朱日記

1話 朱日記(1)

7,425字 約15分 2005年12月29日 公開

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       一

小使(こづかい)、小ウ使。」

 程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、(しずか)に教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面(ひげづら)……というが(あご)(ほお)などに貯えたわけではない。不精で剃刀(かみそり)を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭(ごましおあたま)で、眉の迫った渋色の真正面(まっしょうめん)を出したのは、苦虫と渾名(あだな)古物(こぶつ)、但し人の()(おとこ)である。

「へい。」

 とただ云ったばかり、素気(そっけ)なく口を引結んで、真直(まっすぐ)に立っている。

「おお、源助か。」

 その職員室真中(まんなか)大卓子(おおテエブル)、向側の椅子(いす)(かか)った先生は、(しま)布子(ぬのこ)小倉(こくら)(はかま)、羽織は(そで)に白墨(ずれ)のあるのを背後(うしろ)の壁に遣放(やりぱな)しに更紗(さらさ)の裏を(よじ)ってぶらり。髪の薄い天窓(あたま)真俯向(まうつむ)けにして、土瓶やら、茶碗やら、(とき)かけた風呂敷包、混雑(ごった)に職員のが(ちら)ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱(すずりばこ)右手(めて)へ引附け、一冊覚書らしいのを(じっ)(なが)めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと(たか)い、髯の無い、(おとがい)の細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所(ざいしょ)という教頭心得(きょうとうこころえ)。何か落着かぬ色で、

「こっちへ入れ。」

 と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。

 意味ありげな(てい)なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を()せ、では無さそうな処から、小使もその気構(きがまえ)で、卓子(テエブル)(かど)へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、

「御用で?」

「何は、三右衛門(さんえもん)は。」と聞いた。

 これは背の抜群に高い、年紀(とし)は源助より大分(わか)いが、仔細(しさい)も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附(そりつ)けた青道心(あおどうしん)の、いつも莞爾々々(にこにこ)した滑稽(おど)けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。

「同役(といつも云う、(さむらい)(はて)か、仲間(ちゅうげん)の上りらしい。)は番でござりまして、唯今(ただいま)水瓶(みずがめ)へ水を汲込(くみこ)んでおりまするが。」

「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」

 と云う。閉込(しめこ)んだ硝子窓(がらすまど)がびりびりと鳴って、青空へ灰汁(あく)(たた)えて、上から(ゆす)って沸立たせるような(すさ)まじい風が吹く。

 その窓を見向いた片頬(かたほ)に、(さっ)砂埃(すなほこり)()く影がさして、雑所は眉を(ひそ)めた。

「この風が、……何か、風……が(はげ)しいから火の用心か。」

 と唐突(だしぬけ)に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。

「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」

 と例の渋い顔で、横手の柱に(かか)ったボンボン時計を(にら)むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと()っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて(みつ)めたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。

 そう言えば、全校の二階、下階(した)、どの教場からも、声一つ、(しわぶき)半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午(ひる)になる一時間ほど、寂寞(ひっそり)とするのは無い。――それは小児(こども)たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。(しずか)なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト(みつ)めても針はソッとも響かぬ。羅馬数字(ロオマすうじ)も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を(ゆす)って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ――時計は止まったのではない。

「もう、これ午餉(おひる)になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は(たぎ)らせましたが――いや、どの小児衆(こどもしゅ)も性急で、渇かし切ってござって、突然(いきなり)がぶりと(あが)りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷(やけど)を。」

「火傷を…うむ。」

 と長い顔を傾ける。

       二

「同役とも申合わせまする事で。」

 と対向(さしむか)いの、可なり年配のその先生さえ(わか)く見えるくらい、老実な(くち)

「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様(あなたさま)、水をフト失念いたしましたから、精々(せっせ)と汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門(さんえむ)にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」

 と言懸けるのを、遮って、傾けたまま(かぶり)()った。

「いや、三右衛門でなくってちょうど()いのだ、あれは剽軽(ひょうきん)だからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」

