13話 法性寺 一
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「ふむう。頼長めが……。確と左様なことを申したか」
関白忠通は二日酔いらしい蒼ざめたひたいの上に蒼い筋を太くうねらせて、扇を膝にきっと突き立てたままで、自分の眼の前に泣き伏している艶女の訴えをじっと聞き済ましていた。花の宴のあくる日で、ゆうべから酔いこけた賓客たちも日の高い頃にだんだん退散して、あるじの軽いしわぶきも遠い亭まできこえるほどに、広い別荘のうちもひっそりと静まっていた。すさまじい夜嵐の名残りで、庭は見渡すかぎり一面に白い花びらを散り敷いていた。
「神ほとけも見そなわせ、わたくし誓って偽りは申し上げませぬ」と、玉藻は涙ぐんだ美しい眼をあげて、主人の顔色をぬすむようにうかがった。
「日ごろから器量自慢の頼長めじゃ。それほどのこと言い兼ねまい」
忠通はわざと落ち着いた声で言った。しかもその語尾は抑え切れない憤恚にふるえているのが、玉藻にはよく判っているらしかった。二人の話はしばらく途切れた。
忠通もゆうべはこの別荘に酔い伏して、賓客たちが大方退散した頃にようように重い頭を起こしたのであった。酔いのまだ醒めない彼は、玉藻の給仕で少しばかりの粥をすすって、香炉に匂いの高い香をたかせて、その匂いを快く嗅ぎながら再びうとうとと夢心地になろうとする時、彼は玉藻にその夢を揺すられて、思いも寄らない訴えを聞かされた。それは花の宴もたけなわなるきのうの夕方の出来事で、玉藻が川端に立って散り浮く花をながめていると、そこへ主人の弟の左大臣頼長が来た。彼は酔っているらしく見えなかったが、玉藻をとらえてざれごとを二つ三つ言った。相手は主人の弟で、殿上でも当時ならぶ方のない頼長である。さすがに情なく突き放して逃げるわけにもいかないので、玉藻もよいほどにあしらっていると、頼長はいよいよ図に乗って、ほとんど手籠めにも仕兼ねまじいほどのみだらな振舞いに及んだ。
「それだけならば、わたくし一人のこと、どのようにも堪忍もなりまするが……」と、玉藻は口惜し涙をすすり込むようにして訴えた。
彼女に対して無礼を働いたばかりでなく、頼長は誇り顔に、こんなことを口走ったというのである。兄の忠通は天下の宰相たるべき器でない。彼は単に一個の柔弱な歌詠みに過ぎない。今でこそ氏の長者などと誇っているが、やがてはこの頼長に蹴落とされて、天下の権勢を奪わるるのは知れてある。彼の建立した法性寺は、彼自身が最後のかくれ家であろう。そのように影のうすい兄忠通に奉仕していて何となる。立ち寄らば大樹の蔭という諺もあるに、なぜおれの心に従わぬぞ。兄を見捨てよ、おれに靡けと、頼長は聞くに堪えないような侮蔑と呪詛とを兄の上に投げ付けて、しいて玉藻を自分の手にもぎ取ろうとしたのであった。
仲のよい兄弟のあいだでも、これだけの訴えを聞けば決していい心持はしない。まして忠通と頼長とはその性格の相違から、うわべはともあれ、内心はたがいに睦まじい仲ではなかった。頼長が兄を文弱と軽しめていることは、忠通の耳に薄々洩れきこえていた。自分が氏の長者となったに就いては、器量自慢の頼長が或いは妬んでいるかもしれないという邪推もあった。きのうの饗宴にもすねたような風をみせて、碌々に興も尽くさずに中座したということも、忠通としては面白くなかった。それらの事情が畳まっているところへ、寵愛の玉藻からこの訴えを聞いたのである。忠通はもうそれを疑う余地はなかった。
「憎い奴」
彼は腹のなかで弟を罵った。酔いの醒めない頭はぐらぐらして、烏帽子を着ているに堪えないほどに重くなってきた。現在の兄を蹴落としておのれがその位に押し直ろうとする、それが免しがたい第一の罪である。兄が寵愛の女を奪っておのれが心のままにしようとする、それが免しがたい第二の罪である。自体が温和な人でも、この憤りをおさえるのは余程むずかしそうに思われるのに、ましてこの頃はだんだんに志がおごって、疳癖の募ってきたのが著しく眼に立つ折柄である。忠通の胸は憤怒に焼けただれた。しかし彼が現在の位地として、さすがに一人の侍女の訴えを楯にして表向きに頼長を取りひしぐわけにもいかないのを知っているので、彼はあふるるばかりの無念をこらえて、しばらく時節を待つよりほかはなかった。
やがて彼は玉藻をなだめるように言った。
「頼長めの憎いは重々じゃが、氏の長者ともあるべき我々が兄弟墻にせめぐは頼長のきこえが忌々しい。そちをなぶったも酒席の戯れじゃと思うて堪忍せい。予もしばらくはこらえて、彼が本心を見届けようぞ」
