2話 宇宙戦隊(2)
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東京からは係官が来るかわりに有名な特別刑事調査隊の七人組がやってきた。
この七人組は、刑事事件に長い間の経験を持った、老弁護士の集団から選び出された人たちで、当局からも十分信頼されて居り、係官と同じ検察権が特に与えられていた。
この七人組は、「奇妙な死骸」事件の話を聞くと、特に志願して、この事件の解決にあたることになったのである。当局としては、戦時下非常にいそがしい折柄でもあるので、七人組の申し出をたいへん喜び、それに事件をまかせることにしたのである。
この特別刑事調査隊長を室戸博士といい、残りの六人も全部博士であった。殊に甲斐博士という人は、法学博士と医学博士との、二つの肩書を持っている人で、法医学には特にくわしい知識をもち、一行の中で一番年齢が若かった。それでも氏は、五十五歳であった。
このようにすぐれた博士組が、この鉱山へ来てくれたので、事務所はもちろん、東京本社でも大喜びだったし、この怪事件にふるえあがっていた土地の人々も、大安心をしたのであった。
調査隊の取調べが始った。さすがにその道の老練家たちだけあって、やることがきびきびしていた。
坑道のあらゆる底が調べあげられた。そして石膏で模型が作りあげられた。その結果、この怪物は土中から出てきたのではないことがあきらかとなった。
現場の写真が何十枚となくうつされた。竪坑の寸法が測られた。径が六メートルあった。
竪坑のあらゆる壁が調べられた。そして三箇所において、この怪物がぶつかったと思われる痕が発見された。怪物が竪坑を下へと落ちてきたことは、いよいよあきらかとなった。
怪物の死骸は、現場で立体写真におさめられ、実物と寸分ちがわない模型を作りあげる仕事が進められた。それからこの怪物のからだに附着していた土が小さく区分されて、いちいち別の容器におさめられた。
坑道内の土も、全部集められた。
七人の博士について来た助手たちは、ほとんど一睡もとらないで、この仕事を続けた。この怪物の頭部の後に、第三の眼らしきものがついているのが発見されたのも、この時であった。身体の要所要所の寸法も、くわしく測って記録された。
あらゆる記録が、これで揃った。隊長の室戸博士は、この報告を受取って、たいへん満足した。
「それでは、あとを甲斐博士にお願いするかな」
と、隊長は、甲斐博士の方に目くばせをした。
「はい。ようやくお許しが出ましたよ。それでは私が解剖をお引受けいたしましょう」
甲斐博士は、にっこりと笑った。
解剖が最後に残されたのであった。
きれいに水で洗われた怪物の死骸が、白い担架の上から、解剖台の上にのせられた。
「おい。甲斐博士。ここで執刀するのかね」と、隊長が聞いた。
「はい。ここの方がよろしゅうございます。静かでもありますし、このとおり照明も十分できていますから……」と、甲斐博士が答えた。
「地上へ持って行こうじゃないか。解剖している途中で、臭気が発散すると、ここでは困るぞ」
「賛成ですな。くさくて息がつまるかもしれない。すでにこの死骸は十数日たっていますからな」と、隊員の一人がいった。
「では、そうしましょう」
甲斐博士は、すなおに隊長室戸博士の説に従った。怪物の死骸は、地上へ運ばれることとなった。それを聞いていた次長は、はっと顔色を変えた。今日はあいにく帆村荘六がこの席にいないが、彼はこの怪物をここから出すことをかたく戒めて行ったのだ。そこで次長は前へ進み出て、そのことを注意した。
すると室戸博士は首を左右にふった。
「根拠がないね、この死骸を動かしてはいかんというのは……。われわれの診断によると、これはもう死んでいるのだ。心臓の音を顕微音聴診器できいても、全く無音だ。死んでしまっているものを、どこへ持っていこうと心配はないじゃないか」
この七人組の博士たちは、なかなか偉い人たちの集りで、少しも欠点がなかったが、しいて欠点をあげると、少しばかり頑固なところがあった。他人の言うことを、あまり取上げないのであった。それは刑事事件に対する自分たちの永い経験と、強い自信からきているようであった。次長はもう黙っているほかなかった。
怪物の死骸は、滑車にとおした長い綱によって、簡単に地上へ運ばれた。そこにはすでに、解剖に便利なように、天幕が張られてあった。
