2話 鳥辺山心中(2)
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半九郎とお染とが引き分けられなければならない時節が来た。
今年の秋もあわただしく暮れかかって、九月の暦も終りに近づいた。鴨川の水にも痩せが見えて、河原の柳は朝寒に身ぶるいしながら白く衰えた葉を毎日振るい落した。そのわびしい秋の姿をお染は朝に夕に悲しく眺めた。九月の末か、十月の初めには将軍が京を立って江戸へ帰る――それは前から知れ切ったことであったが、その期日が次第に迫って来るに連れて、彼女は自分の命が一日ごとに削られてゆくようにも思われた。
その沈んだ愁い顔を見るにつけて、半九郎もいよいよ物の哀れを誘い出された。彼はある夜しみじみとお染に話した。
「将軍家が江戸表へ御下向のことは、今朝支配頭から改めて触れ渡された。この上はしょせん長逗留は相成るまい。遅くも来月の十日頃までには、一同京地を引き払うことになるであろう。お前に逢うのも今しばらくの間だ。昼夜揚げ詰めとはいいながら、馴染んでから丸ひと月に成るや成らずでさほどの深い仲でもないが、恋や情けはさておいて、まだ廓なれないお前が不憫さに、暇さえあればここへ来て、及ばぬながら力にもなってやったが、侍は御奉公が大切、お供にはずれていつまでもここに逗留は思いも寄らぬことだ。察してくれ」
勿論それに対して、お染は何とも言いようはなかった。無理に引き止めることは出来なかった。たとい引き止めても、男が止まる筈がないのは、彼女もよく承知していた。半九郎が今まで自分を優しく庇ってくれたのは、世にありふれた色恋とは違って、弱い者を憐れむという涙もろい江戸かたぎから生み出されていることは、彼女もかねて知っていた。まして将軍家の供をして、江戸の侍が江戸へ帰るのは当然のことである。彼女は自分を振り捨ててゆく男を微塵も怨む気はなかった。
怨むのではない。ただ、悲しいのである。心細いのである。店出し以来、たった一人の半九郎に取りすがって、今日まで何の苦も知らずに生きていたお染は、さてこの後どうするか。彼女は眼の前に拡がっている大きい闇の奥をすかして見る怖ろしさに堪えられなかった。
「また泣くか。初めて逢った夜にもお前はそんな泣き顔をしていたが、その時から見ると又やつれたぞ。煩わぬようにしろ」
「いっそ煩うて死にとうござります」
言ううちにも、止めどもなしに突っかけて溢れ出る涙は、白粉の濃い彼女の頬に幾筋の糸を引いて流れた。半九郎は痛ましそうに眉を皺めて言った。
「今の若い身で死んでどうする。両親の悲しみ、妹の嘆き、それを思いやったら仮りにもそのようなことは言われまい。一日も早く勤めを引いて、親許へ帰って孝行せい」
「一日も早くというて、それが今年か来年のことか。ここの年季は丸六年、わたしのような孱弱い者は、いつ煩ろうていつ死ぬやら」
「はて、不吉な。気の弱いにも程がある。ほかの女どものように浮きうきして、晴れやかな心持ちで面白そうに世を送れ。これから五年六年といえば長いようだが、過ぎてしまうのは夢のうちだ」と、半九郎は諭すように言い聞かせた。
ひとには面白そうに見えるかも知れないが、およそここらに勤めている人に涙の種のない者はない。現にあの市さまの相方のお花女郎も、親の上、わが身の上にいろいろの苦労がある。まして自分のように胸の狭いものは、こののち一日でも面白そうに暮らされよう筈がない。店出しから今日までの短い月日が極楽、この先の長い月日は地獄の暗闇と、自分ももうあきらめているとお染はまた泣きつづけた。
困ったものだと半九郎も思いわずらった。彼はこのいじらしい女をどう処分しようかといろいろに迷った末に、あくる朝、坂田市之助の宿所をたずねると、市之助はめずらしく宿にいた。源三郎もいた。
