10話 花の宴 一
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それから年のこよみが四たび変わって、仁平二年の春が来た。
この三、四年は疫病神もどこへか封じ込められて、そのあらぶる手を人間の上に加えなかった。ややもすれば神輿を振り立てて暴れ出す延暦寺の山法師どもも、この頃はおとなしく斎の味噌汁をすすって経を読んでいるらしい。長巻のひかりも高足駄の音も都の人の夢を驚かさなかった。検非違使の吟味が厳しいので盗賊の噂も絶えた。火事も少なかった。嵐もなかった。この世の乱れも近づいたようにおびえていた平安朝末期の人の心もいつか弛んで、再び昔ののびやかな気分にかえると、そのゆるんだ魂の緒を更にゆるめるように、ことしの春はうららかに晴れた日がつづいた。野にも山にも桜をかざして群れ遊ぶ人が多いので、浮かれた蝶はその衣の香を追うに忙しかった。
関白忠通卿が桂の里の山荘でも、三月のなかばに花の宴が催された。氏の長という忠通卿の饗宴に洩れるのは一代の恥辱であると言い囃されて、世にあるほどの殿上人は競ってここに群れ集まった。濡るるとも花の蔭にてという風流の案内であったが、春の神もこの晴れがましい宴の莚を飾ろうとして、この日は朝から美しい日の光りが天にも地にも満ちていた。
風流の道にたましいを打ち込んで、華美がましいことを余り好まなかった忠通も、おととし初めて氏の長者と定められてからおのずと心も驕って来た。世の太平にも馴れて来た。この当時の殿上人が錦を誇る紅葉のなかで、彼は飾りなき松の一樹と見られていたのが、いつか時雨に染められて、彼もまた次第に華美を好むように移り変わって来た。もう一つには藤原氏の長者という大いなる威勢をひとに示そうとする政略の意味も幾分かまじって、きょうの饗宴は彼として実に未曽有の豪奢を極めたものであった。かねてこうと大かたは想像して来た賓客たちも、予想を裏切らるるばかりの善美の饗応には、そのやわらかい胆をひしがれた。あるじは得意であった。客もむろん満足であった。
思い思いに寄りつどって色紙や短冊に筆を染める者もあった。管絃の楽を奏する者もあった。当日の賓客は男ばかりではこちたくて興が薄いというので、なにがしの女房たちや、なにがしの姫たちもみな華やかなよそおいを凝らして、その莚に列なっていた。その美しい衣の色や、袖の香や、楽の音や、それもこれも一つになって、あぶるように暖かい春のひかりの下に溶けて流れて、花も蝶も鶯も色をうしない声をひそめるばかりであった。
これもその美しい絵巻物のなかから抜け出して来た一人であろう。縹色の新しい直衣を着た若い公家が春風に酔いを醒ませているらしく、水にただよう花の影をみおろしながら汀の白い石の上に立っていると、うしろからそっと声をかけた者があった。男は振り向いて立烏帽子のひたいを押し直した。
「玉藻の前。きょうはいろいろの御款待、なにかと御苦労でござった」
若い公家は左少弁兼輔であった。色の白い、髯の薄い優雅の男振りで、詩文もつたなくない、歌も巧みであった。そのほかに絵もすこしばかり描いた。笛もよく吹いた。当代の殿上人のうちでも風流男の誉れをうたわれて、なんの局、なんの女房としばしばあだし名を立てられるのを、ひとにも羨まれ、彼自身も誇らしく考えていた。
その風流男の前に立って恥じらう風情もなしに心易げに物をいう女子は、人間の色も恋もとうに忘れ果てた古女房か、但しは色も風情も彼に劣らぬという自信をもった風流乙女か、二つのうちの一つでなければならなかった。彼と向き合っている女子は確かに後の方の資格を完全にそなえていた。
「なんの御会釈に及びましょう。おんもてなしはわたくしどもの役目、何事も不行届きで申し訳がござりませぬ。この頃の春の日の暮るるにはまだ間もござりましょう。あちらの亭へお越しなされて、今すこし杯をお過ごしなされてはいかが。わたくし御案内を仕まつります」
「いや、折角ながら杯はもう御免くだされ。先刻からいこう酔いくずれて、みだりがましい姿を人びとに見せまいと、この木蔭まで逃げてまいったほどじゃ」と、兼輔は扇を額にかざしながらほほえんだ。
「と申さるるは嘘で、誰やらとここで出逢う約束と見えました。そういうことなら、わたくし何時までもここにいて、お前がたの邪魔しますぞ」と、女も扇を口にあてて軽く笑った。
