11話 9 ああ天狗岩(3)
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モロー彗星が、急に進路を変えたからといって、さわいでいる蟻田博士だった。それがなぜ大事件になるのか、新田先生には、わけがわからなかった。
「おい、新田。地球が遂に粉みじんになる日が来るぞ」
「えっ、なんですって」
新田先生は、びっくりして、博士の顔を見なおした。先生は、自分の耳を疑ったのである。地球が粉みじんになる。……と聞えたように思ったので。
「なんだといって、それだけのことじゃ。地球が、粉みじんに、くだけてしまうのじゃ」
「先生、それはじょうだんですか。それとも、小説かなんかの話ですか」
新田先生には、博士の言葉がまだのみこめなかった。
そうでもあろう。地球が粉みじんになる日が来るなんて、そんなばかばかしいことが、あるであろうか。
さもなければ、蟻田博士は、やはり病院にはいっている方が、いい人なのではなかろうか。つまり博士は、変になっているのではなかろうか。
新田先生はどっちに考えていいのか、たいへん迷った。
蟻田博士は、記録紙を机の上にのせると、ていねいに巻いていった。そうしてそれを大事そうに側の金庫の中にしまった。その間、博士は一言も発しなかったが、それが終ると深いため息をついて、新田先生の方を見た。
「おい、新田。お前には、このことがのみこめないかもしれない。が、よくお聞き。さっきも言ったように、かねて注意を払っておいたモロー彗星が、わしの留守中、急に進路を変えたのだ。その結果モロー彗星の新しい進路は、これから地球が通っていくはずの軌道と交るのだ。しかもその交る時刻に、モロー彗星も、地球も、その軌道の交点に来るのだ。だから、両方は大衝突をする!」
「地球とモロー彗星とが、大衝突をするとおっしゃるのですか」
新田先生はびっくりして、思わず博士の腕をつかんだ。
博士は、悟りきった人のように平気な顔で、
「そうだ。やっと、わかったかね」
「つまり、地球の軌道と、モロー彗星の軌道とが交っていて、どっちかが、その交点を早くか遅くか通ってしまえばいいのだが、不幸にも、地球とモロー彗星とが、同時に、その交点を通る。それでその時大衝突が、起るというわけですか」
「そうだ、そうだ。全くその通りだ。地球の人類にとって、こんな大きな不幸はあるまいなあ」
「そこで、大衝突をやって、地球は粉みじんになってしまうのですか」
「そうだとも。モロー彗星の芯は、地球の大きさにくらべて八倍はある。これは、さしわたしの話だ。そうして、その心は、どんなもので出来ているか、まだよくはわからないが、とにかく非常な高熱で燃えている、重い火の塊だと思えばいい。そういうものが、地球の正面から、どんとぶつかれば、地球はどうなるであろうか。衝突後も元のままの地球であるとは、もちろん考えられない」
「地球は、幾つかに壊れるのでしょうね。日本と、アメリカとが、別れ別れになったりするのでしょうね。しかしわれわれ人類は、そうなっても、ちゃんと生きておられるでしょうか」
新田先生は、恐しい想像の中に、思わずおののいた。
「いずれ日本とアメリカとが、別れ別れになると言っても、それが二つの小さな地球の形になるとは思われない。今のところ、わしの考えでは、地球は粉みじんになって、そうして、いくつかの火の塊になってしまう」
「えっ、火の塊ですか。するとわれわれ人類は。……」
蟻田博士は、モロー彗星が地球にぶつかった時は、地球は幾つかの火の塊になってしまうであろうと、大胆な見通しをつけた。
「そうなれば、もちろん、地球上の生物は、一ぺんに焼けてしまって、ただもやもやした煙になってしまうだろうなあ」
蟻田博士は、平然と、まるでひとの事のように言う。
「博士、それでは、大衝突をすると、地球上の人間も、牛も、馬も、犬も、猫も、みんな死にたえてしまうと、おっしゃるのですか」
「そうだよ」
「やっぱりそうですか。地球上のありとあらゆる生物が、死滅するのですか。ああなんという恐しいことだ」
