閑天地

6話 (六) 信念の巌

1,138字 約2分 2012年12月26日 公開

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 世に、最も恐るべき、最も偉大なる、最も堅牢なる、(しか)して何物の力と(いへ)ども動かし能はざるものあり。乃ち人の信念也。ソクラテス、雅典(アテーネ)の子弟を迷はすの(ゆゑ)を以て法廷に引かるゝや、曰く、我は雅典の光なり、罪すべくんば罪せよと。又再び物言はず。かくて遂に死せりき。日蓮が首の座に据ゑらるゝや又同じ。基督(クリスト)方伯(つかさ)の前に立てる時も又同じ。彼等は何事をも自らのために弁ぜざりき。然も其緘黙(かんもく)(けだ)しこの世に於ける最大の雄弁たりし也。信念の巌は死もこれを動かす能はず、(いは)んや区々(くく)たる地上の権力をや。大哲スピノザ、少壮にして猶太(ユダヤ)神学校にあるや、侃々(かんかん)の弁を揮つて教条を議し、何の(はばか)る所なし。教官怒つて彼を放逐(ほうちく)したれども、スピノザは遂にスピノザなりき。ユーゴーがナポレオン三世のために追放せられたるも同じ。詩人シエレーが『無神論の必要』を著はして牛津(オクスフオード)大学を追はれたるも同じ。信念の一字は実にこの世界の最も堅牢なる城廓にてある也。

 仏国羅曼的(ロマンチツク)文学の先鋒にスタヱル夫人あり。彼女は実に一箇巾幗(きんくわく)の身を以て、深窓(しんそう)宮裡(きゆうり)花陰の夢に(ふけ)るべき人(なが)ら、雄健の筆に堂々の議論を上下し、仏蘭西(フランス)全国の民を叱咤(しつた)する事、(なほ)猛虎の野に(うそぶ)くが如くなりき。かるが故に大奈翁(だいなをう)を以てしても遂に彼の一婦人を如何ともする能はず。全欧洲を席捲したる巨人のために恐るゝ所となりき。彼女常に曰く、偉大なる人物を見んがためには妾は、千里万里の路をも遠しとせずして行かん也と。意気の壮なる、実に()くの如し。人は往々彼女を以て婦人の力のよく男子に(ゆづ)らざるの例とすれども、静かに思へ、人の信念の力や実にかくの如し。一度其赫灼(かくしやく)たる霊光の人の胸中に宿るや嬋妍(せんけん)たる柳眉玉頬(りうびぎよくけふ)の佳人をして、猶()這般(しやはん)天馬空を行くの壮事あらしむる也。()れ信念は霊界の巨樹也。地上の風に其一葉をだもふるひ落さるゝ事なし。又、坤軸(こんぢく)に根ざすの巌なり。地殻層上の力、(その)(てこ)如何(いか)に強しと(いへ)ども、又動かすに由なし、人生最大の権威、一にこの信念の巌上に建てらる。

 人よ、汝()し一念心に信ずる所あらば、外界の紛紜(ふんうん)に迷ふ事(なか)れ。躊躇する事勿れ。顧慮する勿れ。敵たるを敵とせよ。我が最強の味方は我なりと知れ。心眼をひらいて自家胸中の宇宙を仔細に観よ。そこに永劫(えいごふ)に枯れざるの花あり、これ汝の(もつと)も美しき恋人にあらずや。そこに永劫に絶えざるの清風吹く、これ汝の尤も親しき友にあらずや。兄弟にあらずや。そこに永劫に暮るゝ事なき日輪ありて輝けり、これ汝の尤も尊とき父にあらずや。母にあらずや。一字不滅の『信』あり。汝(すべか)らく汝の自負に傲慢なれ、不遜なれ、大水の声をあげて汝みづからの為に讃美し、謳歌して可也(かなり)

正誤「閑天地」四の終り、土井晩翠君に与ふる詩の七行目、「夜影の雲もつひて」は「夜影の雲もつひえ」の誤植也、茲に正誤す。

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