怪物の死骸は、白い解剖台の上に載せられた。そのころ地底へ持っていってあった甲斐博士の解剖用道具が、つぎつぎに竪坑の下からあがって来た。
甲斐博士はすっかり白装束の支度をしていた。背中には、いつでも役に立つようにと、防毒面がくくりつけてあった。用意はすっかり整ったのだ。
甲斐博士が、電気メスを右手に握って、怪物の死骸に近づいた。その時だった。死骸をおさえつけていた助手の一人が、
「あっ」と叫ぶと、
「先生、この死骸は生きているのじゃないでしょうか。心臓の鼓動らしいものを感じます」と、早口でいった。
「ばかなことをいうな。私は何度も聴診したが、心臓の鼓動なんて一度も聞えなかった。それに、ほら、こんなに冷え切っている……」
と、甲斐博士は、怪物の死骸に手をふれて助手を叱りつけようとしたが、そのとき博士の顔色は、なぜかさっと変って、紙のように白くなった。
消え行く怪物
甲斐博士が、恐しそうに身を後に引くのと、怪物の死骸がぴょんと跳ね上がるのとが同時であった。
「あっ」
解剖に立会っていた者で、青くならない者はなかった。
怪物の死骸――いや、死んだものとばかり思っていた、その怪物の身体は、解剖台の上に突立った。あまりのすごさに、人々は思わず下にひれ伏した。
と、怪物の身体は、台の上で独楽のようにきりきりと舞いだした。それが見るまに台から上にとびあがったと思うと、天幕を頭でつきあげた。ばりばりぷつんと、天幕の紐が切れる音が聞えた。すると天幕がばさりと下に崩れ落ち、次にその天幕は地上を滑って走りだした。その後で、解剖台が大きな音をたててひっくりかえったので、人々はびっくりして目をとじた。
やがて人々が目を開いたときには、天幕はもう百メートルも向こうの山腹を走っていくのが見えた。なんといっていいか、その奇怪な光景は、文章にも絵にも書きあらわせない。
「追え。あれを追え」
そう叫んだのは、隊長の室戸博士の声だった。若い助手たちは、隊長の声に、ようやく我にかえった。そして青い顔のままで、逃げて行く天幕のあとを追いかけた。
「追いつけないようだったら、ピストルで撃ってもいいぞ」
隊長室戸博士は、金切声で、助手たちの後から叫んだ。
駆けだす天幕の足は早かった。助手たちは息切れがしてきた。そして天幕との距離はだんだん大きくなっていく。
「撃とう。仕方がない。撃っちまえ」
「よし」
助手は立木に身体をもたせて、逃げる天幕めがけて、どかんどかんとピストルをぶっ放した。銃声はものすごく木霊した。だが天幕は、あいかわらず走りつづけるのであった。
「あれっ、たしかに命中したはずだが……」
天幕はそれでもなお走った。そして山腹の途中の坂を下った。助手はピストルを撃つのをやめて、また追いかけた。
その坂が見下せるところまで、時間でいってわずか五分ばかりのところだった。そこへまっ先にのぼりついたのは、助手の児玉という法学士だった。彼は坂の下に、天幕が立ち停っているのを発見した。それを見たとき、彼の足はすくんで動かなくなった。怪しい天幕が、彼に戦をいどんでいるように見えたからである。
ようやく後から来た助手たちも追いついた。そこで若い連中は勢をもりかえし、
「それ行け。今のうちだ」
と、大勢で突撃して行った。
天幕は、一本の松の木にひっかかり、風に吹かれてゆらゆら動いていた。だが、目ざす緑色の怪物の姿は、どこにもなかった。
「どこへ行った。あの青とかげの化物は……」
皆はそこら中を探しまわった。しかし緑色の怪物は、どこにも見えなかった。
「見えないね。どこへ行ったろう」
ふしぎなことである。たしかに天幕をかぶったままで走って、ここまで来たに違いないのに……。
「あっ、あそこだ。あそこにいる」
児玉法学士が、するどい声で叫んで、右手を前方へのばした。
「えっ、いたか。どこだ」
「あの岩の上だ。あっ、見えなくなった。ふしぎだなあ」
「ええっ、ほんとうか。どこだい」
児玉法学士の指さす方に、たしかに裸岩が一つあった。しかし怪物の姿は見えなかった。後からかけつけた連中は、児玉がほんとうに岩の上に怪物の姿を見たのかどうかを疑って、質問の矢をあびせかけた。
これにたいして児玉は、すこし腹を立てているらしく、頬をふくらませて答えた。
「……怪物めは、あの岩の上に、立ち上ったのだ。さっき解剖台の上で立ち上ったのと同じだ。それから身体を軸としてぐるぐる廻りだした。すると怪物の身体がふわっと宙に浮いて、足が岩の上を放れた。竹蜻蛉のようにね。とたんに怪物の姿は見えなくなったのだ。それで僕のいうことはおしまいだ」