新田先生は、もう立っても坐ってもおられなくなって、椅子の上に、やっと自分の体をささえた。
「蟻田博士。ほんとうにそんな恐しい時が来ますか」
「もちろん来るさ」
「ああ、なんとかしてその大衝突を、防ぐことは出来ないものでしょうか。だって、余りにも悲惨です」
「相手は、地球だのモロー彗星だ。その大衝突を防ぐことは、とても出来ない相談だ。そんな大きな物体を、右とか左とかに動かす力を、人間が持っていないことは、お前もよく知っているだろう」
「それにしても、それでは、出来事が余りに悲惨です。歴史も、文化も、みんな煙と化して、なくなってしまうのです」
「仕方がないよ。人間の力は、とても自然の力には及ばない。それともお前は、人間が、そんなえらい生きものだと思っているかね。列車を走らせたり、ラジオで通信したり、戦車を千台も並べて突撃させたりは出来るだろうが、宇宙にみなぎる力に比べれば、そんなことは、ほんのちっぽけな力さ」
なるほど、大宇宙の中で、地球とモロー彗星とがぶつかるその大きな力に比べると、大砲の威力も、爆弾の破壊力も、まるで大男に蚤が食いついた程の力にも値しないことは、よくわかる。新田先生は、もうその後を尋ねる元気もなくなった。
「どうだ、新田。いよいよ地球の文明も、これでおしまいになるよ。人間どもは、日ごろこの宇宙の中で、一等えらいもののように思っていたろうが、これで、いかに弱いものだか、わかる日が来るのじゃ。全く、気の毒みたいなものじゃ」
と、蟻田博士は、自分だけは人間でないような口ぶりであった。
新田先生はそれを聞いて、いやになってしまった。自分の足の下にふまえている地球が、こわれてしまうなんて、とんだことになったものである。しかも、その地球がこなごなにこわれることを、じっと見ながら死んでいくのだ。なんという恐しいことであろうか。
(全く、こうなると、人間というものの力は、ずいぶん小さいものだ。蟻が人間の指の下で、おしつぶされるよりも、もっと簡単に、人間たちは、モロー彗星の衝突で、みな殺しにされてしまうのだ。ああ、なんというみじめな人間の力であろうか」
新田先生は、心の中で、泣きの涙になっていた。
「さあ、そうなると、わしも、新しい仕事が出来て、いそがしくなったぞ」
と、蟻田博士は、手を後に組んで、落着かない様子で、部屋をあちこちと歩き廻る。
「まず、第一に用意しておかなければならないことは、地球の最期を映画にうつして、後の世まで残しておくことじゃ。はて、どうしてそれをやりとげたらいいじゃろうか。これは、なかなかむずかしいぞ」
博士は、ひとりごとを言って、また歩き廻る。
新田先生は、不審の面持だ。
(地球の最期を映画なんかにおさめたって、どうにもならないではないか。なぜといって、地球そのものが、モロー彗星の衝突で、煙のように消えてしまうのだから。へんなことをいう博士だ)
そう思って、蟻田博士の方をじっと見ていると、博士は、そんなことは一向気にかけない様子で、今度はしきりに天体望遠鏡をのぞきこんでいる。
「ほう、モロー彗星の形がだいぶん変って来たぞ。なるほど、これで観測の結果が正しいことがわかって来た」
博士は、やがて地球がこわれ、そうして自分も死ぬことが、さらに気にならないらしい。そういう落着きは、学者だからそうなのか、それとも又別にほかのわけがあるのか、今のところ、どっちともわからない。
「もし、蟻田博士」
「なんじゃ。大事なところじゃ。あまり口をきくな」
「だって、そういう大事件が迫っていると聞けば、もっと詳しく博士から伺っておきたくなります。博士。一体モロー彗星が、地球に衝突するのは、何月何日のことですか」
新田先生は、モロー彗星が地球に衝突する日までが、なるべく長いことを祈りながら、最も大事なことを博士に尋ねた。
「衝突の日のことか。つまり地球最期の日は何月何日かと聞くのじゃな。ふふふ、それはなかなか重大問題じゃ。うっかり答えることは出来ない」
「博士。ぜひ教えていただきたいです。それによって、僕たちは、用意をしなければなりません」
