何者

2話 二、消えた足跡

5,280字 約11分 2020年7月28日 公開

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 実に変な泥棒であった。数百円在中の札入れをそのままにして置いて、それ程の値打もない万年筆や懐中時計に執着したという、賊の気持が理解出来なかった。

 警部は少将に、それらの金製品の(うち)、高価という外に、何か特別の値打を持ったものはなかったかと尋ねた。

 だが、少将は別にそういう心当りもないと答えた。ただ、金製万年筆は、彼がある師団の聯隊長を勤めていた頃、同じ隊に属していられた、高貴のお方から拝領したもので、少将に取っては金銭に替え難い値打ちがあったのと、金製置時計は、二寸四方位の小さなものだけれど、洋行記念に親しく巴里(パリー)で買って帰ったので、あんな精巧な機械は二度と手に入らぬと、惜まれる位のことであった。両方とも、泥棒にとって、別段の値打ちがあろうとも思われぬ。

 さて波多野警部は室内から屋外へと、順序を追って、綿密な現場(げんじょう)調査に取りかかった。彼が現場へ来着したのは、ピストルが発射されてから二十分もたっていたので、慌てて賊の跡を追う様な愚はしなかった。

 あとで分ったことだが、この司法主任は、犯罪捜査学の信者で、科学的綿密ということを最上のモットウとしている、風変りな警官であった。彼がまだ片田舎の平刑事であった時分、地上にこぼれていた一滴の血痕(けっこん)を、検事や上官が来着するまで完全に保存する為に、その上にお(わん)をふせて、お椀のまわりの地面を、一晩中棒切れで叩いていた、という一つ話さえあった。彼はそうして、血痕を蚯蚓(みみず)がたべてしまうのを防いでいたのである。

 こんな風な綿密周到によって地位を作った人丈けに、彼の取調べには毛筋程の隙もなく、検事でも予審判事でも、彼の報告とあれば全然信用がおけるのであった。

 ところが、その綿密警部の綿密周到な捜査にも(かかわ)らず、室内には、一本の毛髪さえも発見されなかった。此上はガラス窓の指紋と、屋外の足跡とが唯一の頼みである。

 窓ガラスは最初想像した通り、掛金をはずす為に、賊がガラス切りと吸盤とを使って、丸く切り抜いたものであった。指紋の方はその係りのものが来るのを待つことにして、警部は用意の懐中電燈で窓の外の地面を照して見た。

 (さいわい)にも雨上りだったので、窓の外にはハッキリ足跡が残っていた。労働者などの穿()靴足袋(くつたび)の跡で、ゴム裏の模様が型で押した様に浮出している、それが裏の土塀の所まで二列に続いているのは、賊の往復したあとだ。

「女みたいに内輪(うちわ)に歩く奴だな」警部の独言に気づくと、成程その足跡は皆爪先(つまさき)の方がかかとよりも内輪になっている。ガニ(また)の男には、こんな内輪の足癖が、よくあるものだ。

 そこで、警部は部下に靴を持って来させて、それを穿くと、不作法ながら窓をまたいで外の地面に降り、懐中電燈をたよりに、靴足袋のあとをたどって行った。

 それを見ると、人一倍好奇心の強い私は、邪魔になるとは知りながら、もうじっとしてはいられず、いきなり日本座敷の縁側から廻って警部のあとを追ったものである。無論賊の足跡を見る()めだ。

 ところが行って見ると足跡検分の邪魔者は私一人でないことが分った。もうちゃんと先客がある。やはり誕生祝に呼ばれていた赤井(あかい)さんであった。いつの間に出て来たのか実にすばしこい人だ。

 赤井さんがどういう素性の人だか、結城家とどんな関係があるのか、私は何も知らなんだ。弘一君さえハッキリしたことは知らぬらしい。二十七八の、頭の毛をモジャモジャさせた()(がた)の男で、非常に無口な癖に、いつもニヤニヤと微笑を浮べているえたいの知れぬ人物であった。

 彼はよく結城家へ碁をうちに来た。そして、いつも夜更(よふ)かしをして、ちょいちょい泊り込んで行くこともあった。少将は彼をある倶楽部で見つけた、碁の方の好敵手だと云っていた。その晩は招かれて宴会の席に列したのだが、事件の起った時には、二階の大広間には見えなんだ。どこか下座敷にでもいたのであろう。

 だが、私はある偶然のことから、この人が探偵好きであることを知っていた。私が結城家に泊り込んだ二日目であったか、赤井さんと弘一君とが、今度事件の起った書斎で話している所へ行合(ゆきあ)わせた。赤井さんはその少将の書斎に持込んであった、弘一君の本棚を見て何か云っていた。弘一君は大の探偵好きであったから、(それは、この事件で、後に被害者の彼自身が探偵の役目を勤めた程である)そこには犯罪学や探偵談の書物が沢山並んでいるのだ。