過日の晩、半九郎は途中で源三郎に約束して、あしたはきっと兄を帰してやると言ったが、市之助は花菱に酔い潰れて帰らなかった。その以来、源三郎はいよいよ半九郎を信用しなくなった。日ごろの親しみは頓に薄らいで、彼は半九郎を兄の悪友と認めるようになった。
その半九郎が早朝から訪ねて来たので、源三郎はこれから外出しようとするのを暫く見合せて注意ぶかい耳を引き立てていた。こういう見張り人がそばに控えているので、半九郎も少し言いそそくれたが、生一本な彼の性質として、自分の思っていることは直ぐに打ち出してしまいたかったので、彼は思い切って言った。
「さて市之助。遠慮なく頼みたいことがある」
「改まって何だ」
「半九郎は金が要る。二百両の金を貸してくれぬか。といっても、お身も旅先でそれだけの貯えもあるまい。お身は京の刀屋に知るべがあると聞いている。おれの刀は相州物だ。その刀屋に相談して、二百両に換えてはくれまいか」
市之助も少し眉を寄せた。
「お身が大事の刀を売りたい……。思いも寄らぬ頼みだが、その二百両の要りみちは……」
半九郎は源三郎を横目に見ながら言った。
「京の鶯を買いたいのだ」
「京の鶯……。はて、お身にも似合わぬ風流なことだな」と、言いかけて彼もすぐに覚ったらしくうなずいた。「うむ。して、その鶯を江戸へ連れて行くのか」
「いや、籠から放してやればいい。鶯はおおかた古巣へ舞い戻るであろう」
その謎は市之助にもよく判った。しかしそれは余り正直過ぎるように思われたので、彼は半九郎に注意するように言った。
「おれも鶯は大好きで、ゆく先ざきで鶯を聴いて歩く。鶯は美しい愛らしい小鳥だ。ことに京は鶯の名所であるから、おれも金に明かし、暇に明かして、思うさまに鳴かして見たが、所詮は一時の興に過ぎぬ。一羽の鳥になずんでは悪い。江戸へ帰ればまた江戸の鶯がある」
「勿論、おれもその鶯を江戸まで持って帰ろうとは思わぬが、鳴く音が余りに哀れに聞えるので、せめて籠から放してやりたいのだ。半九郎は人にも知られた意地張りだが、生まれつきから涙もろい男だ。ありあまる金を持った身でもなし、かつは旅先で工面するあてもない。察してくれ」
半九郎の性質は市之助もふだんから知り抜いていた。そうして、それが彼の美しいところでもあり、また彼の弱いところでもあることを知っていた。遊里の歓楽を一時の興と心得ている市之助の眼から見れば、立派な侍が一人の売女に涙をかけて、多寡が半月やひと月の馴染みのために、家重代の刀を手放そうなどというのは余りに馬鹿ばかしくも思われた。彼は繰り返して涙もろい友達に忠告を試みた。
「して、半九郎。お身は全くその鶯に未練はないな」
「未練はない。くどくも言うようだが、あまりに哀れだから放してやりたい。ただそれだけのことだ」
「それならば猶更のこと。お身がその鶯にあくまでも未練が残って、買い取って我が物にしたいと言っても、おれは友達ずくで意見したい。ましてその鶯には未練も愛着もなく、ただ買い取って放してやるだけに、武士が大切の刀を売るとは、あまりに分別が至らぬように思わるるぞ。なさけも善根も銘々の力に能うかぎりで済ませればよし、程を過ぎたら却って身の禍いになる。この中のおれの行状から見たら、ひとに意見がましいことなど言われた義理ではないが、おれにはまたおれの料簡がある。鶯はただ鳴くだけのことで、藪にあろうが籠にあろうが頓着せぬ。花を眺め、鳥を聴くも、所詮は我れに一時の興があればよいので、その上のことまでを深く考えようとはせぬ。その上に考え詰めたら、心を痛むる、身を誤る。人間は息のあるうちに、ゆく先ざきで面白いことを仕尽くしたらそれでよい。どうだ、半九郎。もう一度よく思い直して見ろ」
「では、どうでも肯いてくれぬか」
「肯かれぬ。また、肯かぬのがお身のためだ」
