3話 いまわしき前兆
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皆さん、わしのその二年間の様に、何から何までよいことずくめの折には、夢々油断をしてはなりませんぞ。運命の鬼奴は、甘い餌物を与えて、人の心をためすのだ。そして、ちょっとでも心に隙があったなら、大きな真黒な口を開いて、ガブリと人を呑んでしまうのだ。お多福の面のうしろ側には、怖い鬼の面が隠れているのだ。
わしはあんまり幸福すぎた。それに殿様育ちのお坊ちゃんで、世間というものを、まるで知らなかった。
丁度結婚後二年目の終りに、わしはチフスを患って、しかもそれがこじれて、三月というもの、病院生活をしなければならなかった。と云って、何もそれが、直接わしの幸福を奪ったというのではない。長びいたけれど病気は全快したのだ。全快したばかりか、チフスという病の有難いことには、それまで何となく弱々しかったわしの身体が、病後はめっきり健康になった。一度抜けた髪の毛も、前にもまして黒々と生え揃った。年までも、二つ三つ若返った様な気がした。
病中、妻の瑠璃子は毎日病院へ見舞いに来てくれた。川村も妻にまけぬ程、しげしげわしを見舞ってくれた。アア、かたじけないことだ。わしを愛していればこそ、いまわしい伝染病を気にもとめず、瑠璃子は、川村は、わしを慰めに来てくれるのだ。妻や親友が今までの幾層倍も有難いものに見えて来た。――考えて見ると、わしはまあ、何という鈍感なお人好しであったろう。
ここでまた、恥かしい打開け話をしなければならぬのだが、わしが退院をして二ヶ月余りたった時分のことだ。十日程瑠璃子の気分のすぐれぬことがあって、今日は少しよいと云うものだから、その晩は、久しぶりに彼女の部屋へ行って見ると意外にも、瑠璃子は身を堅くして、わしを拒むではないか。
「コレ、どうしたのだ。さてはお前は、僕をいとわしく思いはじめたのか」
と、冗談に怒って見せると、あれはさも悲し相な顔をして、
「今まで隠していましたが、わたしはもう、このお邸に置いて頂く訳には参りません」
と、わしのど胆を抜く様な、飛んでもないことを云い出すのだ。
わしはもう、泣き相になって、何故そんなことを云うのかと、様々に尋ねて見ると、散々云いしぶったあとで、あれは、とうとうその理由を打開けた。打開けて置いてサメザメと泣き伏した。
だが聞いて見ると、若い女なんて、そんな下らないことで、これ程の騒ぎをやるのかと、おかしくなる程、些細な事柄であった。瑠璃子は、数日前から身体に腫物が出来て、少しも直らないというのだ。
「どれ、見せてごらん。そんなこと何でもないじゃないか」
わしは、又しても甘い気持になったものだ。瑠璃子が些細な腫物さえ、それ程恥かしがるのは、つまりわしの愛を失うのが、死ぬ程つらいからだ。そんなにもわしを大切に考えているのかと思うと、甘い気持にならないではいられなかった。
又、散々てこずらせた揚句、彼女はやっと少しばかり胸を開いて、その腫物を見せてくれたが、見ると、わしもちょっと、びっくりした。大きな赤い腫物が胸一面に吹き出していたからだ。
「なんだそんなもの。甞めろと言えば、甞めて見せるよ」
と笑いながら、尚よく見ようとすると、あれは、手早く胸を閉じて、陰気に沈み込んでしまうのだ。
無理もない無理もない。日頃から、瑠璃の様に美しい肌を誇っていた彼女にして見れば、世間普通の女と違って、美しい丈けに、その美が少しでもそこなわれると、これ程までに恥かしく、悲しいのだ。
わしは同情して、兎も角医者に見せる様に勧めたが、彼女はそれもいやだと駄々をこね、とうとう強情を通して、売薬の塗り薬かなんかで済ませてしまった。考えて見るのに、彼女は、醜くなった肌を見せる恥かしさばかりでなく、それが性質のよくない発疹であったら、藩主の家の外聞に関わるとでも考えていたらしいのだ。
売薬で治るかと思うと、なかなか頑強な腫物で、治るどころか、全身に広がり、ついには覆い隠すすべもない、あれの美しい顔にまで出来て来た。
