2話 清水詣で 二
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「あれ、鴉めがまた来おりました」
あくる朝は美しく晴れて、大海のようにひろく碧い空の下に、柿のこずえが高く突き出していた。その紅い実をうかがって来る鴉のむれを、藻は竹縁に出て追っていた。
「はは、鴉めがまた来おったか。憎い奴のう。が、とても追い尽くせるものでもあるまい。捨てて置け」と、父の行綱は皺だらけになった紙衾を少し掻いやりながら、蘆の穂綿のうすい蒲団の上に起き直った。
「千枝まが見えたら鳥おどしなと作って貰いましょ」
「それもよかろうよ」と、父は狭い庭いっぱいの朝日をまぶしそうに仰ぎながらほほえんだ。「夜はもう火桶が欲しいほどじゃが、昼はさすがに暖かい。孝行なそなたが夜ごとの清水詣で、止めても止まるまいと思うて、心のままにさせて置くが、これからの夜はだんだん寒くなる。露も深くなる。風邪ひかぬように気をつけてくれよ。夏から秋、秋から冬の変わり目はとかく病人の身体にようないものじゃ。いっそ冬になり切ってしもうたら、おれも起きられるようになろうも知れぬ。あまり案じてたもるなよ。おれの手足がすこやかになったら、太刀の柄巻きしても、雀弓の矢を矧いでも、親子ふたりの口すぎには事欠くまい。はは、今すこしの辛抱じゃ」
「あい」
柿のこずえには大きい鴉が狡猾そうな眼をひからせて、尖ったくちばしを振り立てながら枝から枝へと飛び渡っていたが、藻はもう手をあげて追おうともしなかった。彼女は父の前に手をついて、おとなしくうつむいていた。くずれかかった竹縁の下では昼でもこおろぎが鳴いていた。
父の行綱は今こそこんなにやつれ果てているが、七年前は坂部庄司蔵人行綱と呼ばれて、院の北面を仕うまつる武士であった。ある日のゆうぐれ、清涼殿のきざはしの下に一匹の狐があらわれたのを関白殿がごろうじて、あれ射止めよと仰せられたので、そこに居あわせた行綱はすぐに弓矢をとって追いかけたが、一の矢はあえなくも射損じた。慌てて二の矢を射出そうとすると、どうしたのか弓弦がふつりと切れた。狐はむろん逃げてしまった。当の獲物を射損じたばかりか、事に臨んで弓弦が切れたのは平生の不用意も思いやらるるとあって、彼は勅勘の身となった。彼は御忠節を忘れるような人間ではなかった。武士のたしなみを怠るような男でもなかった。こうなるのも彼が一生の不運で、行綱は妻と娘とを連れて、この頃では京の田舎という山科郷の片はずれに隠れて、わびしい浪人生活を送ることになった。
彼の不運を慰めるはずの妻は、それから半年あまりの後に夫と娘とを振り捨ててあの世へ行ってしまった。まだ男盛りの行綱は二度の妻を迎えようともしないで、不自由な男やもめの手ひとつで幼い娘の藻を可愛がって育てた。美しい顔をもって生まれた藻は心までが美しかった。自分にもう出世の望みのない父は、どうしても自分の後つぎに取りすがるよりほかはないので、行綱は老後の楽しい夢を胸に描きながら、ひたすらに娘の生長を待っていた。藻はことし十四になった。
その年の春に、行綱は娘を連れて清水の観音詣でに行った。その時にいわゆる三年坂でつまずいたのがもとで、彼は三月の末から病いの床に横たわる身の上になった。夏が過ぎ、秋が来ても、彼はやはり枕と薬とに親しんでいるので、孝行な藻の苦労は絶えなかった。貧と病いとにさいなまれている父を救うがために、彼女はふだんから信仰する観音さまへ三七日の夜まいりを思い立って、八月の末から夜露を踏んで毎晩清水へかよった。京も荒れて、盗賊の多いこの頃の秋の夜に、乙女ひとりの夜道は心もとないと父も最初はしきりにとめたが、藻はどうしても肯かなかった。彼女は父の病いを癒したい一心に、おそろしい夜道を遠くかよいつづけた。
しかし一七日の後には、藻に頼もしい道連れができた。それはかの千枝松で、彼は烏帽子折りの子であった。これも早くふた親にわかれた不運な孤児で、やはり烏帽子折りを生業としている叔父叔母のところへ引き取られて、ことし十五になった。叔父の大六は店あきないをしているのでない。京伏見から大津のあたりを毎日めぐり歩いて、呼び込まれた家の烏帽子を折っているのであった。したがって家にいる日は少ないので、千枝松は叔母と二人で毎日さびしく留守番をしていた。村こそ違え、同じ山科郷に住んでいるので、彼はいつか一つ違いの藻と親しくなって、ほかの子供たちには眼をくれないで、二人はいつも仲好く遊んだ。
「藻と千枝まは女夫じゃ」
ほかの子供たちが妬んでからかうと、千枝松はいつでも真っ赤になって怒った。
「はて、言うものには言わして置いたがよい。わたしも父さまの病いが癒ったら、お前の叔母さまのところへ烏帽子を折り習いに行きたい」と、藻は言った。