相手がどうしても取り合わないので、半九郎は失望して帰った。帰る途中で、彼は市之助の意見をもう一度考えてみた。市之助の議論を彼はいちいち尤もとは思わなかったが、籠から鶯を放してやるだけに、武士が家重代の刀を売る。たとい自分には何の疚しい心がないとしても、思いやりのない世間の人間はいろいろの評判を立てるに相違ない。菊地半九郎は売女にうつつをぬかして大小を手放したとただ一口にいわれては、武士の面目にもかかわる。支配頭への聞えもある。なるほど市之助が承知してくれないのも無理はないかとも思われたので、彼は刀を売ることを躊躇した。
こうなると、お染の顔を見るのが辛い。お染も自分の顔を見ると、よけいに悲しい思いをするかも知れない。いっそ出発するまでは彼女にもう逢うまいかと半九郎は思った。そうして、ひと晩は花菱に足をぬいてみたが、やはり一種の不安と憐れみとが彼を誘って、あくる日は花菱の座敷でお染の暗い顔と向かい合わせた。半九郎はその後もつづけてお染と逢っていた。
十月にはいると、半九郎のからだも忙がしくなった。将軍はいよいよこの十日には出発と決まったので、供の者どもはその準備に毎日奔走しなければならなかった。
その忙がしいひまを偸んで、ある者は京の土産を買い調えるのもあった。ある者は知るべのところへ暇乞いに廻るのもあった。神社や仏閣に参拝して守り符などを貰って来るのもあった。いろいろの買いがかりの勘定などをして歩くのもあった。それらの出這入りで京の町は又ひとしきり混雑した。
江戸に沢山の親類や縁者をもっていない半九郎は守り符や土産などを寄せ集めて歩く必要はなかったが、さすがに勤め向きの用事に追い廻されて祇園の酒に酔っている暇がなかった。市之助兄弟も忙がしい筈であった。しかも忙がしいことは弟に任せて、市之助は相変らず浮かれ歩いていた。
「もう二、三日で京も名残りだ。面白く騒げ、騒げ」
それは七日の宵で、きょうは朝から時雨れかかっている初冬の一日を、市之助は花菱の座敷で飲み明かしているのであった。日が暮れてから半九郎も来た。約束したのではない、偶然に落ち合ったのであった。
「おお、半九郎来たか」
「お身はいつから来ている」
「ゆうべから居つづけだ」と、市之助はもう他愛なく酔いくずれていた。
「弟にまた叱らるるぞ」と、半九郎はにが笑いした。
「あいつ、腹を立って、きっと兄の悪口をさんざんに言っているであろう。困った奴だ」
市之助も笑っていた。
四
半九郎を初めてここへ誘って来たのは市之助であったが、塒を一つ場所に決めていない彼はいつも半九郎の連れではなかった。ことに過日の鶯の話を聴かされてから、彼は半九郎のあまり正直過ぎるのを懸念するようになったので、ゆうべも彼を誘わずに自分一人で来ていると、あとから半九郎が丁度来合せたのである。
もう二、三日というけれども、今夜が京の遊び納めであると市之助は思っていた。八日九日の二日は出発前でいろいろの勤めがあるのは判り切っているので、今夜は思う存分に騒ぎ散らして帰ろうと、彼は羽目をはずして浮かれていた。半九郎もお染に逢うのは今夜限りだと思っていた。
もう泣いても笑っても仕方がないと、お染もきのう今日は諦めてしまった。いつも沈んだ顔ばかりを見せて男の心を暗い方へ引き摺って行くのは、これまでの恩となさけに対しても済まないことであると思ったので、彼女も今夜は努めて晴れやかな笑顔を作っていた。お花は無論に浮きうきしていた。今夜がいよいよのお別れであるというので、馴染みの女や仲居なども大勢寄って来て、座敷はいつもより華やかに浮き立った。
内心はともかくも、お染の顔が今夜は晴れやかに見えたので、半九郎も少し安心した。安心すると共に、彼はふだんよりも多く飲んだ。ことに今夜は市之助という飲み相手があるので、彼はうかうかと量をすごして、お染の柔かい膝を枕に寝ころんでしまった。
「半さま。御家来の衆が見えました」と、仲居のお雪が取次いで来た。