 彼等は内外の名探偵について論じあっているらしかった。ヴィドック以来の実際の探偵や、デュパン以来の小説上の探偵が話題に上った。又弘一君はそこにあった「明智小五郎探偵談」という書物を指さして、この男はいやに理屈っぽいばかりだとけなした。赤井さんもしきりに同感していた。彼等はいずれ劣らぬ探偵通で、その方では非常に話が合うらしかった。

 そう云う赤井さんが、この犯罪事件に興味を持ち、私の先を越して、足跡を見に来たのは誠に無理もないことである。

 余談はさて置き、波多野司法主任は、

「足跡を踏まぬ様に気をつけて下さい」

 と、二人の邪魔者に注意をしながら、無言で足跡を調べて行った。賊が低い土塀を乗り越えて逃げたらしいことが分ると、土塀の外を調べる前に、一度洋館の方へ引返(ひっかえ)して、何か邸内の人に頼んでいる様子だったが、間もなく炊事用の摺鉢(すりばち)を抱えて来て、最もハッキリした一つの足跡の上にそれをふせた。あとで型をとる時まで原型をくずさぬ用心である。

 矢鱈(やたら)にふせたがる探偵だ。

 それから私達三人は裏木戸を開けて、塀の外に廻ったが、その(あたり)一帯誰かの邸跡の空地で、人通りなぞないものだから、まぎらわしい足跡もなく、賊のそれ(だけ)が、どこまでもハッキリと分った。

 ところが懐中電燈を振り振り、空地を半丁程も進んだ時である。波多野氏は突然立止って、当惑した様に叫んだ。

「オヤオヤ、犯人は井戸の中へ飛込んだのかしら」

 私は警部の突飛な言葉に、あっけにとられたが、よく調べて見ると、成程彼の云うのが(もっと)もであった。足跡は空地の真中の一つの古井戸の側で終っている。出発点もそこだ。いくら電燈で照らして見ても、井戸のまわり五六間の間、外に一つの足跡もない。しかもその辺は、決して足跡のつかぬ様な硬い土ではないのだ。又足跡を隠す程の草も生えてはいない。

 それは、漆喰(しっくい)の丸い井戸側が、(ほとん)どかけてしまって、何となく無気味な古井戸であった。電燈の光で中を覗いて見ると、ひどくひび割れた漆喰(しっくい)が、ずっと下の方まで続いていて、その底に鈍く光って見えるのは腐り水であろう。ブヨブヨと(もの)()でも泳いでいそうな感じがした。

 賊が井戸から現われて、又井戸の中へ消えたなどとは、如何(いか)にも信じがたいことであった。お(きく)の幽霊ではあるまいし。だが、彼がそこから風船にでも乗って天上(てんじょう)しなかった限り、この足跡は賊が井戸の中へ這入ったとしか解釈出来ないものである。

 流石(さすが)の科学探偵波多野警部もここでハタと行詰った体に見えた。彼は入念にも、部下の刑事に竹竿(たけざお)を持って来させて、井戸の中をかき廻して見たが、無論何の手答えもなかった。と云って、井戸側の漆喰に仕掛けがあって、地下に抜け穴を通じているなどは、余りに荒唐無稽(こうとうむけい)な想像である。

「こう暗くては、(こまか)いことが分らん。あすの朝もう一度調べて見るとしよう」

 波多野氏はブツブツと独り言を云いながら、邸の方へ引返した。

 それから、裁判所の一行の来着を待つ間に勤勉な波多野氏は、邸内の人々の陳述を聞き取り、現場の見取図を作製した。便宜上(べんぎじょう)見取図の方から説明すると、

 彼は用意周到にいつも携帯している巻尺(まきじゃく)を取出して、負傷者の倒れていた地位(それは血痕などで分った)足跡の歩幅、来る時と帰る時の足跡の間隔、洋館の間取、窓の位置、庭の樹木や池や塀の位置などを、不必要だと思われる程入念に計って、手帳にその見取図を書きつけた。

 だが、警部のこの努力は決して無駄ではなかった。素人(しろうと)考えに不必要だと思われたことも、後には(はなは)だ必要であったことが分った。

 当時の警部の見取図を真似て、読者諸君の為にここにこれを掲げて置く。これは事件が解決したあとで、結果から割出して私が作った図であるから警部のほど正確ではないが、その代り、事件解決に重大な関係のあった点は、間違いなく、(むし)ろ幾分誇張して現わしてある。

