3話 三
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梅雨が霽がって、これから熾烈な夏になろうとしていた或る日のこと、沖野はその日の昼の間、殆んど午後中一杯を竹中の家で過ごしたが、夜になると、今度はこっそりと竹中家の庭へ紛れ込んだ。ポケットには、例の爪を忍ばせて、いい機会でもあったらと、実はそれを窺うつもりであった。
もっとも、彼は常々庭の方からじかに竹中の書斎を訪れていた。だから、無論この場合にしても、もし途中で誰かに出会したら、何気なく訪問して来たような態度を装うつもりであった。そして、この夜は誰にも姿を見られなかった。彼はやがて、寝室と研究室とがすぐ鼻の先きに見える、大きな躑躅の藪蔭へこっそりと蹲み込んでしまったのだった。
竹中家は、母家が日本風でそれに鍵の手なりに喰付いた、竹中の研究室と寝室と、もう一つ応接間だけが洋館になっていた。母家の方には、竹中の母親と弟妹と、そして女中や書生が住っている。沖野がそこへ行った時は、恰度八時頃であったので、その母家ではラジオに聴き入っている様子であった。彼はそのラジオの音にも耳を配り、又、誰かが庭へ出て来やあしないかとも注意していた。もし跫音が聞えたら、すぐに躑躅の藪蔭から全身を現わし、声をかけられてもまごつかないようにしようと思った。
「いえね、何だか螢のようなものが光ったんですよ。――竹中君はおりますか」
こんな風にいったらいいだろう。螢だなんて下手いかな、いやいや、季節が梅雨の後なのだからそう不自然には聞えまい。何喰わぬ顔でそういって、そのまますぐと研究室の扉へ近づいて行くことにしよう――。
庭は暗くて、蹲んでいると、蚊が頻りと手や顔を襲って来た。靴下を透かして刺す奴もある。彼はその蚊を追い払うのに最初のうち一生懸命であったのだが、しかしそのうちに意外な事実に気が付いた。
竹中のところへ、今、住谷良子が訪ねて来ているのだった。蹲んだ腰を半分ばかり伸ばして見ると、良子は竹中の寝室で、こちらへ斜っかいに顔を向けて、何か一心に読んでいるのだった。青い色の薄物を着た胸から上だけが見えるのだが、俯向いた白い頸にウエイヴをかけた髪がぼかしたように垂れかかり、それが妙に媚めかしく、沖野の眼には粘りつくような感じであった。思切って立上って見ると、何か読んでいると思ったのは実は良子が椅子に腰をかけて、その膝へマミイが乗っているのであった。が、その途端に、こちらからは反対側の、母家へ通じた扉がスッと開いて、竹中の姿が現れた。
「持って来ましたよ、これでいいでしょう」
竹中のこういったところを見れば、良子はもうずっと前からここへ来ていて、竹中は母家の方へ、何かを取りに行って来たらしい。沖野は、竹中の顔を見ると同時に、ドキリとして再び蹲み込んでしまったけれど、腹の底から、むらむらと嫉妬の情が湧いて来るのをどうしようもなかった。
昼間、彼がここへ来ていた時には、竹中はそうした素振を少しも見せず、それに今思出して見ると、夜は何か研究上のことで非常に忙しいなどといっていた。それが、こうして良子と楽しそうに語らっているのだ。
見ていると、そのうちに突然竹中が室の中で立上った気配だった。そしてツカツカと窓へ近づき、庭に面した窓を一つ一つ引き下ろし始めたのである。
「あら、そんなことをして暑いわよオ」
良子がこういった。それはあのような上品なところのある良子の口から、どうして出たかと思われる位に、媚を含んだ甘え切った声であった。沖野は、ハッと痛痒いような悩ましさを感じた。窓は曇硝子になっていたので、竹中に続いて、良子が同じようにその窓際へ近づいて来る姿が映った。竹中は窓を開けさせまいとし、良子はそれを開けようとする。二度三度、二人の肩や腕がもつれ合ったかと思うと、突然竹中が良子を抱きすくめた。
「ア――」
低く押えつけるように叫んで、良子は弓のように身を反らした。が、その巧妙な、ステイジダンスのように次第に反らして行った姿態を、ゆらりと元へもどすと同時に、しなやかな腕がながながと伸びて、固く竹中の首にからみ付いてしまった。沖野がじっと息を詰めているあいだ、二人の影はぴったりと吸い付いたまま動かなかった。
それから後一時間余り、沖野が味った種々の感情は、どういって現わしていいか分らない。気付いてみると、竹中は完全に窓を引下したのではなかった。一つの窓の下框と閾との間が一寸ばかり開いている。沖野は無暗にカーッと上気してしまった。粘っこい唾を嚥み込み嚥み込み、彼はその窓框へ守宮のように獅噛み付いた。それは阿片の夢に誘い込まれた、いとも奇怪なフィルムでしかなかったのだが……。
