12話 鎧武者
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金色の小雀は、異常なる精神力で、僅に追手を逃れて美術館に駈け込んだが、一難去って又一難、追手を防ぐ為に締めた扉が、却って我と我身をとじこめる落し戸となってしまった。
外には扉を乱打する警官の声。内には薄暗い陳列場に、不気味な仏像の地獄絵巻。乏しい窓には凡て厳重な鉄格子だ。好んで牢獄に飛込んだも同然である。
小雪の顔は恐怖と焦燥の為に醜くひん曲っているのに、それを覆った黄金仮面は、相変らず三日月型の無表情な笑い顔。その笑い顔のまま、彼女は、丁度網にかかった鼠の様に、惶しく、みじめに、美術館内を駈け廻った。
どこにも出口のないことは分り切っている。だが、じっとしてはいられぬのだ。今にも、三好老人がやって来て、鍵で扉を開いたなら、ドッとなだれ込む警官の群、忽ち縛られることは知れたことだ。それから、護送車、法廷、牢獄、絞首台。身の毛もよだつ幻が、恐ろしい早さで次々と頭をかすめる。
いくら駈け廻っても無駄なことを悟ると、今度は、物におびえた獣の様に、彼女は部屋中で一番暗い隅っこへ、そこにニョッキリ立ちはだかっている、小桜縅の鎧武者のうしろに身を潜め、息を殺して、屋外の物音に耳をすました。
鎧武者といっても、生人形ではない。鎧櫃の上に、ドッカと腰かけた形に飾ってある、中味はがらんどうの陳列品だ。黄金仮面の小雪は、その鎧櫃に倒れる様に凭れかかっていた。早鐘の動悸は静めようとて静まるものではない。身体全体が、恐ろしい耳鳴りに調子を合わせて、ドキンドキンと揺れている。
不思議な静寂、ひどい耳鳴りの為に、凡ての物音が消されるのか、屋外の人々は、遠く遠く立去ってしまったかの如く、何の気配も聞えては来ぬ。空漠たる虚空に、無人の美術館だけが、ポッツリと浮んでいる感じである。
その時、何とも形容出来ない変挺なことが起った。
彼女の動悸の外に、もう一つ別の調子の皷動が、身近かに脈うっていることを感じたのだ。ドクドクドク……と彼女の早い皷動、その間を縫って、ゴクン、ゴクンと確りした非常に遅い皷動が、どこからか伝わって来る。
思わずゾッとして、注意をそれに集中すると、分った。分った。その動悸は彼女の指先から伝わって来るのだ。その指先は、櫃の上の鎧武者のお尻に触っている。すると、この鎧武者には、血が通っているのかしら。
鎧の中には、洋服屋の陳列器みたいな、木の棒が立ててある切りだが、そのがらんどうの鎧がどうしてこんなに脈打っているのだろう。と、見ると、何だか、その全体が、モクモクと身動きをしている様に思われて来る。
追手の怖さとは、全く別の恐怖が、彼女の背筋を這い上った。見渡す限り、怪奇な仏像や仏画の幽冥界、その片隅で、虫の食った何百年前の小桜縅がドキンドキンと脈打っているのだ。
小雪の黄金仮面は、怖さに吸い寄せられて、鎧武者の顔を覗いた。錣の翼を張った兜の下に、赤銅色の頬当てが鬼の口を開いている。その奥に、ボンヤリ見える白いもの。アア、果して人間だ。鎧の中には本当の人間が這入っていたのだ。
「ギャッ」
と叫んで、小雪が飛びのくと同時に、その鎧が、鎧櫃からヒョイと立上って、物を云った。
「怖がることはない。俺はお前の味方だ」
お化けではない。当り前の人間が、何かの目的で、鎧の中に隠れていたのだ。と分っても、その扮装の不気味さに、小雪はまだ逃げ腰だ。
「あなたは、誰です。誰です」
「名前を云ったところでお前は知るまい。俺は首領の云いつけで、昨夜からこの鎧武者に化けていたのだ。何の目的? そんなことを喋っている暇はない。お前を救わなければならぬ。お前を助けるのも、やっぱり首領の為なのだ。サア、逃げ道はちゃんと作ってある。こちらへ来るがいい」
「アア分った。あなたはあの人の仲間ですね。それで、もし私が捕れば、あの人の秘密がバレてしまうものだから、それが怖いのですね」
「早く云えばその通りだ。つまりお前を助けるのではない。我々の首領の秘密を救うのだ。併しお前にしては、この際、そんなことはどうだっていいじゃないか」
「逃げ道って、どこにあるのです。それをちゃんと私の為に用意して置いて下すったのですか」
「お前の為だって。ハハ……、お前の悪事がこんなに早くバレようなんて誰が思うものか。明智の奴さえ出て来なければ、万事うまく行ったのだ。それに、あのおせっかいめ。……だから俺はあいつの鼻をあかしてやろうと決心したのだ」
気ぜわしく話しながら、鎧武者は鎧兜を脱ぎ捨て、小雪の手を取って、裏手の窓へと走った。
丁度彼等が窓に達した時、ガラガラと大きな音を立てて、背後の大扉が開かれ、追手の群がドヤドヤと踏み込んで来た。だが、不意の暗さに、彼等はまだ窓の二人には気がつかぬ。
「サア、ここだ。お前の為じゃない。俺の逃げ道に、この鉄棒を切って置いたのだ」
鉄格子を握って、一揺りすると、四ヶ所のヤスリ目から、ポッカリとはずれて、大きな穴があいた。二人はそこを潜って外に出ると、ダラダラ坂の芝生と、低い生垣の向うに、漫々たるC湖が拡がっている。その岸に一艘のモーターボート。侯爵家の遊覧舟だ。
「お前、モーターボートが動かせるか」
「エエ、出来ますわ」
「そいつは幸だ。じゃ、お前一人で、それに乗って逃げ出すんだ」
「でも、どっかへ上陸したら、すぐ捕ってしまいますわ」
「だからよ。それにはちゃんとうまい用意が出来ているのだ。……」
男が何かボソボソと囁くと、小雪はビックリして、ボートの中に横たえてある、ステッキよりは少し長い竹竿を見た。
「マア、これで?」
「ウン、この追手を逃れるには、その位の苦労は当り前だ。お前は人殺しなんだぜ」
「エエ、やりますわ。どうせ絞首台に送られる身体です。死んだ積りでやれば、女でもその位のこと、出来ない筈はありませんわ」
小雪は決然として云い放つと、単身ボートに乗り込んだ。エンジンはいつでも動く様に準備が出来ている。
「オット、それを脱いじゃいけない。さっきも云った通り、そいつの利用法を忘れちゃいけないぜ」
小雪が金色の仮面やマントを脱ごうとするのを、男が止めた。追手の目標になるこの衣裳を、なぜそのまま身につけていなければならないのか、不思議な指図もあったものだ。
「じゃ、しっかりやるんだぜ。俺は又俺で、仕事がある」
男は小雪のモーターボートが、勇ましい爆音を立て始めたのを見送ると、どこへ行くのか、岸伝いに、風の様に走り去った。
この鎧武者の男は、そもそも何者であるか。又彼が首領と呼ぶ人物は一体誰の事なのか。それらの疑問はお話が進むにつれて段々分って行くのだが、ここではただ、鎧武者に化けた男が、昨夜以来ずっと美術館内にいたということ、随って彼は明智小五郎が、置き換えられた美術品の偽物を観破し、それに記してあったA・Lの記号まで読取ったのを、じっと闇の片隅から観察していたということを、記憶に留めて下さればよいのである。