 後に至って分ることだが、この図面は、犯罪事件について、存外色々なことを物語っているのである。ごく卑近(ひきん)な一例を上げると、賊の往復の足跡の図だ。それは彼が女のように内輪であったことを示すばかりではない、Dの方は歩幅が狭く、Eの方はその倍も広くなっているが、これはDは来る時のオズオズした足取を意味し、Eはピストルをうって、一目散に逃去る時のあわただしい足取を現わすものである。つまりDが往、Eが復の足跡であることが分る。(波多野氏はこの両方の歩幅を精密に計り、賊の身長計算の基礎として、その数字を書とめたが、ここでは余り管々(くだくだ)しくなるから省いて置く)

 だが、これは一例に過ぎないのだ。この足跡の図にはもっと別の意味がある。又負傷者の位置その他二三の点について、後に重大な意味を生じて来る部分がある。私は順序を追って話す為に、ここではその点に言及しないが、読者諸君は、よくよくこの図を記憶に留めて置いて頂き()い。

 次に邸内の人々の取調について一言すると、第一に質問を受けたのは、兇行の最初の目撃者甲田伸太郎君であった。

 彼は弘一君よりも二十分ばかり前に母屋の二階を降りて、階下の手洗所に這入り、用を済ませてからも玄関に出て、酒にほてった頬を冷していたが、もう一度二階の宴席へ戻る為に廊下を引返して来ると、突然の銃声に続いて弘一君のうめき声が聞こえた。

 いきなり洋館にかけつけると、書斎のドアは半開になって、中は電燈もつかず真暗だった。彼がそこまで陳述して来た時警部は、

「電燈がついてなかったのですね」

 と、何故(なぜ)か念を押して聞返した。

「エエ、弘一君は多分スイッチを押す間がなかったのでしょう」

 甲田君が答えた。

「私は書斎へ駈つけると、先ず壁のスイッチを押して電燈をつけました。すると、部屋の真中に弘一君が血に染って気を失って倒れていたのです。私はすぐ母屋の方へ走って行って、大声で家の人を呼び立てました」

「その時君は賊の姿を見なかったのですね」警部が来着と同時に聞き取ったことを、もう一度尋ねた。

「見ませんでした。もう窓の外へ出てしまっていたのでしょう。窓の外は真暗ですから……」

「その外に何か変ったことはなかったですか。ほんの些細(ささい)なことでも」

「エエ、別に、……アア、そうそう、つまらない事ですけれど、私がかけつけた時、書斎の中から猫が飛び出して来てびっくりしたのを覚えています。久松(ひさまつ)のやつが鉄砲玉の様に飛び出して来ました」

「久松って猫の名ですか」

「エエ、ここの家の猫です。志摩子さんの愛猫です」

 警部はそれを聞いて変な顔をした。ここに(やみ)の中でもハッキリと賊の顔を見たものがあるのだ。だが、猫は物を云うことが出来ない。

 それから結城家の人々(召使(めしつかい)も)赤井さん、私、其他来客一同が質問を受けたが、誰も別段変った答えをしなかった。病院へ附添って行って、その場に居合わせなかった夫人と志摩子さんは、翌日取調べを受けたが、その時の志摩子さんの返事が、少し変っていたのをあとで伝聞したので、(ついで)にここに記して置く。

 警部の「どんな些細なことでも」という例の調子に誘われて、彼女は次の様なことを申述(もうしの)べた。

「私の思違いかも知れませんけれど、私の書斎へも誰か這入った者があるらしいのでございます」図面に記した通り、彼女の書斎は問題の少将の書斎の隣室である。「別になくなったものはございませんが、私の机の抽斗を誰かあけたものがあるのです。昨日の夕方(たしか)にそこへ入れて置いた私の日記帳が、今朝見ますと机の上に拡げたまま乱暴に(ほう)り出してありました。抽斗も開いたままなんです。家の人は、女中でも誰でも、私の抽斗なんか開ける様なものはございませんのに、何だか変だと存じましたので。……でもつまらないことですわ」

 警部はこの志摩子さんの話を、其まま聞き流してしまったが、あとで考えると、此日記帳の一件にも仲々意味があったのである。

 話は元に戻る。それから暫くしてやっと裁判所の一行がやって来た。又専門家が来て、指紋を検べたりした。併し、その結果は、波多野警部の検べ上げた以上の収穫は何もなかった。問題の窓ガラスは布で拭きとった形跡があり、指紋は一つも出なかった。窓外の地上に(おち)()っていたガラスの破片にさえ一つの指紋もなかった。この一事(いちじ)(もっ)てしても、賊が並大抵の奴でないことが分るのだ。

 最後に、警部は部下に命じてさっき摺鉢でふせて(おい)た足跡の型をとらせ、大切(そう)に警察署へ持帰った。

 騒ぎがすんで、一同()(かく)も床についたのは二時頃であった。私は甲田君と床を並べて寝たが、両人とも昂奮の為め寝つかれず、殆ど一晩中寝返りばかりうっていた。その癖、私達は、なぜか事件については一言も話をしなかった。

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