「へえっ、ほんとうなら、ふしぎという外はない」
「君たちは、僕のいうことを信用しないのかね」
「いや、そういうわけじゃないが、とにかく君だけしか見ていないのでね」
緑色の怪物を最後に見た者は、この児玉法学士だけであった。それ以後には、誰も見た者がなかった。そして緑色の怪物にたいする手がかりは、これでまったく終りとなった。
いったいあの怪物はどこへ行ってしまったのであろうか。そして、どうしたのであろうか。
失望したのは特別刑事調査隊の七人組の博士たちや若い助手達だけではなかった。集ってきた鉱山の社員や村の人々も、皆失望してしまった。
「やっぱり帆村荘六が言った注意を守っていた方がよかったね。そうすれば、あの怪物は逃げられなかったんだ」
「たしかに、そうだと思う。惜しいことをしたな。しかしあの怪物は、死んだふりをしていたのだろうか」
「そこがわからないのだ。解剖台の上から飛び出す前には、心臓は動いているような音が聞えたそうだが、怪物の身体は、やはり氷のように冷えていたそうだよ」
「それはへんだねえ。生きかえったものなら、体温が上って温くなるはずだ」
「そこが妖怪変化だ。あとで我々に祟りをしなければいいが」
と、鉱山事務所の人々がかたまって噂をしていると、後から別の声がした。
「いや、あれは妖怪変化の類ではない。たしかに生ある者だ」
この声に、皆はびっくりして、後をふりむいた。するとそこには帆村荘六が立っていた。
「ああ帆村君か。君は今まで何をしていた……。しかし君の注意はあたっていたね」
「そうだ。不幸にして、私の予言はあたった。坑道の底では死んでいた怪物が、地上に出ると生きかえったのだ。あれは宇宙線を食って生きている奴にちがいない」
帆村は謎のような言葉を吐いた。これでみると、帆村だけは、あの怪物の正体について、いくらか心当りがあるらしい。いったいあれは何者だろうか。そして何をしようとしているのだろうか。
宇宙線の威力
青いとかげの化物みたいな怪死骸に逃げられ、皆がっかりだった。はるばる東京からやってきた特別刑事調査隊の七人組も、どうやら面目をつぶしてしまったかたちで、室戸博士以下くやしがること一通りではなかった。
この上、現場にうろうろして、怪物のとび去った空をながめていても仕方がないので、鉱山の若月次長のすすめるままに、一同は鉱山事務所へ行って休息することとなった。
青とかげの怪物がにげてしまったことは、すでに事務所にもひろがっていた。皆おちつきを失って、あっちに一かたまり、こっちに一かたまりとなり、今入ってきた七人組を横目でにらみながら、怪物の噂に花がさいている。
「あの七人組の先生がたも、こんどはすっかり手を焼いたらしいね」
「しかし、折角こっちがつかまえておいたものを、むざむざ逃がすとは、なっていない」
「それよりも、僕はあの怪物がきっとこれから禍をなすと思うね。この鉱山に働いている者は気をつけなければならない」
「あんな七人組なんかよばないで、帆村さんにまかせておけばよかったんだ」
「そうだとも、帆村荘六のいうことの方が、はるかにしっかりしている。彼は『あの怪物は宇宙線を食って生きている奴だ』と、謎のような言葉をはいたが、宇宙線てなんだろうね。食えるものかしらん」
誰もそれについて、はっきり答えられる者がなかった。
「宇宙線というと、光線の一種かね」
「そうじゃないだろう。まさか光線を食う奴はいないだろう」
「それではいよいよわけが分からない」そういっているとき、帆村荘六が、例のとおり青白い顔をして、部屋へはいってきた。彼は皆につかまってしまった。そして宇宙線が食えるかどうかについて、矢のような質問をうけたのであった。
「宇宙線というのは、X線や、ラジウムなどの出す放射線よりも、もっとつよい放射線のことだ」と、帆村は、皆にかこまれて説明を始めた。
「X線が人間の体をつきとおるのは、誰でも知っている。胸部をX線写真にうつして、肺に病気のところがあるかどうかをしらべることはご存じですね。宇宙線はX線よりももっと強い力で通りぬける。X線の約三千倍の力があるのです。X線はクーリッジ管から出るものだが、宇宙線は何から出てくるか。これは今のところ謎のまま残されています。しかし地球以外のはるかの天空からやってくる放射線であることだけは分かっています。だから宇宙線といわれるのです。その宇宙線は、まるで機関銃弾のように、いつもわれわれ人間の体をつきぬけている。しかしわれわれは、宇宙線にさしとおされていることに、気がつかないのです。この宇宙線は、空高くのぼっていくほど数がふえます。それから宇宙線は、更に大きな力を引出す働きをします。火薬を入れた函にマッチで火をつけると大爆発をしますが、宇宙線はこの場合のマッチのような役目をするのです。この働きに、僕たちは注意していなければなりません」
