兼ねる。勿論(もちろん)敵の面体(めんてい)を見識らぬ我々は、お前に別れては困るに違ないが、もはや是非に及ばない。只運を天に任せて、名告(なの)り合う日を待つより外はない。お前は忠実この上もない人であるから、これから主取(しゅうどり)をしたら、どんな立身も出来よう。どうぞここで別れてくれと云うのであった。

 九郎右衛門は兼て宇平に相談して置いて、文吉を呼んでこの申渡(もうしわたし)をした。宇平は側(そば)で腕組をして聞いていたが、涙は頬を伝って流れていた。

 黙って衝(つ)っ伏(ぷ)して聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭を擡(もた)げた。《みは》った目は異様に赫(かがや)いている。そして一声「檀那(だんな)、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、文吉は大凡(おおよそ)こんなことを言った。この度(たび)の奉公は当前(あたりまえ)の奉公ではない。敵討の供に立つからは、命はないものである。お二人が首尾好く本意を遂げられれば好し、万一敵に多勢の悪者でも荷担して、返討(かえりうち)にでも逢われれば、一しょに討たれるか、その場を逃れて、二重の仇(あだ)を討つかの二つより外ない。足腰の立つ間は、よしやお暇が出ても、影の形に添うように離れぬと云うのであった。

 さすがの九郎右衛門も詞の返しようがなかった。宇平は蘇(よみがえ)った思(おもい)をした。

 それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿(きちんやど)に起臥(おきふし)することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、只已(や)むに勝(まさ)る位の考で、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊(はいかい)していた。

 そのうち大阪に咳逆(がいぎゃく)が流行して、木賃宿も咳(せき)をする人だらけになった。三月の初に宇平と文吉とが感染して、熱を出して寝た。九郎右衛門は自分の貰った銭で、三人が一口ずつでも粥(かゆ)を啜(すす)るようにしていた。四月の初に二人が本復すると、こん度は九郎右衛門が寝た。体は巌畳(がんじょう)でも、年を取っているので、容体(ようだい)が二人より悪い。人の好い医者を頼んで見て貰うと、傷寒(しょうかん)だと云った。それは熱が高いので、譫語(うわこと)に「こら待て」だの「逃がすものか」だのと叫んだからである。

 木賃宿の主人が迷惑がるのを、文吉が宥(なだ)め賺(すか)して、病人を介抱しているうちに、病附(やみつき)の急劇であったわりに、九郎右衛門の強い体は少い日数(ひかず)で病気に打ち勝った。

 九郎右衛門の恢復(かいふく)したのを、文吉は喜んだが、ここに今一つの心配が出来た。それは不断から機嫌の変わり易(やす)い宇平が、病後に際立(きわだ)って精神の変調を呈して来たことである。

 宇平は常はおとなしい性(たち)である。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号(あだな)を附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風に靡(なび)くように、何事にも強く感動する。そんな時には常蒼(つねあお)い顔に紅(くれない)が潮(ちょう)して来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱(ちんうつ)になって頭を低(た)れ手を拱(こまね)いて黙っている。

 宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れていたが、今の様子はそれとも変って来ているのである。朝夕(ちょうせき)平穏な時がなくなって、始終興奮している。苛々(いらいら)したような起居振舞(たちいふるまい)をする。それにいつものような発揚の状態になって、饒舌(おしゃべり)をすることは絶えて無い。寧(むしろ)沈黙勝だと云っても好い。只興奮しているために、瑣細(ささい)な事にも腹を立てる。又何事もないと、わざわざ人を挑(いど)んで詞尻(ことばじり)を取って、怒(いかり)の動機を作る。さて怒が生じたところで、それをあらわに発動させずに、口小言を言って拗(す)ねている。

 こう云う状態が二三日続いた時、文吉は九郎右衛門に言った。「若檀那(わかだんな)の御様子はどうも変じゃございませんか」文吉は宇平の事を、いつか若檀那と云うことになっていた。

