渾沌未分

2話 渾沌未分(2)

4,624字 約9分 2007年11月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

といって、平泳ぎのこころだ」

「それは、よくおとうさんがおっしゃる、あの渾沌未分の兄弟か何かなの」

 小初は食後の小楊枝(こようじ)を使いながら父親を弥次(やじ)った。自分が人を揶揄(やゆ)することを好んで人から揶揄されることを(きら)うのは都会的諷刺家(ふうしか)の性分で、父親はそれが娘だとぐっと(しゃく)(さわ)った。しばらく黙っていたが、()ね返す警句を思いつく気力もなく、

「兄弟分でもなんでもない、全く一つのものだ」

 と低い声音に渾身の力を()めて言った。これだけ真面目(まじめ)に敬蔵が娘に云うことはめったにない。(きゅう)してやむを得ずこれだけまともに言ったのだ。そのせいか、(かれ)はそのあと急に気まりの悪い(おとろ)えた顔つきをして、そっと汗を()いた。

 父親は電球の(ひも)(のば)して、水泳場の下へ入って行った。そこでしばらくごそごそしている様子だった。

「いい具合に宵闇(よいやみ)だ。数珠子釣(じゅずこつ)りに行って来るかな」

 そういって、道具を乗せて田舟を漕ぎ出して行った。父のその様子を、小初は気の毒な(はかな)い気持ちで見送ったが、結局何か忌々(いまいま)しい気持になった。そして一人留守番(るすばん)のときの用心に、いつものように入口に(かぎ)をかけ、電燈(でんとう)を消して、蚊帳(かや)の中に這入(はい)り、万一(しの)()むものがあるときの(おど)しに使う薄荷(はっか)入りの水ピストルを枕元(まくらもと)へ置いた。小初は横になり体を楽にするとピストルの薄荷がこんこん(にお)った。こんこん匂う薄荷が眼鼻に()(わた)ると小初は静かにもう泣いていた。思えば都会偏愛(へんあい)のあわれな父娘だ。それがため、父はいらだたしさにさもしく老衰(ろうすい)して行き、自分は初恋から(いや)しく五十男に転換(てんかん)して行く……。くらやみの中で自分の功利心がぴっかり眼を見開いているのに小初の一方の心では昼間水中で(あじわ)った薫の若い肉体との感触を(おも)い出している……。

 少したつと小初はまた起き上った。父の様子を見ようと裏口の窓を開けた。雨上りの夜の天地は()墨色(すみいろ)の中にたっぷり水気を(とか)して、(つや)っぽい涼味(りょうみ)潤沢(じゅんたく)だった。()(しお)になった前屈(まえかが)みの櫓台の周囲にときどき右往左往する若鰡(わかいな)の背が星明りに(ひらめ)く。父はあまり遠くない蘆の中で、カンテラを燃して数珠子釣りをやっている。洲の中の環虫類(かんちゅうるい)を糸にたくさん(つらぬ)いて、数珠輪のようにして水に垂らす。蘆の根方に住んでいる小(うなぎ)がそれに取りつく、()をそっと引き上げて、未練に喰い下って来る小鰻を水面近くまでおびき寄せ、わきから手網(てあみ)で、さっと(すく)い上げる。環虫類も何だか虫の中では(みにく)衰亡者(すいぼうしゃ)のように思えるし、鰻だとて、やはり時代文化に取り残されたような魚ではないか。衰亡の人間が衰亡の虫を(おとり)につかって衰亡の魚を(とら)えて(たの)しみにする。その灯明り――何と(あわ)れ深い情景であろう。むかし父親にとってこの方法の鰻取りは単なる娯しみに過ぎなかったが、今は必死の副業である。

「ゆうべ、少し()れ過ぎてね。始末に困るんだよ」

 こんな鷹揚(おうよう)なものの云い方をしながら父親は獲物(えもの)を鰻仲買(なかがい)に渡した。憐れな父子と思いながら小初はいつか今夜の父の漁れ高を胸に計算していた自分が悲しかった。

 西空は一面に都会の夜街の華々(はなばな)しいものが(おど)りつ、打ち合いつ、(くだ)けつする光の反射面のようである。特に歓楽の激しい地域を指示するように所々に(むらが)るネオンサインが光のなかへ更に強い光の輪郭(りんかく)を重ねている。さらにこの夜空のところどころにときどき大地の底から発せられるような奇矯(ききょう)な質を帯びた閃光(せんこう)がひらめいて、(こと)のかえ手のように幽毅(ゆうき)に、世の果ての審判(しんぱん)のように深刻に、夜景全局を刹那に地獄相(じごくそう)変貌(へんぼう)せしめまた刹那にもとの歓楽相に(もど)す。それは何でもない。間近い城東電車のポールが電力線にスパークする光なのだが、小初は(なが)めているうちに――そうさ、自分に関係のない歓楽ならさっさと一(ひらめ)きに(ほろ)びてしまうがいい、と思った。そのときどこからともなく、ハイヤーの(すべ)って来る(とどろき)がして、表通りで()まったらしい。

