35話 三十二、無理な願
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『何やら昔の香織らしい面影が残って居れど、それにしては随分老け過ぎている……。』私が、そう考えて躊躇して居りますと、先方では、さも待ち切れないと言った様子で、膝をすり寄せてまいりました。――
『姫さまわたくしをお忘れでございますか……香織でございます……。』
『矢張りそうであったか。――私はそなたがまだ息災で現世に暮して居るものとばかり思っていました。一たいいつ歿ったのじゃ……。』
『もう、かれこれ十年位にもなるでございましょう。私のようなつまらぬものは、とてもこちらで姫さまにお目にかかれまいとあきらめて居りましたが、今日図らずも念願がかない、こんなうれしいことはございませぬ。よくまァ御無事で……些ッとも姫さまは往時とお変りがございませぬ。お懐かしう存じます……。』現世らしい挨拶をのべながら、香織はとうとう私の躯にしがみついて、泣き入りました。私もそうされて見れば、そこは矢張り人情で、つい一緒になって泣いて了いました。
心の昂奮が一応鎮まってから、私達の間には四方八方の物語が一しきりはずみました。――
『そなたは一たい、何処が悪くて歿ったのじゃ?』
『腹部の病気でございました。針で刺されるようにキリキリと毎日悩みつづけた末に、とうとうこんなことになりまして……。』
『それは気の毒であったが、何うしてそなたの死ぬことが、私の方へ通じなかったのであろう……。普通なら臨終の思念が感じて来ない筈はないと思うが……。』
『それは皆わたくしの不心得の為めでございます。』と香織は面目なげに語るのでした。『日頃わたくしは、死ねば姫さまの形見の小袖を着せてもらって、すぐお側に行ってお仕えするのだなどと、口癖のように申していたのでございますが、いざとなってさッぱりそれを忘れて了ったのでございます。どこまでも執着の強い私は、自分の家族のこと、とりわけ二人の子供のことが気にかかり、なかなか死切れなかったのでございます。こんな心懸の良くない女子の臨終の通報が、どうして姫さまのお許にとどく筈がございましょう。何も彼も皆私が悪かった為めでございます。』
正直者の香織は、涙ながらに、臨終に際して、自分の心懸の悪かったことをさんざん詫びるのでした。しばらくして彼女は言葉をつづけました。――
『それでもこちらへ来て、いろいろと神様からおさとしを受けたお蔭で、わたくしの現世の執着も次第に薄らぎ、今では修行も少し積みました。が、それにつれて、日ましに募って来るのは姫さまをお慕い申す心で、こればかりは何うしても我慢がしきれなくなり、幾度神様に、逢わせていただきたいとお依みしたか知れませぬ。でも神さまは、まだ早い早いと仰せられ、なかなかお許しが出ないのでございます。わたくしはあまりのもどかしさに、よくないことと知りながらもツイ神様に喰ってかかり、さんざん悪口を吐いたことがございました。それでも神様の方では、格別お怒りにもならず、内々姫さまのところをお調べになって居られたものと見えまして、今度いよいよ時節が来たとなりますと、御自身で私を案内して、連れて来て下すったのでございます。――姫さま、お願いでございます、これからは、どうぞお側にわたくしを置いてくださいませ。わたくしは、昔のとおり姫さまのお身のまわりのお世話をして上げたいのでございます……。』
そう言って香織は又もや私に縋りつくのでした。
これには私もほとほと持ちあつかいました。
『神界の掟としてそればかりは許されないのであるが……。』
『それは又何ういう訳でございますか? わたくしは是非こちらへ置いて戴きたいのでございます。』
『それは現世ですることで、こちらの世界では、そなたも知る通り、衣服の着がえにも、頭髪の手入にも、少しも人手は要らぬではないか。それに何とも致方のないのはそれぞれの霊魂の因縁、めいめいきちんと割り当てられた境涯があるので、たとえ親子夫婦の間柄でも、自分勝手に同棲することはできませぬ。そなたの芳志はうれしく思いますが、こればかりはあきらめてたもれ。逢おうと思えばいつでも逢える世界であるから何処に住まなければならぬということはない筈じゃ。それほど私のことを思ってくれるのなら、そんな我侭を言うかわりに、みっしり身相応の修行をしてくれるがよい。そして思い出したらちょいちょい私の許に遊びに来てたもれ……。』
最初の間、香織はなかなか腑に落ちぬらしい様子をしていましたが、それでも漸くききわけて、尚おしばらく語り合った上で、その日は暇を告げて自分の所へ戻って行きました。
今でも香織とは絶えず通信も致しまするし、又たまには逢いも致します。香織はもうすっかり明るい境涯に入り、顔なども若返って、自分にふさわしい神様の御用にいそしんで居ります。