 九郎右衛門は気にも掛けぬらしく笑って云った。「若殿か。あの御機嫌の悪いのは、旨(うま)い物でも食わせると直るのだ」

 九郎右衛門のこう云ったのも無理はない。三人は日ごとに顔を見合っていて気が附かぬが、困窮と病痾(びょうあ)と羇旅(きりょ)との三つの苦艱(くげん)を嘗(な)め尽して、どれもどれも江戸を立った日の俤(おもかげ)はなくなっているのである。

 文吉がこの話をした翌日の朝であった。相宿(あいやど)のものがそれぞれ稼(かせぎ)に出た跡で、宇平は九郎右衛門の前に膝(ひざ)を進めて、何か言い出しそうにして又黙ってしまった。

「どうしたのだい」と叔父が云った。

「実は少し考えた事があるのです」

「なんでも好いから、そう云え」

「おじさん。あなたはいつ敵に逢えると思っていますか」

「それはお前にも分かるまいが、己(おれ)にも分からんのう」

「そうでしょう。蜘蛛(くも)は網(い)を張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹の極(き)まった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖(ぎょうこう)を当にしていつまでも待つのが厭(いや)になりました」

「随分己もお前も方々歩いて見たじゃないか」

「ええ。それは歩くには歩きましたが」と云い掛けて、宇平は黙った。

「はてな。歩くには歩いたが、何が悪かったと云うのか。構わんから言え」

 宇平はやはり黙って、叔父の顔をじっと見ていたが、暫くして云った。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前(あたりまえ)かも知れません。じっとして網を張っていたって、来て掛かりっこはありませんが、歩いていたって、打(ぶ)っ附(つ)からないかも知れません。それを先へ先へと考えてみますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてなりません」宇平は又膝を進めた。「おじさん。あなたはどうしてそんな平気な様子をしていられるのです」

 宇平のこの詞を、叔父は非常な注意の集中を以(もっ)て聞いていた。「そうか。そう思うのか。よく聴(き)けよ。それは武運が拙(つたな)くて、神にも仏にも見放されたら、お前の云う通だろう。人間はそうしたものではない。腰が起(た)てば歩いて捜す。病気になれば寝ていて待つ。神仏(しんぶつ)の加護があれば敵にはいつか逢われる。歩いて行き合うかも知れぬが、寝ている所へ来るかも知れぬ」

 宇平の口角には微(かす)かな、嘲(あざけ)るような微笑が閃(ひらめ)いた。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか」

 九郎右衛門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神仏(かみほとけ)だ」

 宇平の態度は不思議に恬然(てんぜん)としていて、いつもの興奮の状態とは違っている。「そうでしょう。神仏(かみほとけ)は分からぬものです。実はわたしはもう今までしたような事を罷(や)めて、わたしの勝手にしようかと思っています」

 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血が升(のぼ)って、拳(こぶし)が固く握られた。

「ふん。そんなら敵討は罷(やめ)にするのか」

 宇平は軽く微笑(ほほえ)んだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃありません。亀蔵は憎い奴ですから、若し出合ったら、ひどい目に逢わせて遣ります。だが捜すのも待つのも駄目ですから、出合うまではあいつの事なんか考えずにいます。わたしは晴がましい敵討をしようとは思いませんから、助太刀もいりません。敵が知れれば知れる時知れるのですから、見識人(みしりにん)もいりません。文吉はこれからあなたの家来にしてお使下さいまし。わたしは近い内にお暇をいたす積です」

 九郎右衛門が怒は発するや否や忽(たちま)ち解けて、宇平のこの詞(ことば)を聞いている間に、いつもの優(やさ)しいおじさんになっていた。只何事をも強(し)いて笑談(じょうだん)に取りなす癖のおじが、珍らしく生真面目(きまじめ)になっていただけである。

 宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時、叔父は「おい、待て」と声を掛けたが、宇平の姿はもう見えなかった。しかし宇平がこれきりいなくなろうとは、叔父は思わなかった。

 夕方に文吉が帰ったので、九郎右衛門は近所へ往って宇平を尋ねて来いと云った。宇平は折々町の若い者の象棋(しょうぎ)をさしている所などへ往った。最初は敵の手掛りを聞き出そうとして、雑談に耳を傾けていたのだが、後には只何となしにそこで話していたのである。文吉はそう云う家を尋ねた。しかしどこにもいなかった。その晩には遅くなるまで九郎右衛門が起きていて、宇平の帰るのを待ったが、とうとう帰らなかった。

 文吉は宇平を尋ねて歩いた序(ついで)に、ふと玉造豊空稲荷(たまつくりほうくういなり)の霊験(れいげん)の話を聞いた。どこの誰(たれ)の親の病気が直ったとか、どこの誰は迷子の居所を知らせて貰ったとか、若い者共が評判し合っていたのである。文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身を潔(きよ)めて、玉造をさして出て行った。敵のありかと宇平の行方とを伺って見ようと思ったのである。

 稲荷(いなり)の社(やしろ)の前に来て見れば、大勢の人が出入(でいり)している。数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合っていて、群集はその赤い洞(ほら)の中で蠢(うごめ)いているのである。外廻りには茶店が出来ている。汁粉屋がある。甘酒屋がある。赤い洞の両側には見せ物小屋やらおもちゃ店(みせ)やらが出来ている。洞を潜(くぐ)って社に這入ると、神主がお初穂と云って金を受け取って、番号札をわたす。伺を立てる人をその番号順に呼び入れるのである。

 文吉は持っていただけの銭を皆お初穂に上げた。しかし順番がなかなか来ぬので、とうとう日の暮れるまで待った。何も食わずに、腹が耗(へ)ったとも思わずにいたのである。暮六(くれむ)つが鳴ると、神主が出て「残りの番号の方は明朝お出(いで)なさい」と云った。

 次の日には未明に文吉が社へ往った。番号順は文吉より前なのに、まだ来ておらぬ人があったので、文吉は思ったより早く呼び出された。文吉が沙(すな)に額を埋(うず)めて拝みながら待っていると、これも思ったより早く、神主が出て御託宣を取り次いだ。「初の尋人(たずねにん)は春頃から東国の繁華な土地にいる。後の尋人の事は御託宣が無い」と云った。

 文吉は玉造から急いで帰って、御託宣を九郎右衛門に話した。

 九郎右衛門はそれを聞いて云った。「そうか。東国の繁華な土地と云えば江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい。成程我々が敵討に余所(よそ)へ出たと云うことは、噂に聞いたかも知れぬが、それにしても外の親戚も気を附けているのだから、どうも江戸に戻っていそうにない。お前は神主に一杯食わされたのじゃないか。後の尋人が知れぬと云うのも、お初穂がもう一度貰いたいのかも知れん」

 文吉はひどく勿体(もったい)ながって、九郎右衛門の詞を遮(さえぎ)るようにして、どうぞそう云わずに御託宣を信ずる気になって貰いたいと頼んだ。

 九郎右衛門は云った。「いや。己は稲荷様を疑いはせぬ。只どうも江戸ではなさそうに思うのだ」

 こう云っている所へ、木賃宿の亭主が来た。今家主(いえぬし)の所へ呼ばれて江戸から来た手紙を貰ったら、山本様へのお手紙であったと云って、一封の書状を出した。九郎右衛門が手に受け取って、「山本宇平殿、同(おなじく)九郎右衛門殿、桜井須磨右衛門、平安」と読んだ時、木賃宿でも主従の礼儀を守る文吉ではあるが、兼て聞き知っていた後室(こうしつ)の里からの手紙は、なんの用事かと気が急(せ)いて、九郎右衛門が披(ひら)く手紙の上に、乗り出すようにせずにはいられなかった。

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