妖術

1話 妖術(1)

6,779字 約14分 2005年12月29日 公開

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       一

 むらむらと四辺(あたり)を包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧の(えん)な姿で、電車の中から、(さっ)硝子戸(がらすど)を抜けて、運転手台に(あら)われた、若い女の扮装(みなり)と持物で、大略(あらまし)その日の天気模様が察しられる。

 日中(ひなか)は梅の香も女の(そで)も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上(のぼ)せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと()つと、花曇りという空合(そらあい)ながら、まだどうやら冬の余波(なごり)がありそうで、ただこう薄暗い(うち)はさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が(かさ)なると、ちらちら白いものでも(まじ)りそうな気勢(けはい)がする。……両三日(さんち)

 今朝は(うらら)かに晴れて、この分なら上野の彼岸桜(ひがん)も、うっかり咲きそうなという、午頃(ひるごろ)から、急に吹出して、随分風立ったのが(いま)だに()まぬ。午後の四時頃。

 今しがた一時(ひとしきり)、大路が(かすみ)に包まれたようになって、洋傘(こうもり)はびしょびしょする……番傘には(しずく)もしないで、(くるま)母衣(ほろ)照々(てらてら)(つや)を持つほど、(さっ)と一雨(かか)った後で。

 大空のどこか、(ほっ)呼吸(いき)()(さま)に吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上(あが)りそうに見えるが、淡く濡れた日脚(ひあし)の根が定まらず、ふわふわ気紛(きまぐ)れに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。

 すっかり雨支度(あまじたく)でいるのもあるし、雪駄(せった)でばたばたと通るのもある。(からかさ)を拡げて大きく肩にかけたのが、伊達(だて)に行届いた姿見よがしに、大薩摩(おおざつま)で押して()くと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも()いものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、(せわ)しそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。

 電車のちょっと()まったのは、日本橋(とおり)三丁目の赤い柱で。

 今言ったその運転手台へ、鮮麗(あざやか)に出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄(こまげた)に、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重(こうはぶたえ)褄捌(つまさば)き、柳の腰に(なび)く、と一段軽く踏んで下りようとした。

 コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘(こんじゃのめ)の細々と艶のあるを軽く持つ。

 ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟崎(ふなざき)という私の知己(ちかづき)――それから聞いたのをここに記す。

 舟崎は名を一帆(かずほ)といって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨夜(ゆうべ)の酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。

 一旦(いったん)(うち)へ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不了簡(ふりょうけん)(めぐ)らしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、(くだん)の三丁目に(たたず)みつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋傘(こうもり)の用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣過(やりす)ごして、硝子戸越(がらすどご)しに西洋小間(こま)ものを(のぞ)く人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、(しき)りに謀叛気(むほんぎ)を起していた。

 処へ……

 一目その(えん)なのを見ると、なぜか、気疾(きばや)に、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動出(うごきだ)す、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。

 そこにぼんやりと立った(さま)を、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四辺(あたり)の人に見らるるのを(はばか)ったか。……しかし、実はどちらでもなかった、と(かれ)は云う。

 乗合いは随分立籠(たてこ)んだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何より(さき)に映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀娜姿(あだすがた)

       二

 誰も知った通り、この三丁目、中橋(なかばし)などは、(とおり)の中でも(あい)宿(しゅく)で、電車の出入(ではい)りが余り混雑せぬ。

 ()まった時、二人三人は(ほか)にも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。

 乗ったのは、どの口からも一帆一人。

 入るともう、直ぐにぐいと出る。

 ト前の硝子戸(がらすど)を外から開けて、その女が、何と!