 出方が出方で、源助は一倍まじりとする。

 先生も少し(きま)って、

「もっとこれへ寄らんかい。」

 と椅子をかたり。卓子(テエブル)の隅を座取って、身体(からだ)(はす)に、(はかま)をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。

「卓子の向う前でも、砂埃(すなッぽこり)(かす)れるようで、話がよく分らん、喋舌(しゃべ)るのに骨が折れる。ええん。」と(しわぶき)をする下から、煙草(たばこ)()めて、吸口をト頬へ当てて、

(ひど)い風だな。」

「はい、屋根も憂慮(きづか)われまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風(ならい)のこう(はげ)しい事は、十年以来(このかた)にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様(あなたさま)、もうこれ布子から単衣(ひとえもの)と飛びまする処を、今日(こんにち)あたりはどういたして、また襯衣(しゃつ)股引(ももひき)などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠(ふるつづら)引覆(ひっくりかえ)しますような事でござりまして、ちょっと戸外(おもて)へ出て御覧(ごろう)じませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも(しの)ぎ切れませんではござりますまいか。

 三右衛門なども、鼻の(さき)真赤(まっか)に致して、えらい猿田彦(さるだひこ)にござります。はは。」

 と変哲もない愛想笑(あいそうわらい)。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも(べに)(にじ)む。

「実際、(きびし)いな。」

 と卓子(テエブル)の上へ、煙管(きせる)を持ったまま長く露出(むきだ)した火鉢へ(かざ)した、鼠色の襯衣(しゃつ)の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立(ひった)てるようにぐいと(もた)げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張(ふんば)り、両腕をずいと(しご)いて、

「御免を(こうむ)れ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は不沙汰(ぶさた)だ。源助、当れ。」

「はい、同役とも相談をいたしまして、昨日(きのう)にも(ふさ)ごうと思いました、部屋(と(たまり)の事を云う)の()にまた(かじ)りつきますような次第にござります。」と中腰になって、鉄火箸(かなひばし)で炭を(あら)けて、五徳を()って引傾(ひっかた)がった銅の大薬鑵(おおやかん)の肌を、毛深い手の甲でむずと()でる。

「一杯(たぎ)ったのを()しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」

「源助、その事だ。」

「はい。」

 と獅噛面(しかみづら)を後へ引込(ひっこ)めて目を据える。

 雑所は前のめりに俯向(うつむ)いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首(がんくび)を取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込(つっこ)み、

「閉込んでおいても風が(ゆす)って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」

 とまた一つ灰を(あび)せた。(ひとみ)を返して、壁の黒い、廊下を(なが)め、

()塩梅(あんばい)に、そっちからは吹通さんな。」

「でも、貴方様まるで野原でござります。お児達(こだち)歩行(ある)いた跡は、平一面(たいらいちめん)の足跡でござりまするが。」

「むむ、まるで野原……」

 と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、

「源助、時に、何、今小児(こども)を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜(こづかいだまり)()ったっけが、何は、……部屋に居るか。」

()りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。」

       三

「嬢ちゃん坊ちゃん。」

 と先生はちょっと口の(うち)で繰返したが、直ぐにその意味(こころ)を知って(うなず)いた。今年九歳(ここのつ)になる、校内第一の綺麗(きれい)な少年、宮浜浪吉といって、名まで優しい。色の白い、髪の美しいので、源助はじめ、嬢ちゃん坊ちゃん、と呼ぶのであろう?……

「しょんぼりしている。小使溜(こづかいだまり)に。」

「時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように仰有(おっしゃ)ったとばかりで、(しお)れ返っておりまする。はてな、(ほか)のものなら珍らしゅうござりませぬ。この()に限って、悪戯(いたずら)をして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。……寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も胡坐(あぐら)()いて、火をほじりほじり、仔細(しさい)を聞きましても、何も言わずに、恍惚(うっとり)したように鬱込(ふさぎこ)みまして、あの可愛げに掻合(かきあわ)せた美しい襟に、白う、そのふっくらとした(あご)附着(くッつ)けて、(しき)りとその懐中(ふところ)覗込(のぞきこ)みますのを、じろじろ見ますと、浅葱(あさぎ)襦袢(じゅばん)(はだ)けまするまで、艶々(つやつや)露も垂れるげな、(べに)を溶いて玉にしたようなものを、(こぼ)れまするほど、な、貴方様(あなたさま)。」