聞いていた皆は、何だか急に寒気がしてきたように感じた。
「ふかい地の底には、宇宙線はとどきません。そこに暮していると、宇宙線につきさされないですみます。そうなると、人間――いや生物はどんな発育をするでしょうか。またそれと反対に、人間が成層圏機や宇宙艇にのり、地球を後にして、天空はるかに飛び上っていくときには、ますます強いたくさんの宇宙線のために体をさしとおされるわけですから、そんなときには体にどんな変化をうけるか、これも興味ある問題ですねえ」
「その問題はどうなるのかね」
と、若月次長がきいた。すると帆村は首を左右にふって、
「まだ分かっていません。今後の研究にまつしかありません」
「宇宙線というやつは、気味のわるいものだな」
「そういろいろと気味のわるいものがふえては困るねえ。あの青いとかげのような怪物といい、宇宙線といい……」
「帆村さん、あの青い怪物と宇宙線との間には、どんな関係があるのですか」
と、また一人がたずねた。
「さあ、そのことですがね。あの怪物は宇宙線を食って生きている奴じゃないかと思うのです。つまり地底七百メートルの坑道の底には、宇宙線がとどかない。そのとき彼奴は死んでいた。それを地上へもってあがると生きかえった。地上には宇宙線がどんどん降っているのです。ちょうど川から岸にはねあがって、死にそうになっていた鯉を、再び川の中に入れてやると、元気になって泳ぎ出すようなものです」
「なるほど、それであの怪物は生きかえったのですか」
「そうだろうと思うのですよ。これは想像です。たしかにそうであるといい切るためには、われわれは、もっとりっぱな証拠を探し出さねばなりません」
「すると、帆村君は、その証拠をまだ探しあてていないのかね」
「そうです。今一生けんめい探しているのです」
「しかし、そんな証拠は、見つからない方がいいね」
「えっ、なぜですか」
「だって、そうじゃないか。その証拠が見つかれば、僕たちは今まで知らなかったそういうものすごい怪物と、おつきあいしなければならなくなる。それは思っただけでも、心臓がどきどきしてくるよ」
「しかし、ねえ次長さん。あの青い怪物とのおつきあいは、あの坑道の底で死骸を発見したときから、もう既に始っているのですよ」
「えっ、おどかさないでくれ」
「おどかすわけではありませんが、あの怪物の方が進んでわれわれ地球人類にたいし、つきあいを求めてきているのですよ」
帆村の言葉に、聞いていた一同は、ぶるぶるとなって、たがいの顔を見合わせた。
「これからあんな怪物とつきあうのはたまらないな。なにしろ相手の方がすぐれているんだからね。うかうかすると、僕たちはいつ殺されてしまうか分からない。帆村君、一体どうすればいいんだ、今後の処置は……」
若月次長は帆村の腕をつかまえゆすぶった。帆村はしばらく黙っていた。そして遂にこういった。
「戦争の準備をすることです。宇宙戦争の準備をね」
聞いている者は、おどろいた。
「えっ、宇宙戦争。そんな夢みたいなことが始るとは思われない」
「その準備は一刻も早く始めるのがいいのです」と、帆村は相手の言葉にかまわず、強くいい切った。
「まあ見ていてごらんなさい。これから先、次から次へと奇妙な出来事が起るですよ。そうなれば、僕の今いったことが、思いあたるでしょう」
村道の奇現象
帆村荘六がいったことは、あまりにも突飛すぎるという評判だった。あんなことをいい出したので、それまでこの鉱山でかなり信用されていた彼も、俄かに評判がおちた。しかし、帆村は別にそれを気にする風にも見えず、皆に別れると、ただひとりで、例の坑道の底へはいりこんでしまった。
ところが、帆村の予言したことが、間もなく事実となってあらわれた。これには、鉱山の人々も、びっくりしてしまった。その事実とは、一体何事であったろうか。それは隣村で起ったことであった。
隣村を白根村という。この白根村は、雑穀のできる農村であった。