 姿見から影を抜出(ぬけだ)したような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。

 そして、ぱっちりした、(うるみ)のある、涼しい目を、心持俯目(ふしめ)ながら、大きく《みひら》いて、こっちに立った一帆の顔を、向うから(じっ)と見た。

 見た、と思うと、今立った(もと)の席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。

 その女は、丈長(たけなが)掛けて、銀の平打の(うしろ)ざし、それ(しゃ)生粋(きっすい)と見える服装(みなり)には似ない、お邸好(やしきごの)みの、鬢水(びんみず)もたらたらと漆のように(つや)やかな高島田で、(ひど)くそれが目に着いたので、くすんだお召縮緬(めしちりめん)も、なぜか紫の俤立(おもかげだ)つ。

 ()いた処が一ツあったが、女の坐ったのと同一側(おんなじがわ)で、一帆はちと(あわただ)しいまで、急いで腰を落したが。

 胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客(のりて)に隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先(つまさき)も見えなかったが、一目見られた(ひとみ)の力は、刻み込まれたか、と鮮麗(あざやか)に胸に描かれて、白木屋の店頭(みせさき)に、つつじが急流に燃ゆるような友染(ゆうぜん)長襦袢(ながじゅばん)のかかったのも、その女が向うへ飛んで、(さかさ)にまた硝子越(がらすご)しに、扱帯(しごき)を解いた乱姿(みだれすがた)で、こちらを差覗(さしのぞ)いているかと疑う。

 やがて、心着くと標示(しるし)萌黄(もえぎ)で、この電車は浅草行。

 一帆がその住居(すまい)へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。

 もっとも、わざととはなしに、一帳場(ひとちょうば)ごとに気を()けたが、女の下りた様子はない。

 で、そこまで()くと、途中は厩橋(うまやばし)蔵前(くらまえ)でも、駒形(こまがた)でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に()くように信じられた。

 何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、(つま)はずれが堅気(かたぎ)と見えぬ。――何だろう。

 とそんな事。……中に人の数を(はさ)んだばかり、つい同じ車に居るものを、一年(ひととせ)、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種々(いろいろ)な事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝子窓(がらすまど)の薄暗くなって来たのさえ、(しか)とは心着かぬ。

 が、蔵前を通る、あの名代(なだい)の大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで(すさま)じく暗くなった。

 頸許(えりもと)がふと気になると、尾を()いて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を(すか)して、(しずく)のその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際(うわ)の空でいたのであった。

 さあ、浅草へ()くと、雷門が、鳴出したほどなその騒動(さわぎ)

 どさどさ(ぶち)まけるように雪崩(なだ)れて総立ちに電車を出る、乗合(のりあい)のあわただしさより、仲見世(なかみせ)は、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女(なんにょ)の姿。

 風立つ中を(むらが)って、(さっ)と大幅に境内から、広小路へ散りかかる。

 きちがい日和(びより)俄雨(にわかあめ)に、風より群集が狂うのである。

 その紛れに、女の姿は見えなくなった。

 電車の内はからりとして、水に沈んだ硝子函(がらすばこ)、車掌と運転手は雨にあたかも潜水夫の風情に見えて、(つか)()(ちり)も留めず、――外の人の混雑は、(しゃち)に追われたような中に。――

 一帆は誰よりも(おく)れて下りた。もう一人も残らないから、女も出たには違いない。

       三

 が、拍子抜けのした事は夥多(おびただ)しい。

 ストンと溝へ落ちたような心持ちで、電車を下りると、大粒ではないが、引包(ひッつつ)むように細かく降懸(ふりかか)る雨を、中折(なかおれ)(はじ)く精もない。

 鼠の(つば)をぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここを(あて)に来たように、素直(まっすぐ)に広小路を切って、仁王門を真正面(まっしょうめん)

 濡れても判明(はっきり)と白い、処々むらむらと()が立って、雨の色が、花簪(はなかんざし)箱狭子(はこせこ)輪珠数(わじゅず)などが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍目(わきめ)()らないで、御堂(みどう)(かた)へ。

 そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼く(におい)が、雨を蒸して、暖かく顔を包む。

 その時、広小路で、電車の口から(さっ)と打った網の(すそ)が一度、混雑の波に消えて、やがて、(むき)のかわった仲見世へ、手元を細くすらすらと手繰寄せられた(てい)に、前刻(さっき)の女が、肩を落して、雪かと思う襟脚細く、紺蛇目傘(こんじゃのめ)を、姿の柳に引掛(ひっか)けて、(つや)やかにさしながら、駒下駄を軽く、(つま)をはらはらとちと急いで来た。

 と見ると、左側から猶予(ため)らわないで、真中(まんなか)()と寄って、一帆に肩を並べたのである。

 なよやかな白い手を、半ば露顕(あらわ)に、飜然(ひらり)と友染の袖を(から)めて、紺蛇目傘をさしかけながら、

貴下(あなた)、濡れますわ。」

 と言う。瞳が、動いて莞爾(にっこり)留南奇(とめき)(かおり)陽炎(かげろう)のような糠雨(ぬかあめ)にしっとり(こも)って、(からかさ)が透通るか、と近増(ちかまさ)りの美しさ。

 一帆の濡れた額は快よい汗になって、

「いいえ、構わない、私は。」

 と言った、がこれは心から素気(そっけ)のない意味ではなかった。

「だって、召物が。」

「何、外套(がいとう)を着ています。」

 と別に何の知己(ちかづき)でもない女に、言葉を交わすのを、不思議とも思わないで、こうして二言三言、云う(うち)にも、つい、さしかけられたままで五足六足(いつあしむあし)。花の枝を手に提げて、片袖重いような心持で、同じ(からかさ)の中を歩行(ある)いた。

「人が見ます。」

 どうして見るどころか、人脚の流るる中を、美しいしぶきを立てるばかり、仲店前を逆らって御堂の(みち)へ上るのである。

 また、誰が見ないまでも、本堂からは、門をうろ抜けの見透(みとおし)一筋、お宮様でないのがまだしも、鏡があると、歴然(ありあり)ともう映ろう。

「御迷惑?」

 と察したように低声(こごえ)で言ったのが、なお色めいたが、ちっと蛇目傘(じゃのめ)を傾けた。

 目隠しなんど()れたかと、はっきりした心持で、

「迷惑どころじゃ……しかし(おだやか)ではありません。一人ものが随分通ります。」

 とやっと苦笑した。

「では、別ッこに……」と云うなり、()ねた風にするりと離れた。

 と思うと、袖を斜めに、ちょっと隠れた(さま)に、一帆の方へ蛇目傘ながら(ほっそ)りした(せな)を見せて、そこの絵草紙屋の店を(なが)めた。けばけばしく彩った種々(いろいろ)の千代紙が、(にじ)むがごとく雨に(もつ)れて、中でも(べに)が来て、女の(まぶた)をほんのりとさせたのである。

 今度は、一帆の方がその(そば)へ寄るようにして、

「どっちへいらっしゃる。」

「私?……」

 と(からかさ)の柄に、左手(ゆんで)()えた。それが重いもののように、姿が(しな)った。

「どこへでも。」

 これを聞棄(ききず)てに、今は、ゆっくりと歩行(ある)き出したが、雨がふわふわと思いのまま軽い風に浮立つ中に、どうやら足許(あしもと)もふらふらとなる。

       四

 門の下で、(うしろ)を振返って見た時は、何店(どこ)へか寄ったか、(わき)()れたか。仲見世の人通りは雨の(おぼろ)に、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。

 それきり()わぬ、とは心の(うち)に思わないながら、一帆は急に寂しくなった。

 妙に心も(あらた)まって、しばらく何事も忘れて、御堂(みどう)の階段を……あの大提灯(おおぢょうちん)の下を小さく上って、(おごそ)かな(ひさし)を……欄干に添って、廻廊を左へ、角の擬宝珠(ぎぼしゅ)で留まって、何やら(ほっ)と一息ついて、(しずく)するまでもないが、しっとりとする帽子を脱いで、額を手布(ハンケチ)で、ぐい、と(ぬぐ)った。