「八介か。何の用か知らぬが、これへ来いと言え」と、半九郎は寝ころんだままで言った。
若党の八介はお雪に案内されて来たが、満座の前では言い出しにくいと見えて、彼は主人を廊下へ呼び出そうとした。
「旦那さま。ちょっとここまで……」
「馬鹿め」と、半九郎はやはり頭をあげなかった。「用があるならここへ来い」
「は」と、八介はまだ躊躇していたが、やがて思い切って座敷へいざり込んで来た。
「用は大抵判っている。迎いに来たのか」と、半九郎は不興らしく言った。
「左様でござります」
御用の道中であるから銘々の荷物は宿々の人足どもに担がせる。その混乱と間違いとを防ぐために、組ごとに荷物をひと纏めにして、その荷物にはまた銘々の荷札をつける。それを今夜じゅうにみな済ませて置けという支配頭からの達しが俄かに来た。八介一人では判らないこともあるから、ひとまず帰ってくれというのであった。
「うるさいな。あしたでもよかろうに……」
「でも、一度になっては混雑するから、今夜のうちに取りまとめて置けとのことでござります」
「市之助。お身は帰るか」と、半九郎は酔っている連れにきいた。
「弟が何とかするであろうよ」と、市之助は相変らず横着を極めていた。
「よい弟を持って仕合せだ。おれはちょっと戻らなければなるまいか」
半九郎はしぶしぶ起き上がって、八介と一緒に出ると、お染は角まで送って来た。
「お前さま。もうこれぎりでお戻りになりませぬかえ」
「いや、戻る。すぐまた戻って来る。待っておれ」
酔っていても半九郎はしっかりした足取りで歩いた。宿所へ帰って、彼は八介に指図して忙がしそうに荷作りをした。さしたる荷物もないのであるが、それでも一※聞えた。
「旦那さま。降ってまいりました」
「降って来たか」
「昼から催しておりました。今のうちに降りましたら、お発ちの頃には小春日和がつづくかも知れませぬ」
道中はともかくも、今夜の雨を半九郎は邪魔だと思った。彼は落ち着かない心持ちで、すぐにまた表へ出ようとした。
「またお出掛けでござりますか」と、八介は暗い空を仰ぎながら言った。
酔いは出る、からだは疲れる。半九郎はもうそこに寝ころんでしまいたかったが、彼の心はやはりお染の方へ引かれていった。これがふだんの時であったら、彼も自分の宿に眠って安らかに今夜一夜を過すことが出来たかも知れないが、祇園の酒も今夜かぎりだと思うと、半九郎はとても落ち着いていられなかった。
彼は雨を冒して祇園へ引っ返して行った。そうして、運命の導くままに自分の生命を投げ出してしまったのであった。
花菱の座敷には市之助がまだ浮かれ騒いでいた。よくも遊び疲れないものだと感心しながら、半九郎も再びそのまどいに入った。
「半九郎、また来たか。おれはさすがにもう堪まらぬ。お身が代って女子どもの相手をしてくれ。頼む、頼む」
今度は市之助がお花の膝を借りて横になってしまった。半九郎は入れかわってまた飲んだ。寡言の彼も今夜は無器用な冗談などを時どきに言って、女どもに笑われた。
「あの、お客様が……」
お雪が取次ぐひまもなしに、一人の若侍が足音あらくこの席へ踏み込んで来た。
「兄上、兄上」
それが弟の源三郎であると知って、市之助は薄く眼をあいた。
「おお、源三郎か。何しにまいった」
「言わずとも知れたこと。お迎いにまいりました」
「出発の荷作りならよいように頼むぞ」
「わたくしには出来ませぬ」
同じ迎いでも、これはさっきの若党とは一つにならなかった。血気の彼は居丈高になって兄に迫った。
「荷作りのこと御承知なら、なぜ早くにお戻り下されぬ。兄弟二人が沢山の荷物、わたくし一人にその取りまとめがなりましょうか。積もって見ても知れているものを……。さあ、直ぐにお起ち下され」
彼は寝ころんでいる兄の腕を掴んで、力任せに引摺り起そうとするので、膝をかしているお花は見兼ねて支えた。