「なに、用意をする? 用意って、なんの用意をするのか。お前たちがどんな用意をしようと、結局むだなことじゃ。おとなしく死んでしまうがいい」
博士は、地球とモロー彗星との衝突する日を、なかなか言おうとはしなかった。新田先生は、ますますいらいらして来るのだった。
「もし、博士。なぜそれをおっしゃって下さらないのですか」
「まあ、いいよ。そんなことを聞いても、なんにもなりはしない」
博士は、頑として言わなかった。
「まだ一年ぐらい先ですか」
「さあ、どうかな」
「それとも一箇月後でしょうか」
「さあ、どうかな」
博士は、同じことを言いながら、望遠鏡にしがみついている。
「どうしても、おっしゃって下さいませんか。では、よろしい。僕は、誰かほかの天文学者のところへいって、それを聞いて来ます」
新田先生はとうとうおこってしまった。いつもは決しておこらない先生だったが、地球が粉みじんになるという恐しい話を聞いたので、少し取りみだしたかたちであったと、先生のために言いわけをしておきたい。
それを聞くと、博士は初めて望遠鏡から目を離した。そうして新田先生のそばへ近づき、両手を後に組んで、若い弟子の顔をのぞきこむようにして、
「はははははは、お前は、この師の学力が、どんなに大きく、かつ深いものであるかを知らないとみえるのう。まあ、やってみるがいい。誰のところでもいい、天文学者という学者のところを歴訪して尋ねてみるがいい。恐らく、それに答えてくれる学者は、一人もいないであろう。いや、第一、モロー彗星が地球に衝突することすら、誰も気がつかないであろう。ふん、自慢じゃないが、世界広しといえども、わしよりえらい天文学者は、ただの一人もいないのじゃ」
そう言って、蟻田博士は、ここちよげに、からからと笑った。
蟻田博士の、恐るべき自信!
モロー彗星と地球とが、やがて衝突するだろうことを知っているのは、世界広しといえども自分一人だと言う。
あまりにも、大きなことを言いすぎるではないか。
だが、新田先生は、博士が大ぼらを吹いているのだと、一がいには、きめられないと思った。なぜなら、博士が実にすぐれた学者であることは、その昔、博士の下で助手のようなことをしていたので、そのころからよく知っている。そのころアメリカのウィルソン山の天文台に、テーラーという博士がいたが、その人こそ、その頃における世界一の天文学者だった。そのテーラー翁がなくなるすこし前に、蟻田博士のところへ一通の手紙が来た。新田先生も、あとでその手紙を見せてもらったけれど、その文中にこんな文句があった。
(ああ、自分は、初めて安心ということを知った。それは自分の亡きあと、あなたのような天才的天文学者がいるから、天文学については、心配がいらないということを発見したからである。蟻田博士よ、どうかあなたは世の中の評判を気にしたり、またえらくなったり、金持になったりすることを願ったりしないで、一命をただひたすら学問のために捧げてもらいたい。世の中からわる口を言われても、学問の上のことでは、決して、弱くなってはいけない。そうすることが、世界人類のため、真の幸福をもたらす道であるからである)
(自分は恐れる。あなたの上に、あるいは、世間の非難が集中する時が来るのではないかと。なぜなれば、あなたはきっと、オリオン星座附近に横たわる、千古の秘密について興味をもち、そうしてついに一つの恐しい答えを得るかも知れないからだ。その恐しい答えこそ、世界人類が常日頃願っている幸福をにぎりつぶし、大暗黒を与えるものであるかも知れないからだ)
テーラー老博士の手紙の中には、こうした意味ぶかい文句があったのである。
モロー彗星と地球との衝突は、もうさけることの出来ないものだ――と、蟻田博士は信じきっている。だが、その衝突が、いつ起るのやら、それについては、口をかたくむすんで、語ろうとしない博士だった。
新田先生は、どうかして、その衝突の予想日を、博士から聞出したいと、あれやこれやと、手を考えた。
「もし、博士。僕にもお手伝をさせて下さい。モロー彗星の位置の計算でもやりましょうか」
すると、博士は笑って、