「おお、叔母御でのうてもわしが教えてやる。横さびでも風折りでも、わしはみんな知っている。来年になったら、わしも叔父御と連れ立ってあきないに出るのじゃ」と、千枝松は誇るように言った。
千枝松は烏帽子折りの職人になるのである。藻もその烏帽子を折り習いたいという。そこにどういう意味があるのか、確かに理解していないまでも、千枝松の若い胸には微かに触れるものがあった。彼はいよいよ藻と親しくなった。その藻の父が長くわずらっているので、彼は自分の父を案じるように毎日見舞いに来た。そうして、藻が清水へ夜詣りにゆくことを一七日の後に初めて知って、彼はいつになく怨んで怒った。
「なぜわしに隠していた。幼い女ひとりが夜道して何かのあやまちがあったらどうするぞ。わしも今夜から一緒にゆく」
彼は叔母の許しをうけて、それから藻と毎夜一緒に連れ立って行った。強そうな顔をしていても、千枝松はまだ十五の少年である。盗賊や鬼はおろか、山犬に出逢っても果たして十分に警護の役目を勤めおおせるかどうだか、よそ目には頗る不安に思われたが、藻に取っては世にも頼もしい、心丈夫な道連れであった。彼女は千枝松が毎晩誘いに来るのを楽しんで待っていた。千枝松もきっと約束の時刻をたがえずに来て、二人は聞き覚えの普門品を誦しながら清水へかよった。
その藻をそそのかして、江口の遊女になれと勧めた陶器師の婆は、たとい善意にもしろ、悪意にもしろ、千枝松の眼から見れば確かに憎い仇であった。彼が口をきわめて罵るのも無理はなかった。戸をたたいて嚇した位では、なかなか腹が癒えなかった。彼はその晩自分の家へ逃げて帰っても、まだ苛いらしてよく眠られなかった。よもやとは思うものの、どうも安心ができないので、彼はあくる朝、叔父があきないに出るのを見送って、すぐにとなり村の藻の家へたずねて来た。
来ると、彼はまず隣りの陶器師の店をのぞいた。店の小さい窯の前には人の善さそうな陶器師の翁が萎えな烏帽子をかぶって、少し猫背に身をかがめて、小さい莚の上で何か壺のようなものを一心につくねていた。日よけに半分垂れたすだれの外には、自然に生えたらしい一本の野菊がひょろひょろと高く伸びて、白い秋の蝶が疲れたようにその周りをたよたよと飛びめぐっていた。婆は奥のうす暗いところで麻を績んでいた。
「爺さま。よい天気じゃな」
千枝松はわざと声をかけると、翁は手をやすめて振り向いた。そうして、白い長い眉を皺めながらにこにこ笑った。
「おお、となり村の千枝まか。ほんによい秋日和じゃよ。秋も末になると、いつも雨の多いものじゃが、ことしは日和つづきで仕合わせじゃ。わしらのあきないも降ってはどうもならぬ」
「そうであろうのう」と、千枝松は翁の手に持っている壺をながめていた。婆は憎いが、この翁にむかっては彼は喧嘩を売るわけにはいかなかった。それでも彼はおどすように声をひそめて訊いた。
「この頃ここらへ天狗が出るという。ほんかな」
「なんの」と、翁はまた笑った。「ここらに住んでいる者はみんな善い人ばかりじゃ。悪い者は一人もない。天狗さまのお祟りを受けよう筈がないわ。ははははは。鬼の天狗のというても、大抵は人間のいたずらじゃ。ゆうべもわしの家の戸をたたいて、天狗じゃとおどかした奴があった」
「ほんに悪いことをする奴じゃ」と、婆も奥から声をかけた。「今度またいたずらをしおったら、すぐに追い掛けて捉まえて、あの鎌で向こう脛を薙いでくるるわ」
「天狗がつかまるかな」と、千枝松はあざけるように笑った。
「はて、天狗じゃない、人間じゃというに……。和郎もそのいたずら者を見つけたら、教えてくりゃれ」と、婆は睨むような白い眼をして言った。
千枝松はすこし薄気味悪くなって、もしや自分のいたずらということを覚られたのではないかとも思った。しかし彼は弱味を見せまいとして、またあざ笑った。
「天狗でも人間でも、こちらで悪いことさえせにゃなんの祟りもいたずらもせまいよ」
「わしらがなんの悪いことをした」と、婆は膝を立て直した。
おお、悪いことをした。となりの娘を遊女に売ろうとした――と、千枝松は負けずに言おうとしたが、さすがに躊躇した。
「悪いことせにゃ、それでよい。悪いことをすると、今夜にも天狗がつかみに来ようぞ」
こう言い捨てて、彼はここの店さきをついと出ると、出逢いがしらに赤とんぼうが彼の鼻の先きをかすめて通った。彼は忌いましそうに顔を皺めながら、隣りの家の門に立つと、柿の梢がまず眼にはいった。「しッしッ」と、彼は足もとにある土くれを拾って鴉を逐った。その声を聞きつけて、藻は縁さきへ出た。
「千枝まか」
二人はなつかしそうに向き合った。さっきの白い蝶が千枝松の裾にからんで来たらしく、二人の間にひらひらと舞った。