「これは迷惑。われらには左様な心当ては少しもござらぬ。唯ここにさまよい暮らして、物いわぬ花のかげを眺めているばかりじゃ。おなぶりなさるな」
まじめらしく言い訳する男の顔を、女はやはり笑いながらじっと見入っていた。遠い亭座敷から笛の声がゆるく流れて来て、吹くともない春風にほろほろと零れて落ちる桜の花びらが、女の鬢の上に白く宿った。
女は玉藻の前であった。坂部庄司蔵人行綱の娘の藻が関白忠通卿の屋形に召し出されて、侍女の一人に加えられたのは、彼女が十四の秋であった。当代の賢女と言い囃されていた忠通の奥方は、それから間もなくにわかに死んだ。忠通もその後無妻であったので、美しいが上にさかしい藻は主人の卿の寵愛を一身にあつめて、ことし十八の花の春をむかえた。奉公の後も忠通はむかしのままに藻という名を呼ばせていたが、玉のように清らかな彼女のかんばせは早くも若公家ばらの眼をひいて、誰が言い出したともなしに、彼女の名の上には玉という字がかぶらせられた。それがだんだんに言い慣わされて、あるじの忠通すらも今では彼女を玉藻と呼ぶようになった。才色たぐいなきこの乙女を自分の屋形にたくわえてあるということが、あるじの一種の誇りとなって、客のあるごとに忠通は玉藻を給仕に召した。かりそめの物詣でや遊山にもかならず玉藻を供に連れて出た。忠通がこの頃ようやく華美の風に染みて来たのも玉藻を近づけてから後のことであった。
玉藻が外から帰って来ると、長い袂はいつも重くなっていた。その袂へ人知れずに投げ込まれたかずかずの文や歌には、いずれもあこがれた男どもの魂がこもっていたが、玉藻は一度も返しをしなかった。それでも根気よくまつわって来る者が多いので、彼女の袂はきょうもよほど重くなっているらしかった。それを察して、今度は兼輔の方からなぶるように言った。
「のう、玉藻の前。きょうはお身の袂も定めて重いことでござろう。身投げするものは袂に小石を拾うて入るるとかいうが、お身のように重い袂を持っている者が迂闊にこの流れに陥ったら、なかなか浮かびあがられまい。気をつけたがようござるぞ」
精いっぱい軽口のつもりで彼は自分から笑ってかかると、玉藻も堪えられないように、扇で顔をかくしながら言った。
「そりゃお身さま御自身のことじゃ。わたくしのような端下者が何でそのような……。現在の証拠はお身さまこそ、さっきから人待ち顔にここに忍んでござるでないか」
今度は別に言い訳をしようともしないで、兼輔は唯にやにやと笑っていた。実をいうと、彼もそういう心構えがないでもない。自分ほどの者がまどいを離れて、こうして一人でさまよっているからには、誰か慕い寄って来る女があるに相違ないと、誰をあてともなしに待ち網を張っているところへ、思いのほかの美しい人魚が近寄って来たのであった。彼はどうしてこの獲物を押さえようかとひそかに工夫を練っていた。
「うたがいも人にこそよれ、兼輔はさような浮かれた魂を抱えた男でござらぬ。そういうお身はなにしにここへ参られた。われらこそここにおってはお邪魔であろうに……。ほんにそうじゃ。お身が先刻あちらの亭へゆけと言われたは、その謎か。それを悟らで、うかうかと長居したは、われらの不粋じゃ。ゆるしてくだされ」
相手の心をさぐるつもりであろう。彼は笑いにまぎらせて徐かにここを立ち去ろうとすると、その袂はいつか白い手につかまれていた。
「お身さま、御卑怯じゃ」
兼輔は相手の心をはかりかねて、黙って立ち停まった。
「殿上人のうちでも、風流の名の高いお身さまじゃ。女子をなぶるは常のことと思うてもいらりょうが、もしここに浅はかな一途な女子があって、なぶらるるとは知らいで思いつめたら、お身さまそれをどうなされまする」
「われらは正直者、ひとをなぶった覚えはござらぬ」と、兼輔は眼で笑いながら空うそぶいた。
「いや、無いとは言わせませぬ。お身さま、これを御存じないか」
玉藻は丁寧に畳んだ短冊をふところから探り出して、男の眼の前につきつけた。嬉しいと、さすがに恥ずかしいとが一つになって、兼輔は顔の色をすこし染めた。
「お身さまは御卑怯と言うたが無理か。この歌の返しを申し上げようとて人目を忍んでまいったものを、お身さまはむごく突き放して逃ぎょうとか」
妖艶な瞳のひかりに射られて、兼輔は肉も骨も一度にとろけるように感じた。玉藻は笑いながらその短冊を再び自分のふところに収めると、若い公家の魂もそれと一緒に、女のふところへ吸い込まれてしまった。