「むむそう。」

 と考えるようにして、雑所はまた頷く。

「手前、御存じの少々近視眼(ちかめ)で。それへこう、(かすみ)(かか)りました工合(ぐあい)に、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」

茱萸(ぐみ)だ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶのを待構えた(てい)であった。

「で、ござりまするな。目覚める木の実で、いや、小児(こども)が夢中になるのも道理でござります。」と感心した様子に源助は云うのであった。

 青梅もまだ苦い頃、やがて、(すもも)でも色づかぬ(うち)は、実際(いちご)と聞けば、小蕪(こかぶ)のように干乾(ひから)びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空(あおぞら)の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々(たわわ)な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。

(うち)から持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。……あの()のお(わび)を、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、……はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、今日(こんにち)の処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、可哀(かわい)や、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と揉手(もみで)をする。

「どうだい、吹く事は。(ひど)いぞ。」

 と窓と一所に、肩をぶるぶると(ゆす)って、卓子(テエブル)の上へ煙管(きせる)()てた。

「源助。」

 と再度(あらたま)って、

小児(こども)懐中(ふところ)の果物なんか、(たもと)へ入れさせれば済む事よ。

 どうも変に、気に(かか)る事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ()いが、と思うんだ。

 昨日夢を見た。」

 と()いで置きの茶碗に残った、(つめた)い茶をがぶりと飲んで、

「昨日な、……昨夜(ゆうべ)とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」

「山道の夢でござりまするな。」

()、実際山を歩行(ある)いたんだ。それ、日曜さ、昨日は――源助、お前は(おのず)から得ている。私は本と首引(くびッぴ)きだが、本草(ほんぞう)が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々(うかうか)と谷々へ釣込まれて。

 こりゃ途中で暗くならなければ()いが、と山の陰がちと憂慮(きづか)われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」

       四

「山時分じゃないから人ッ子に()わず。また茸狩(たけがり)にだって、あんなに奥まで()くものはない。随分(みち)でもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては攀上(よじのぼ)り、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。昨夜(ゆうべ)は野宿かと思ったぞ。

 でもな、秋とは違って、日の(いり)が遅いから、まあ、()かった。やっと旧道に(めぐ)って出たのよ。

 今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛(きゃはんがけ)で、すたすた来ると、(かすか)に城が見えて来た。城の方にな、可厭(いや)な色の雲が出ていたには出ていたよ――この風になったんだろう。

 その内に、物見の松の(こずえ)(さき)が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽(みはら)しの丘へ出る。……後は一雪崩(ひとなだれ)にずるずると屋敷町の私の内へ、(すべ)り込まれるんだ、と(ほっ)と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場(ひとちょうば)が、一方谷、一方覆被(おっかぶ)さった雑木林で、妙に真昼間(まっぴるま)も薄暗い、可厭(いや)な処じゃないか。」

名代(なだい)な魔所でござります。」

「何か知らんが。」

 と両手で(あご)(しご)くと、げっそり()せたような顔色(かおつき)で、

(ひと)ッきり、洞穴(ほらあな)(くぐ)るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い(もや)も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。

 ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その(がけ)の中腹ぐらいな処を、熊笹(くまざさ)の上へむくむくと赤いものが()いて出た。幾疋(いくひき)となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱(うろ)つくように……(みんな)猿だ。

 丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王(さんのう)(やしろ)がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の(つら)の赤いのに不思議はないがな、源助。

 どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤(まっか)だろう。

 しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと(むらが)り続いて、裏山の峰へ尾を()いて、(はる)かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に(くぐ)ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。