素面(しらふ)だからな。」

 と歎息するように独言(ひとりごと)して、(しご)いて片頬(かたほ)()でた手をそのまま、欄干に(ひじ)をついて、(あまね)く境内をずらりと(なが)めた。

 早いもので、もう番傘の懐手(ふところで)、高足駄で悠々と歩行(ある)くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々(いろいろ)な処へ、これから奥は、御堂の背後(うしろ)、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯(ひきょう)な、相合傘(あいあいがさ)(おく)れは取らぬ、と肩の(そび)ゆるまで一人で気競(きお)うと、雨も(かす)んで、ヒヤヒヤと(ほお)に触る。一雫も酔覚(よいざめ)の水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく……

 が、見透(みとお)しのどこへも、女の姿は近づかぬ。

「馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。」

 と打棄(うっちゃ)り放す。

 大提灯にはたはたと(つばさ)の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も(こも)(ひさし)から、鳩が二三羽、()と出て飜々(ひらひら)と、早や晴れかかる銀杏(いちょう)(こずえ)を矢大臣門の屋根へ飛んだ。

 胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお(ばあ)の前を、内端(うちば)な足取り、(もすそ)を細く、蛇目傘(じゃのめ)をやや前下りに、すらすらと撫肩(なでがた)の細いは……(たしか)に。

 スーと(からかさ)をすぼめて、手洗鉢(みたらし)へ寄った時は、衣服(きもの)の色が、美しく(たた)えた水に映るか、とこの欄干から(はる)かな心に見て取られた。……折からその道筋には、(くだん)の女ただ一人で。

 水色の手巾(ハンケチ)を、はらりと(なまめ)かしく口に(くわ)えた時、肩越に、振仰いで、ちょいと廻廊の(かた)を見上げた。

 のめのめとそこに待っていたのが、了簡(りょうけん)の余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後(うしろ)向きに横へ廻る。

 パッパッと田舎の親仁(おやじ)が、(てのひら)へ吸殻を転がして、煙管(きせる)にズーズーと(やに)の音。くく、とどこかで鳩の声。(あかね)(あねえ)も三四人、鬱金(うこん)婆様(ばさま)に、菜畠(なばたけ)阿媽(かかあ)(まじ)って、どれも口を開けていた。

 が、あ、と押魂消(おったまげ)て、ばらりと退()くと、そこの横手の開戸口(ひらきどぐち)から、艶麗(あでやか)なのが、すうと出た。

 本堂へ(まい)ったのが、一廻りして、一帆の前に(あら)われたのである。

 すぼめた蛇目傘(じゃのめ)に手を隠して、

「お待ちなすって?」

 また、ほんのりと花の(かおり)

「何、ちっとも。……ゆっくりお参詣(まいり)をなされば()い。」

貴下(あなた)こそ、(さき)へいらしってお待ち下されば()うござんすのに、出張(でっぱ)りにいらしって、(しぶき)(つめた)いではありませんか。」

 さっさと先へ()けではない。待ってくれれば、と云う、その待つのはどこか、約束も何もしないが、もうこうなっては、度胸が(すわ)って、

「だって雨を(くぐ)って、一人でびしょびしょ歩行(ある)けますか。」

「でも、その方がお(すき)な癖に……」

 と云って、肩でわざとらしくない嬌態(しな)をしながら、片手でちょいと帯を(おさ)えた。ぱちん(どめ)が少し()って、……薄いが(ふっく)りとある胸を、緋鹿子(ひがのこ)下〆(したじめ)が、八ツ口から(こぼ)れたように打合わせの繻子(しゅす)(のぞ)く。

 その間に、きりりと挟んだ、煙管筒(きせるづつ)? ではない。象牙骨(ぞうげぼね)の女扇を挿している。

 今圧えた手は、帯が(ゆる)んだのではなく、その扇子(おうぎ)を、一息探く挿込んだらしかった。

       五

 紫の矢絣(やがすり)箱迫(はこせこ)の銀のぴらぴらというなら知らず、闇桜(やみざくら)とか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄紅(うすくれない)のちらちらする(すご)い好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺蛇目傘(こんじゃのめ)(そぐ)わない。が、それは天気模様で、まあ分る。けれども、今時分、扇子(おうぎ)は余りお儀式過ぎる。……踊の稽古(けいこ)帰途(かえり)なら、相応したのがあろうものを、初手(しょて)から素性のおかしいのが、これで愈々(いよいよ)不思議になった。