玉藻をなだめるのは彼自身をなだめるのである。忠通はしいて寂しい笑顔をつくって、うつむいている女の黒髪を眺めていた。
「わたくしの堪忍はどのようにも致しまする。ただ、左大臣殿が、かりにも上を凌ぐようなおん企てを懐かせられまするようなれば……」
「いや、その懸念は無用じゃ。彼は予を文弱と侮っているとか申すが、忠通は藤原氏の長者じゃ。忠通は関白じゃ。彼らがいかにあせり狂うたとて、予を傾けようなどとは及ばぬことじゃ。なんの彼らが……」
忠通は調子のはずれた神経的の声を立てた。そうして、鬢の毛でも掻きむしりたいように、両手で烏帽子のふちをおさえて頭を二、三度強くふった。その神経のだんだんに昂奮して来るのを、玉藻はいたましそうな眼をしてそっと窺っていたが、いつかその眼から白いしずくがはらはらとこぼれてきた。
「はて、なにを泣く。まだ堪忍がならぬか」と、忠通は彼女の涙に眼をつけて叱るように言った。
「唯今も申す通り、わたくしの堪忍はどのようにも致しまするが……」
「もう言うな。予のことは予に思案がある。その懸念には及ばぬことじゃ」
顔の色はいよいよ蒼ざめて、忠通の眼の奥には決心の光りがひらめいた。
「但しこのことを余人に洩らすなよ」
「はあ」
二人は再び眼をみあわせた。ゆうべに引き替えて、きょうはそよりとも風の吹かない日であった。散り残った花が時どきに静かに落ちて、どこやらで鶯の声がきこえた。
その日の午過ぎに、忠通は桂の里から屋形へ帰った。きのうの接待に疲れたといって、彼は人払いをしてひと間に引き籠っていたが、点燈ごろになって少納言信西を召された。大方はいつもの歌物語であろうと気を許して、信西入道はゆるゆると支度して伺候すると、忠通は待ちかねたように彼を呼び入れて出逢った。入道がきのうの不参の詫びをしているのを耳にも入れないで、忠通は唐突に言い出した。
「早速じゃが、入道。頼長はこの頃もお身のもとへ出入りするかな」
「折りおりに見られまする」
「学問はいよいよ上達するか」
「驚くばかりの御上達で、この頃ではいずれが師匠やら弟子やら、信西甚だ面目もござりませぬ」
信西はすこしゆがんだ唇をほどいてほほえんだが、聴く人はにっこりともしなかった。
「調達は八万蔵をそらんじながら遂に奈落に堕ちたという。いかに学問ばかり秀でようとも、根本のこころざしが邪道にねじけておっては詮ない。かえって学問が身の禍いをなす例もある。予が見るところでは弟の頼長もそれじゃ。彼がお身のもとへ参ったら、この上に学問無用と意見おしやれ」
善悪にかかわらず、うかつに返事をしないのが信西の癖であった。彼は今夜もしばらく黙って考えているので、忠通はすこし急いた。
「弟子を見ることは師に如かずといえば、彼の人となりはお身も大かた存じておろう。彼は才智に慢ずる癖がある。この上に学問させたら、彼はいよいよ才学に誇って、果ては天魔に魅られて何事を仕いだそうも知れまい。学問はやめいと言うてくれ。しかと頼んだぞ」
実をいえば、信西も頼長に対してそういう懸念がないでもなかった。才学非凡で、しかも精悍の気に満ちている頼長の前途を、彼もすこしく不安に感じているのであった。この意味に於いては、彼も忠通の意見に一致していた。しかし今夜の忠通の口吻は、弟の行く末を思う親身の温かい人情から溢れ出たらしく聞こえなかった。
兄弟の不和――それから出発して来た兄の憤恚であるらしいことを、古入道の信西は早くも看て取った。
「仰せ一いち御道理にうけたまわり申した。それがしよりもよくよく御意見申そうなれど、あれほど御執心の学問をやめいとは……」
「申されぬか」
相手は眼を薄くとじたままで、やはり否とも応ともはっきりとした返事をあたえないので、忠通はいよいよ焦れ出して、彼が天魔に魅られているという現在の証拠を相手の前に叩き付けようとした。
「入道はまだ知るまい。頼長はこの兄を押し傾けようと内々に巧んでいるのじゃ」
「よもや左様な儀は……」と、信西はすぐに打ち消した。
「いや、証人がある。彼が口から確かに言うたのじゃ」
余人に洩らすなと口止めをしたのを忘れたように、忠通自身がその秘密をあばいた。
「その証人は……」
相手のおちついているのが、忠通には小面が憎いように見えた。
「証人は玉藻じゃ。彼はきのう玉藻に猥りがましゅう戯れて、あまつさえそのようなことを憚りもなしに口走ったのじゃ」
「ほう、玉藻が……」
信西のひとみは忠通と同じように鋭く晃った。