 で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻(あかあり)の行列を山へ投懸けて(なが)めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。

 夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」

 源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、(あご)の毛をすくすくと立てた。

「はあ。」

 と息を内へ引きながら、

「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」

「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。

 そこへな、背後(うしろ)の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨(おおまた)に前へ抜越(ぬけこ)したものがある。……

 山遊びの時分には、女も駕籠(かご)も通る。狭くはないから、肩摺(かたず)れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停(たちど)まる処を、抜けた。

 下闇(したやみ)ながら――こっちももう、(わず)かの処だけれど、赤い猿が(おびただ)しいので、人恋しい。

 で透かして見ると、判然(はっきり)とよく分った。

 それも夢かな、源助、暗いのに。――

 裸体(はだか)赤合羽(あかがっぱ)を着た、大きな坊主だ。」

「へい。」と源助は声を詰めた。

真黒(まっくろ)な円い天窓(あたま)露出(むきだし)でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張(しゃちこば)らせる形に、(おおき)(ひじ)を、ト鍵形(かぎなり)に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々(ひらひら)と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。……

 (はた)真赤(まっか)に宙を(あお)つ。

 まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手(あいて)僧形(そうぎょう)にも何分(なにぶん)か気が許されて、

(御坊、御坊。)

 と二声ほど背後(うしろ)で呼んだ。」

       五

物凄(ものすご)さも(さき)に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。

 顔は覚えぬが、(あご)も額も赤いように思った。

(どちらへ?)

 と直ぐに聞いた。

 ト竹を()るような声で、

(城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許(あしもと)へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を()いたようにな、源助。」

「…………」小使は口も利かず。

「その時、旗を()と上げて、

(物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然(ひらり)と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の(こずえ)(さっ)と飛移ったかと思う、旗の(あお)つような火が松明(たいまつ)を投附けたように《ぱっ》と燃え上る。顔も真赤(まっか)に一面の火になったが、(はる)かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭(ちょうじがしら)が揺れるように見て、気が(しずま)ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる(さま)になくなったんだ。

 小児(こども)が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも(おび)えた声を出して、

(わっ。)と云ってな、三反ばかり山路(やまみち)の方へ宙を飛んで遁出(にげだ)したと思え。

 はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目(わきめ)()らず、坊主が立ったと思う処は爪立足(つまだちあし)をして、それから、お前、前の峰を引掻(ひっか)くように駆上(かけあが)って、……ましぐらにまた摺落(ずりお)ちて、見霽(みはら)しへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして(なが)めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白(あおじろ)い中に、松の樹はお前、大蟹(おおがに)海松房(みるぶさ)引被(ひっかず)いて山へ這出(はいで)た形に、しっとりと濡れて薄靄(うすもや)(まと)っている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、(かすか)に聞えようというのじゃないか。

 話にならん。いやしくも小児(こども)を預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に(つま)まれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。

 帰って湯に入って、寝たが、綿(わた)のように疲れていながら、何か、それでも寝苦(ねぐるし)くって時々早鐘を()くような音が聞えて、吃驚(びっくり)して目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。

 明方からこの風さな。」

正寅(しょうとら)の刻からでござりました、海嘯(つなみ)のように、どっと一時(いっとき)に吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の(ことば)つき、あたかも口上。何か、恐入っている(てい)がある。

「夜があけると、この砂煙(すなけぶり)。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本(とくほん)の課目なんだ。

 な、源助。

 授業に(かか)って、読出した処が、怪訝(おかし)い。消火器の説明がしてある、火事に対する種々(いろいろ)の設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も()ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの()が入って来たんだ。」

「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」

「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。――この硝子窓(がらすまど)の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。

 また、(はし)の倒れた事でも、沸返(にえかえ)って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも(あやし)いよ。

 ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺(どよ)めいたが、その音も戸外(おもて)の風に吹攫(ふきさら)われて、どっと遠くへ、山へ()つかるように持って()かれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等(こどもら)の声は(かすか)に響いた。……」

       六

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