日本脱出記

8話 パリの便所 二

1,806字 約4分 2001年11月27日 公開

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 しかし僕だって、そんな安ホテルで野蛮人のような生活ばかりしていたんじゃない。大して上等でもないが、とにかくまず紳士淑女のとまるホテルへも行った。

 実は、前のホテルが仲間の巣のすぐ近所なので、その辺を始終うろついているおまわりさんのぴかぴか光る目がこわかったのだ、そしてそうそう逃げ出したのだ。

 こんどは、室の中で栓一つねじれば、水でも湯でも勝手に使えた。西洋風呂もあった。西洋便所もあった。

 僕は、猿またの捨て場所にこまって、そっとこの便所へ突っこんで、うんとひもをひっぱってドドドウと水を流して見た。うまく流れればいいがと思いながら、大ぶ心配しいしいやったんだが、何のこともなく綺麗に流れてしまった。

「なあに、そんな心配はないよ。フランスの便所は赤ん坊の頭が流れこむだけの大きさにちゃあんとできているんだからね。」

 僕がその話をしたら、友人の一人がこう言って、そしてドイツでやはりこのでんをやって失敗した話をした。猿またが中途でひっかかって管がつまってしまったので、お神さんに大ぶ油をしぼられた上に、その掃除代まで取られたんだそうだ。

 が、そのほかにもう一つ、室のすみっこに何だかわけのわからんものがあった。白い綺麗な陶器でできているんだが、ちょうどおまるのような大きさの、そしてまたそんな形のもので、そのきんかくしにあたるところに水と湯との二つの栓がついている。そしてその真ん中ごろの両側が瓢箪形に少しへこんで、そこへ腰をおろすのに具合のいいようになっている。が、おまるにしては、固形物の流れるような穴はない。また立派な西洋風呂のあるのに、こんなもので腰湯を使うのも少しおかしいと思った。試みに栓をねじると、恐ろしい勢いで、水か湯かがジャジャジャアと出て来る。そして僕は、夜中になるとよく、となりの室でしばらく男と女の話し声が聞えると思ったあとで、このジャジャジャアのおとを聞いた。

 寝台は大きなダブル・ベッドだ。枕はいつでも二つちゃんと並べてある。これは前の安ホテルででもやはりそうだったが。

 パリについた晩、近所のうすぎたないレストランへ行って、三フラン五十の定食を食った。日本の一品料理見たいなあじのものだ。で、しかめつらをして食っていると、日本ではとても見られないような、毛唐と野蛮人とのあいの子のようなけったいな女がはいって来て、ココココと呼びかける。坊やというほどの意味だ。僕は恐ろしくなってさっそくそこを逃げだした。

 が、そとへ出ると、すぐおなじような女がそばへやって来て「いかがです」てなことを言う。ホテルの前のかどでも、そんな女が二人突っ立っていて、いきなり僕の腕をとって、何やかやと話しながら一しょにあるいてくる。よくは分らないが、「五フランなら」というような言葉がその中にあったように思う。実は、このベルヴィル通りの労働者街を逃げ出したのは、おまわりさんもこわかったが、この五フラン女もこわかったのだ。

 それからパリの中心のグランブウルヴァル近くのあるホテルへ引っこすとすぐ、夕方その辺をぶらぶらしながら、ちょっとはいるのに気がひけるようなある大きなキャフェへはいった。キャフェは実にうまい。僕は二、三ばい立てつづけに飲んだ。そして「もう一ぱい」とボーイに言いつけている間に、ふと五つ六つ向うのテーブルにいる若い綺麗な女が、僕の顔を見ながらニコニコしているのに気がついた。これはまた、日本ではとても見られないような、本当の西洋人の目のさめるような女だ。

 僕はきっと僕があんまりキャフェを飲むんで笑っているんだろうと思った。それともまた、色の浅黒い妙な野蛮人がいるなと思って笑っているのかともひがんで見た。どっちにしても、僕にとっては、あんまり気持のいいことではない。僕は少々赤くなって、すましてほかの方を向いた。

 すると、そこにもやはり、一人の若い綺麗な女が、僕の顔を見てニコニコしているのにぶつかった。少し癪にさわったので、こんどは度胸をすえて、こっちでもその女の顔をじっと見つめてやった。

 が、笑っているんじゃないんだ。目がうごく、口がうごく、何か話しかけるように。

 僕は変だなと思って、こんどは前の女の方を見た。やはりニコニコしている。そして今の女よりももっと、しきりに話しかけるようにして、顎までもうごかす。

 僕は少々きまりが悪くなって、急いでキャフェを飲みこんでそこを出た。

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