「まあ、そのように手暴くせずと……。市さまはこの通りに酔うている。連れて帰ってもお役に立つまい。お前ひとりでよいように……」
「それがなるほどなら、かようなところへわざわざ押しかけてはまいらぬ。じゃらけた女どもがいらぬ差し出口。控えておれ」
武者苦者腹の八つ当りに、源三郎は叱りつけた。叱られてもお花は驚かなかった。彼女は白い歯を見せながら、なめらかな京弁でこの若い侍をなぶった。
「お前は市さまの弟御そうな。いつもいつも親の仇でも尋ねるような顔付きは、若いお人にはめずらしい。ちっと兄さまを見習うて、お前も粋にならしゃんせ。もう近いうちにお下りなら、江戸への土産によい女郎衆をお世話しよ。京の女郎と大仏餅とは、眺めたばかりでは旨味の知れぬものじゃ。噛みしめて味わう気があるなら、お前も若いお侍、一夜の附合いで登り詰める心中者がないとも限らぬ。兄嫁のわたしが意見じゃ。一座になって面白う遊ばんせ」
「ええ、つべこべとさえずる女め、おのれら売女の分際で、武士に向って仮りにも兄嫁呼ばわり、戯れとて容赦せぬぞ」
彼は扇をとり直して、女の白い頬をひと打ちという権幕に、そばにいる女どもも、おどろいてさえぎった。自分の頭の上でこんな捫着を始められては、市之助ももう打棄って置かれなくなった。彼はよんどころなく起き直った。
「源三郎、静まらぬか。ここを何処だと思っている」
満座の手前、兄もこう叱るよりほかはなかったが、それがいよいよ弟の不平を募らせて、源三郎は更に兄の方へ膝を捻じ向けた。
「それは手前よりおたずね申すこと。兄上こそここを何処だと思召す。我われ一同が遠からず京地を引払うに就いては、上の御用は申すに及ばず、銘々の支度やら何やかやで、きのう今日は誰もが眼がまわるほどに忙がしい最中に、短い冬の日を悠長らしく色里の居続け遊び、わたくしの用向きは手前一人が手足を擦り切らしても事は済めど、上の御用は一人が一人役、それでお前さまのお役が勤まりまするか、支配頭の首尾がよいと思召すか。京三界まで一緒に連れ立って来て、弟に苦労さするが兄の手柄か、少しは御分別なされませ」
これが過日から源三郎の胸に畳まっていた不平であった。現に兄は昨夜も戻らない。きょうも戻らない、出発まぎわにあってもまだ止めどもなしに遊び歩いている兄の放埒には源三郎も呆れ果てた。年の若い彼はじりじりするほどに腹が立った。
今夜も荷作りの達しが来たが、自分と家来ばかりでは纏め方が判らない。さりとておとなしく待っていてはいつ帰るか知れないので、源三郎は焦れにじれて、自分で兄の在りかを探しに出た。折りからの時雨に湿れながらまず六条の柳町をたずねると、そこには兄の姿が見付からなかった。それからまた方角を変えて祇園へ来て、ようようその居どころを突きとめると、兄は女の膝枕で他愛なく眠っている。源三郎はもう我慢も勘弁も出来なくなって、不平と疳癪が一時に爆発したのであった。
それは市之助もさすがに察していた。弟が焦れて怒るのも無理はないと思った。彼は自分の遊興を妨げた弟を憎もうとはしなかった。しかし弟の言い条を立てて、これから直ぐに帰る気にもなれなかった。
「もういい、もういい。何もかも判った、判った。おれもやがて帰るから、お前はひと足先へ帰れ」
見え透いた一寸逃れと、弟はなかなか得心しなかった。
「いや、どうでお帰りなさるるなら、手前も一緒にお供いたす。さあ、すぐにお支度なされ」
容赦のない居催促には、兄も持て余した。
「それは無理というものだ。帰るには相当の支度もある。まあ、何でもよいから先へ行け」
相手になっていては面倒だと、市之助はその場をはずす積もりらしい、酔いにまぎらせてよろけながら席を起つと、お花は彼を囲うようにして、一緒に起った。ほかの女たちもそれを機に、この面倒な座敷をはずしてしまった。
あとには半九郎とお染とが残った。半九郎は黙って酒を飲んでいた。
五