 が、それもその(はず)、あとで身上(みじょう)を聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品(むすめてじな)、と云うのであった。

 思い懸けず、(あんま)り変ってはいたけれども、当人の女の名告(なの)るものを、怪しいの、疑わしいの、嘘言(うそ)だ、と云った処で仕方がない。まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此方(こなた)から推着(おしつ)けに、あれそれとも()められないから、とにかく、不承々々に、そうか、と一帆の(うなず)いたのは、しかし観世音の廻廊の欄干に、立並んだ時ではない。御堂(みどう)の裏、田圃(たんぼ)大金(だいきん)の、とある数寄屋造(すきやづく)りの四畳半に、(ぜん)を並べて差向った折からで。……

 もっとも事のそこへ運んだまでに、いささか気になる道行(みちゆき)の途中がある。

 一帆は既に、御堂の上で、その女に、大形の紙幣(さつ)を一枚、紙入から抜取られていたのであった。

 やっぱり練磨の手術(てわざ)であろう。

 その時、扇子を手で(おさ)えて、貴下(あなた)は一人で歩行(ある)く方が、

「……お(すき)な癖に……」

 とそう云うから、一帆は肩を(ゆす)って、

「こうなっちやもう構やしません。是非相合傘にして頂く。」と(おど)すように云って笑った。

「まあ、駄々(だだ)()のようだわね。」

 と莞爾(にっこり)して、

貴方(あなた)、」と少し改まる。

「え。」

「あの、少々お持合わせがござんすか。」

 と澄まして言う。一帆はいささか覚悟はしていた。

「ああ。」

 とわざと鷹揚(おうよう)に、

幾干(いくら)ばかり。」

「十枚。」

 と胸を素直(まっすぐ)にした、が、またその姿も()かった。

「ちょいと、買物がしたいんですから。」

「お持ちなさい。」

 この時、一帆は背後(うしろ)に立った田舎ものの方を振向いた。(みんな)、きょろりきょろりと(なが)めた。

 女は、帯にも突込(つっこ)まず、一枚(たなそこ)に入れたまま、黙って、一帆に擦違(すれちが)って、角の擬宝珠(ぎぼしゅ)を廻って、本堂正面の階段の方へ見えなくなる。

 大方、仲見世へ引返したのであろう、買物をするといえば。

 さて何をするか、手間の取れる事一通りでない。

 煙草(たばこ)ももう吸い飽きて、(こまぬ)いてもだらしなく、ぐったりと解ける腕組みを仕直し仕直し、がっくりと仰向(あおむ)いて、唇をペろぺろと舌で()める親仁(おやじ)も、(しゃが)んだり立ったりして、色気のない大欠伸(おおあくび)を、ああとする(あかね)新姐(しんぞ)も、まんざら雨宿りばかりとは見えなかった。が、綺麗(きれい)姉様(あねさま)待飽倦(まちあぐ)んだそうで、どやどやと横手の壇を()り懸けて、

「お待遠(まちどお)だんべいや。」

 と、親仁がもっともらしい顔色(かおつき)して、ニヤリともしないで(ほざ)くと、女どもは(どっ)と笑って、線香の煙の黒い、吹上げの(しぶき)の白い、誰彼(たそが)れのような中へ、びしょびしょと入って()く。

 吃驚(びっくり)して、這奴等(しやつら)、田舎ものの風をする掏賊(すり)か、ポン(ひき)か、と思った。軽くなった懐中(ふところ)につけても、当節は油断がならぬ。

 その時分まで、同じ処にぼんやりと立って待ったのである。

       六

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