「ふふん、お前なぞにそんなむずかしいことが、出来るはずがないよ。手伝ってくれるというのなら、この望遠鏡で、モロー彗星の様子にかわりがないか、それを気をつけていてくれないか」
そう言って、博士は望遠鏡を新田先生にゆずった。
もちろん博士は、その望遠鏡の使い方について、一通りのことを新田先生に、教えてやらなければならなかった。また、モロー彗星が、これまでどんな風に形を変えていったか、それについても、写真や観測表でもって、大体の知識を入れてやらねばならなかった。おかげさまで、新田先生は一気に最新の天文学をのみこむことが出来た。
そこで、新田先生は、ひとりで、望遠鏡を動かすことになった。
ただ残念なことには、モロー彗星のいるところが、今ちょうど太陽面の近くにあり、そのうえ雲が邪魔をしているので、はっきり見えないことだった。しばらく時間をまつよりほか、仕方がない。
その代り、新田先生は、望遠鏡をいろいろと動かして見ることが出来た。博士が世界一を誇るだけあって、じつにすばらしい明かるい望遠鏡だった。そのうちに、新田先生は、異様なものを、望遠鏡の中にとらえた。
12 三つの獲物
湖畔に起った怪事件を取調べるため、かねて千葉へ出張中だった大江山捜査課長は、一日向こうに泊り、その翌日の夕刻、東京へ帰って来た。
帝都は、今ちょうど暮れたばかりで、高層ビルジングのあちこちの窓には、電灯の火が明かるくかがやき、その下で、いそがしい仕事をかたずけるため居残りをしている社員たちの姿さえ、はっきり見られた。
「課長、すぐ本庁へ行かれますか」
と、自動車の運転をしている警官がたずねた。
「ああ、すぐ本庁へたのむ」
課長としては、こういうわけのわからない事件の報告は、なるべく早くすませておかないと、気が落ちつかないのであった。いってみてよかった。これまでに手がけた事件とちがって、全く妙ちきりんな事件である。警視総監も、さぞ驚かれることであろう。
課長の乗った自動車は、お濠を右に見て、桜田門の向かいに立ついかめしい建物の玄関に着いた。この建物こそ、わが帝都を護る大きな力、警視庁であった。
課長は、一旦、自室へはいったが、すぐ席から立って、総監室へはいった。
課長は、なかなか出て来なかった。彼が出て来たのは、それから約一時間もたった後のことだった。総監も、課長の報告によって事件の重大性に驚き、今後のため、いろいろと念入な打合わせが、行なわれたものらしい。
課長が自席へ帰って来ると、それを見かけた佐々刑事が、課長のところへ飛んで来た。
「やあ、課長。ごくろうさまですなあ。で、その火星の火柱とか、火星の化物とかいう怪しいものの正体は、わかりましたか」
課長は、それに返事をするかわりに、首を左右にふった。
「えっ、やっぱりわからないのですか。課長にもねえ」
大江山課長は、溜息をついた。
そうして佐々刑事に向かって、
「おい、皆にここへ集ってもらってくれ。千葉出張の獲物について報告をするから」
「ははあ、獲物についての報告ですか。獲物とは、そいつはすばらしい話だ」
佐々は、大仰に驚いて、課内の幹部の机を一々走ってまわった。
まもなく、課長の机の前後左右は、部下の主だった警官によって、ぐるっと取りかこまれた。
課長は、そこで、いつになく深刻な顔つきで、一同をぐるっと見まわしたあとで、
「千葉へ出張して、掴んで来たことについて報告をする。結局獲物は、たった三つである」
と言って、課長は、机の上を指先で、ことんと叩いた。
「その第一。火柱の発見者で、そのために大怪我をした友永千蔵という男は、怪我をした場所がよくないらしいが、目下気が変な状態にある。どうにも、手のつけようがない。だが、怪我の方は、重傷ではあるが、致命傷ではないそうで、このまま死ぬ心配はない」
課長はそこでちょっと口を切って、
「第二の収穫は、こういう拾い物だ」
と言って、鞄の中に手を入れて、やがて机の上に放り出したものをみれば、木の葉蛙の背中のような、色のまっ青な、長さ一メートルあまりの鞭のようなものであった。