途中で、彼は思わずドタリと音を立てて、窓の下へ滑り落ちた。が、いい工合に、内ではそれに気付かなかったらしい……。
「……オヤオヤ、もうこんな時間になりましたかねえ」
ふと、こういう竹中の声が聞えたのは、それから少時経った後であった。続いて、
「マミイちゃん、さあ、抱っこ」
と気のせいか、わざとよそよそしい良子の声もした。
この時になって、ようやく沖野はハッと気を取り直すことが出来たのである。彼は狼狽てて、以前の藪へ身を隠した。室の内ではそれからなお二十分近く、何かごとごとしていたが、間もなく庭に向った扉が開かれた。身仕舞を済ました良子を、竹中が送って行くのである。良子は、片腕に一寸嵩張った四角な風呂敷包を抱いていたが、空いている方の腕は、並んだ竹中の肩と、捩じれ合う位に近づけていた。
「ね、心配しないで下さいよ。多分、明日か明後日のうちには、僕の方からお宅へ伺いますよ」
良子は黙り込んでいたが、その耳へ竹中は優しくこんな風に囁きながら、ビクビクしている沖野の傍を通り抜けて行った。そしてやや少時して、竹中だけがそこへ帰って来たのだった。
「今に見ていろ!」
沖野は相変らず藪の蔭に潜みながら、遣り場のない忿懣を、こうでも呟いて見るより仕方がなかった。
で、なおもじっと様子を窺っていると、四辺は一寸の間しーんと静まりかえっていた。が、やがて誰かが竹中の寝室へ這入って来た気配だった。
「あ、お母さんでしたか――」
すぐに竹中の声がした。
そしてそれからやや長いこと竹中と母親とが低い声で話し込んでいた。少しも聴き取ることは出来なかったが、多分、竹中と良子との結婚問題であろうと思った。
「じアね、このことはあなたが上手にやらないといけませんよ」
はっきりとこういう声がした。話が満足に済んだものらしい。が、沖野にとっては、その次に聞えて来た簡単な会話が、つーんと鋭く胸へ響いた。
「ええ、大丈夫ですよ」
と竹中は答えて、それから追いかけるように言葉を継いだ。「あ、それからねえお母さん、済みませんけれど、誰かにそういって珈琲を拵らえさせてくれませんか。今日は頭をひどく使ってしまって――」
「珈琲なんぞ飲んで、夜が余計眠れないのじアないですか」
「いいえ、いいんですよ。飲んでも飲まないでも眠れないことは同じです。だから薬を飲んで眠るんですが、そうすると朝まで何も知らずに眠ります」
「薬だって矢張り毒でしょうに」
「大丈夫ですとも。毎日やるのじアないのですから――」
声の調子では、母親は母家への廊下口に立ち、竹中は室の窓の近くにいる様子であった。が、沖野の耳には竹中の薬を飲んで眠るという言葉だけが、はっきり残った。
寝室へ忍び込むのは、いかにも冒険に過ぎた気味があって、彼はそれまでなかなか決心が付かずにいた。けれども、竹中は今夜、何も知らずにぐっすりと眠るのだ。そこへ忍び込むのは、何の雑作もないことではないか。
窓の外にこうした恐ろしい考えを抱いた人間がいるとも知らず、やがて母親はそこを立去って行った。五分ばかり経って、女中が珈琲茶碗と、水を入れたコップらしいものを運んで来た。沖野は、窓に映った影によって、竹中が果して何かの丸薬を嚥むのを見た。
それでも息を殺して、沖野は時間の経つのを待っていた。竹中は、その後一度研究室へ入って来て、軽く口笛を吹きながら電燈を消した。沖野にとって、更に好都合なことには、窓が一ヶ所、先刻の通り、細く開いたままになっているのであった。
――彼は約一時間ばかりの後、靴下だけになって竹中の寝室へ忍び込んだ。室内は案外暗かったが、手探りで研究室との境の扉を苦もなく開けた。マッチで照らして見ると、例の培養器はすぐと眼に付いた。その中へ爪を突込んで、いかにも猫のしたように、わざとそれを覆えして置いた。それは固形のゼラチン培養器であったので、実験台の上へ、二三片の小さな破片を落し、それを棒の一端に作って置いた猫の足跡に似せた部分で、ぐいと押し潰して置くことも忘れなかった。
そして竹中の寝台へ近づくと、この時はマッチを擦ることは止しにして、暗い中をじっと瞳を凝らしているうちに、竹中が右手を掻巻の外へ突き出しているのを認めた。その手の甲を、一思いにぐいと引掻いた。竹中は、ムニャムニャといって寝返りを打った。途端に寝台の端から、パサリと軽く音がして下へ落ちたものがあった。
ビクリとしたが、その音は一寸何の音だか分らなかった。
「あ、そうか、マミイの奴だな――」
だが、マミイは、それっきり室の隅へでも行ったと見えて、音一つ立てなかった。竹中も眼を覚まさなかった。
無事に、彼はその寝室を脱け出したのである。爪は、下宿へ帰る途中で、通りがかりの溝泥の中へ捨ててしまった。