3話 上巻 第三回
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悼はしや花瀬は、夫の行衛追ひ駆けて、後より急ぐ死出の山、その日の夕暮に没りしかば。主人はいとど不憫さに、その死骸を棺に納め、家の裏なる小山の蔭に、これを埋めて石を置き、月丸の名も共に彫り付けて、形ばかりの比翼塚、跡懇切にぞ弔ひける。
かくて孤児の黄金丸は、西東だにまだ知らぬ、藁の上より牧場なる、牡丹が許に養ひ取られ、それより牛の乳を呑み、牛の小屋にて生立ちしが。次第に成長するにつけ、骨格尋常の犬に勝れ、性質も雄々しくて、天晴れ頼もしき犬となりけり。
さてまた牡丹が雄文角といへるは、性来義気深き牛なりければ、花瀬が遺言を堅く守りて、黄金丸の養育に、旦暮心を傾けつつ、数多の犢の群に入れて。或時は角闘を取らせ、または競争などさせて、ひたすら力業を勉めしむるほどに。その甲斐ありて黄金丸も、力量あくまで強くなりて、大概の犬と噬み合ふても、打ち勝つべう覚えしかば。文角も斜ならず喜び、今は時節もよかるべしと、或時黄金丸を膝近くまねき、さて其方は実の児にあらず、斯様々々云々なりと、一伍一什を語り聞かせば。黄金丸聞きもあへず、初めて知るわが身の素性に、一度は驚き一度は悲しみ、また一度は金眸が非道を、切歯して怒り罵り、「かく聞く上は一日も早く、彼の山へ走せ登り、仇敵金眸を噬み殺さん」ト、敦圉あらく立かかるを、文角は霎時と押し止め、「然思ふは理なれど、暫くまづわが言葉を、心ろを静めて聞きねかし。原来其方が親の仇敵、ただに彼の金眸のみならず。他が配下に聴水とて、いと獰悪き狐あり。此奴ある日鶏を盗みに入りて、端なく月丸ぬしに見付られ、他が尻尾を噛み取られしを、深く意恨に思ひけん。自己の力に及ばぬより、彼の虎が威を仮りて、さてはかかる事に及びぬ。然れば真の仇敵とするは、虎よりもまづ狐なり。さるに今其方が、徒らに猛り狂ふて、金眸が洞に駆入り、他と雌雄を争ふて、万一誤つて其方負けなば、当の仇敵の狐も殺さず、その身は虎の餌とならん。これこそわれから死を求むる、火取虫より愚なる業なれ。殊に対手は年経し大虎、其方は犬の事なれば、縦令ひ怎麼なる力ありとも、尋常に噬み合ふては、彼に勝んこといと難し。それよりは今霎時、牙を磨き爪を鍛へ、まづ彼の聴水めを噛み殺し、その上時節の到るを待て、彼の金眸を打ち取るべし。今匹夫の勇を恃んで、世の胡慮を招かんより、無念を堪えて英気を養ひ以て時節を待つには如かじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、実もと心に暁得りしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露知ず、真の父君母君と思ひて、我儘気儘に過したる、無礼の罪は幾重にも、許したまへ」ト、数度養育の恩を謝し。さて更めていへるやう、「知らぬ疇昔は是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、黙して過すは本意ならず、それにつき、爰に一件の願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、某に暇を賜はれかし。某これより諸国を巡ぐり、あまねく強き犬と噬み合ふて、まづわが牙を鍛へ。傍ら仇敵の挙動に心をつけ、機会もあらば名乗りかけて、父の讐を復してん。年頃受けし御恩をば、返しも敢へずこれよりまた、御暇を取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もし某幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命恙なくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、霎時の暇賜はりて……」ト、涙ながらに掻口説けば、文角は微笑て、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば此方より、強ても勧めんと思ひしなり。思のままに武者修行して、天晴れ父の仇敵を討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと支度して、「見事金眸が首取らでは、再び主家には帰るまじ」ト、殊勝にも言葉を盟ひ文角牡丹に別を告げ、行衛定めぬ草枕、われから野良犬の群に入りぬ。