課長を取りかこんでいた幹部警官たちは、俄にざわめきたった。そうして首をのばし、目をみはって、その気味のわるい色をした鞭のようなものをみつめた。
「課長。これは一体、何ですか」
部下の一人が、たまらなくなって、課長に質問を放った。
「さあ、お前たちは、これを何だと思うかね」
大江山課長は、机の上にのせたその気味のわるい青い鞭のようなものを指して、周囲に集った警官たちの顔を、ずっと見まわした。
「はて、何でしょうかね」
「一種の紐だな」
「どこかについていた紐が、ちぎれたのじゃありませんかね」
「どうもわからない。とにかく、いやらしい青い色だ」
課長について千葉へ出張していた部下たちも集って来て、皆の説をおもしろげに聞入る。千葉で拾って以来、一体これは何だろうかと、さかんに議論をやったらしい。
「ねえ、課長。それは、火星の化物の遺失物ですよ」
とつぜん、大きな声でどなった者がある。それは、いつも元気のいい佐々刑事であった。遺失物というのは落し物とか、忘れ物とかいう意味であった。
「よう、佐々、お前はなかなか目がきくぞ。今日は、特製ライスカレーを食べたんだな」
一座は、どっと笑った。
佐々刑事と特製ライスカレーの関係は、庁内でたいへん有名であった。彼はずっと前、或る事件のため、一年近く遠く南の方に出張していた。わが南洋領の諸島を廻り、それから更に南下して、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベスという四つの大きな島をぐるぐる廻って来た。そのとき彼は、みやげにカレーの粉を石油缶に五杯も持って帰り、同僚にも分け、もちろん大江山課長にも呈上した。残りは、大事にしまってある。そうして、時々そのカレー粉を出してニウムの鍋にとき、自分でライスカレーを作って食べる。
それが有名な佐々の特製ライスカレーだが、それについてまだ話がある。
彼は、特製のライスカレーを、うまそうに食べる。七分づきの御飯は食堂からとりよせるのであるが、この上にぶっかける黄色なカレーの汁の中には、いろいろなものがはいる。鳥のこともあれば豚の時もあり、じゃがいものはいっていることもあれば、玉葱のはいっていることもある。
なおその上に、彼はいろいろな香の物をきざんで、混ぜあわすのである。黄色く押しのかかった古漬の沢庵や、浅漬のかぶや、つかりすぎて酸っぱい胡瓜や、紅しょうがや、時には中国料理で使う唐がらし漬のキャベツまでも入れる。香の物は、なるべくたくさんの種類がはいっているのがいいそうである。
ぽっぽっと、湯気の立つ皿の上をながめて、彼は、まだ食べない先から、盛に、ごくりごくりと唾をのみこんでいる。
こうして用意がすっかり出来る。そこで彼は大きなため息を二つ三つして、はじめて瀬戸物製の大きなスプーンを左手に握るのである。彼は、左ききである。
「ああ、これゃ熱くて、口の中が火になるぞ!」
彼は、頬をふくらませて、皿の上にもうもうと立昇る白い湯気を、ふうっと吹き、そうして山のように盛上ったライスカレーへ、左手に握った瀬戸物のスプーンをぐさりと突立てるのである。あとはただ夢中で、馬のように食う。――これをやると、佐々の頭は、急にたいへんによくなるそうである。
当人はそれでいいが、迷惑をするのは机を並べている同僚だ。なにしろ、これだけのカレー料理を、佐々は自分の机の上で作るのである。誰がなんと言っても、彼は、断然自分の机の上で作る。そのために、彼のカレー料理が始ると、捜査課の中は、カレーのにおいがぷんぷんする。時には、警視庁の建物全体がカレーくさくなる。
佐々刑事の自席料理のため、恐るべきカレーの毒ガスが、警視庁のどの部屋といわず、どの廊下といわず、はいこんでいくのであるから、これまで幾度も問題になった。
だが、当人は、何と言われようと平気であった。この特製のカレー料理を食べると、元気が出て頭がよくなる。その結果、犯人を早くつかまえることが出来る。そうなれば、警視庁のために喜ばしいことである。だからライスカレーの手製はやめられない。――というのが佐々刑事の言分であった。