事件が鉱山事務所に伝わったのは、その夜のことであった。が、その事件が起ったのは、もっと早い時刻だった。正しくいうと、その日の午前十一時ごろのことだった。
白根駅から一本の村道が、山の麓へ向かってのびていた。両側は、ひろびろとした芋畠であった。この村道は畠よりもすこしばかり高くなっていた。
喜作というお百姓さんの一家五人が、そのとき山の麓の方から、この村道を下りてきた。農家の人たちは、いつも午前十一時ごろには、昼飯をたべることになっている。そしてそれは、畠で弁当を開くのが例であった。ところがこの喜作一家は、その日のお昼すぎに、娘の縁談について客が来ることになっていたので、その時刻に畠の用事をすまして、家の方へ戻ってきたのであった。
すると、ちょうど村長さんの畠の井戸があるところまで来たとき、五人の先頭に立って歩いていた喜作が、へんな声を出して、道の上に立ちどまった。
「あれえ、これはどうしたんだろう」
喜作の家内のお浜は、二三歩うしろにいたが、喜作の声におどろいて駆けつけた。喜作は、顔をまっ赤にして、よたよた足踏みをしている。お浜は、喜作が中風になって、これから前にたおれるところだと思った。
「どうしたんだね、お前さん。しっかりおしよ」と、お浜は胸がわくわく、目がくらみそうなのをこらえて、亭主の前にまわった。いや、前にまわろうとしたのだ。
「あ、いたいっ」
お浜は急に体を引いた。誰かに前からつきとばされたように感じたからだ。だが、お浜の前には、誰もいなかった。喜作が自分をつきとばしたのだろうかと思ったが、そうでもないらしい。喜作はあいかわらず、すこし前のめりになって、よたよたと足踏みをつづけている。お浜は狐に化かされたような気がした。そこでお浜は、もう一度喜作の前へまわろうとした。
「あれっ、まただよ」
お浜は、前からつきとばされたように感じた。しかしいくら目をこすってみても、自分をつきとばした者の姿は見えない。お浜は、自分で気が変になったのだと思った。そのうちに、三人の娘が追いついた。お父さんとお母さんは、なにをしているのだろうと、ふしぎに思いながら近づいて行くと、急に足が前に進まなくなった。
「あれえ、どうしたことじゃろ」
「前へ体が進まんがのう」
「わしもそうだよ。狐が化かしとるんじゃろか。早う眉毛につばをつけてみよ」
こんどは三人の娘がさわぎだした。
こうして五人の者は、道の真中に一列に並んだまま、一歩も前へ進まず、うろたえていた。それは奇妙な光景だった。知らない人が見れば、たしかにこの五人の家族は、狐に化かされているとしか見えなかった。しかし狐が化かすなどという、ばかばかしいことがあるものではない。
ちょうどこの時、列車を下りて、駅から出て来た人たちが五六人、喜作の一家とは反対の方向から、なにも知らず、この村道を歩いて行った。
一番前を歩いていた農業会の田中さんという中年の人が、喜作たちのふしぎな挙動に気がついた。一町ほど向こうであるが、道はまっ直であるので、よく見える。
「あれ。喜作どんたちは何をしとるのかい。教練をば、しとるのじゃろか」
一列横隊で五人が足踏みをしている有様は、なるほど教練をしているように見られないこともなかった。
が、その田中さんも、それから十歩と歩かないうちに、喜作たちと同じように、道の真中で足をばたばた始めてしまった。
「ああれ。なんちゅうことじゃ、体が前へ進まんが……」
田中さんはがんばり屋であったから、一生けんめいがんばって前へ進もうと努力した。しかしそれはだめであった。何者ともしれず、前から自分を押しかえしている者があった。もちろんその者の姿は見えない。前へ進もうと力を入れれば入れるほど、強く押しかえされる。顔がおしつぶされて、呼吸をするのが苦しくなるし、胸板が今にも折れそうだ。脚は膝から下がよく動くが、それから上は塀につきあたっているようだ。
この田中さんのあとに続いて来たのは、三人の工業学校の生徒、それからすこしおくれて、海軍の若い士官が一人と、兵曹長が一人。この二人もやがて、目に見えない力のために、前進することができなくなった。この六人も一列横隊でうんうんいっているし、それから半町ほど向こうには喜作の一家五人がこっちを向いてうんうんいっている。まことにふしぎな光景であった。
皆初めはさわぎ、あとは恐怖のために口がきけなくなってしまうのだった。
ただ二人の海軍さんだけは、さすがにしっかりしていて、そうあわてもせず、互の顔を見合わせている。
透明壁か