無論瑠璃子は、一目でも、わしに汚れた肌を見せようとはしなかった。顔には切傷でもした様に、ガーゼを絆創膏でとめて、それ丈けでは承知が出来ず、床についてしまって、わしが見舞に行っても、腫物のない鼻の上丈けを夜具の襟から出して物を云うという、いじらしい有様であった。
わしは駄々子の奥さんに、ほとほと困じ果て、川村を呼んで相談すると、彼も、余りに狭い女心を、おかし相に笑ったが、
「だが、無理もないよ。美人にとって、我が美しさが、どんなに大切なものだか、男などには分りゃしないよ」
と、彼自身並々ならず美しい顔に、同情の色を浮べて、
「いっそ君、温泉にでも転地させて上げたらどうだね。邸をはなれた温泉場の医者なら、診察を受けられるかも知れないし。……」
と名案を授けてくれた。
わしは、早速その説を採用した。幸いS市から汽車と人力車を併せて二時間程隔たった、Yという淋しい温泉場の近くに、空家になっているわしの持家があったので、それに手入れをして、妻を住まわせることにした。
わしも行って、看病しようと云うと、瑠璃子は、毎日一緒にいて顔を見られるのがいやだと、頑強に反対するので、仕方なく、彼女の里から連れて来ている、忠義者の婆やをつけてやることに決めた。
何ということであろう。その腫物があと方もなく全快するのに、殆ど半年もかかったのだ。あの社交好きの瑠璃子が、その間、誰の訪問をも断り、ただ昔ものの婆や一人を話相手に、じっと辛抱していたというのは、よくよくの事である。
わしは、その長い間、愛しい妻と別居している淋しさに耐え兼ねて、度々Y温泉を訪ねたが、瑠璃子は一間にとじこもり、かたく襖をしめて、襖越しに、やっと話をしてくれるばかりで、醜くなった顔を極度に恥て、どうしても会ってはくれなかった。
その中で、まだしも仕合せであったのは、彼女が、名を偽ってではあったが、土地の医者に身体を見せてくれたことだ。わしは、早速その住田という医学士を訪ねて様子を聞いて見ると、別に悪い病ではないが、仲々頑強な腫物だから、気永に治す外はない。それには、薬よりも、ここの温泉が非常に有効だとの答えであった。皆さん、この住田医学士の名をよく覚て置いて下さい。
わしは、瑠璃子に逢えぬ悩ましさに、毎日彼女を見ている医者に逢って、せめてもの慰めにしようと、よくその医学士を訪ねたものだ。そして、間接に瑠璃子の様子を聞き、少しずつはよくなって行くらしいことを知って、僅に安堵の溜息をもらすという、果敢ない身の上であった。
だが、さしも頑強な腫物も、遂には全治する時が来た。瑠璃子は腫物の薄い痕跡さえ恥かしがって、それが治るまで辛抱していたので、丁度六ヶ月ばかりかかってしまった。併し、治ったのだ。元の美しい瑠璃子になって帰って来たのだ。わしが、その久方振りの対面をどんなに喜んだか、くどくど説明するまでもなかろう。わしは、失った宝物を取戻した様な気がした。しかも、その宝物は、前よりも一段と美しく、愛らしく、光り輝いて戻って来たのだ。
さて、皆さん。わしがどういう訳で、チフスだとか、腫物だとか、つまらぬことをくどくどと喋ったのか、お分りじゃろうね。わしが入院してから瑠璃子の腫物が全快するまで、数えて見ると丁度一年の月日が経過しているが、その間、蔭の世界で、どの様な恐ろしい事柄が起っていたか。そのまる一ヶ年の月日が何を意味していたか。わしの話を聞いた丈けでも、敏感な人はすぐ気がつく筈だ。
それを、まるでうそみたいな話じゃが、わしは少しも気づかなかったのだ。瑠璃子に溺れ切ていたわしは、彼女のこととなると、もう盲目も同然で、カラ意気地がなかったのだ。
それは兎も角、このわし達夫婦の引続いての長患いが、あの恐ろしい破局への不気味な前奏曲であった。わしの運命のけちのつき始めであった。瑠璃子の妙な腫物が全快して、ヤレヤレと思う暇もなく、今度は病気どころではない。前代未聞の地獄の責め苦が、わしの上に降りかかって来た。