 がっしりした男の足音が、水泳場の方へ(のぼ)って来た。

「どなた」

 貝原が薄暗のなかでちょっとはにかんだような恰好(かっこう)で立ち止った。

「私ですよ。少し(おそ)くなりましたが、街へ踊りに出かけましょう。出ていらっしゃいませんか」

「なぜ、裏梯子(うらばしご)から上っていらっしゃらないの」

「薄荷水をピストルで眼の中へ(はじ)き込まれちゃかないませんからなあ」

 小初は電球を(ひね)って外出の支度をした。箪笥(たんす)から着物を出して、荒削(あらけず)りの槙柱(まきばしら)(なわ)(くく)りつけたロココ式の半姿見へ小初は向った。今は失くした日本橋の旧居で使っていた道具のなかからわずかに残しておいたこの手のこんだ彫刻(ぶち)の姿見で化粧をするのは、小初には寂しい。小初はまた貝原に待たれているという意識から薫のことがしとしとと身に沁みて来た。だがそれはほんの肉体的のものである。少くともいまはそう思い直さねばならない。くず折れてはならない。すべては水の中の気持で生きなければならない。向って来るものはみんな喰べて、滋養(じよう)にして、私は逞ましい魚にならなければならない。小初はぐっと横着な気持になって、化粧の出来上った顔に電球を持ち添えて

「これでは、どう」と窓の葦簾(よしず)張りから(のぞ)いている貝原に見せた。

「結構ですなあ。さあ出かけましょう。老先生には許可を得てますよ」

 小初は電燈を消して、洲の中の父の灯をちょっと見返ってから、貝原と水泳場を脱け出した。

 貝原は夏中七八(ぺん)も小初を踊りに連れ出したことがあるので、ちょっとした小初の好きな喰べものぐらい心得ていた。浅夜に瀟洒な鉄線を組み立てている清洲橋を渡って、人形町の可愛(かわい)らしい灯の中で青苦い香気(こうき)のある冷し白玉を喰べ、東京でも東寄りの下町の小さい踊り場を一つ二つ廻って、貝原はあっさり小初の相手をして踊る。

 この界隈の踊り場には、地つきの商店の子弟が前垂(まえだれ)を外して踊りに来る。すこし馴染(なじみ)になった顔にたまたま小初は相手をしてやると、

「へえ、へえ、済みません」

 お客にするように封建的(ほうけんてき)()()をして礼をいう。小初はそれをいじらしく思って木屑臭(きくずくさ)い汗の(におい)我慢(がまん)して踊ってやる。

 ときどき銀座界隈へまで出掛(でか)けることもある。そうすると今度はニュー・グランドとか風月堂とかモナミとか、格のある店へ入る。そこのロッジ寄りに席を取って、サッパーにしては重苦しい、豪華(ごうか)な肉食をこの娘はうんうん()る。貝原は不思議がりもせず、小初をこういう性質もある娘だと鵜呑(うの)みにして、どっちにも連れて行く。

 月が、日本橋通りの高層建築の上へかかる時分、貝原は今夜は(めず)らしく新川河岸(かし)の堀に臨む料理屋へ小初を連れ込んだ。

待合(まちあい)?」

 小初は堅気(かたぎ)な料理屋と知っていて、わざと(とぼ)けて貝原に()いた。貝原は何の衝動(しょうどう)も見せず

「そんなところへ、若い女の先生を連れて来はしません」と云った。

「でも、いま時分、こんなに遅く、いいのかしらん」

「なに、ちっとばかり、資金を廻してある家なので、自由が利くんです」

 涼しい食物の(さら)が五つ六つ並んで、腹の減った小初が遠慮(えんりょ)なく箸を上げていると、貝原はビールの小壜(こびん)を大事そうに飲んでいる。ぽつぽつ父親の(うわさ)を始めた。

「どうも、うちの老先生のようじゃ、とても身上(しんしょう)の持ち直しは覚束(おぼつか)ないですねえ。事業というものは片っぽうで先走った思い付きを引締(ひきし)めて、片っぽうはひとところへ(かじ)り付きたがる不精(ぶしよう)な考えを時勢に遅れないように掻き立てて行く。ここのところがちょっとしたこつです。ところが、老先生にはこの両方の極端のところだけあって、中辺のじっくりした考えが生れ付き抜けていなさる。これじゃ網のまん中に穴があるようなもので、利というものは素通りでさ」貝原は、父親には、反感を持っていないようなものの、何の興味もないらしい口調だった。

「あたし、何にも知らないけれど、あんた、この頃でもうちの父に、何かお金のことで面倒(めんどう)を見ているの」

「いや、金はもう、老先生には鐚一文(びたいちもん)出しません。失くなすのは判っているんだから。それに老先生だって、一度あたしが保証の印を()して、いまでもどんなに迷惑(めいわく)しているか、まさか忘れもしなさらないと見え、その後何にもいい出しなさりはしませんがね」

 貝原は宮大工上りの太い手首の汗をカフスに(にじ)ませまいとして、ぐっと腕捲(うでまく)りして、煽風器(せんぷうき)に当てながら、ぽつりぽつり、まだ、通しものの豆を()んでいる。

 小初は一しきり料理を喰べ終ると、いかにも東京の料理屋らしい洗煉(せんれん)された夏座敷をじろじろ見廻しながら、

「あなた、道楽なさったの」と何の聯想(れんそう)からかいきなり貝原に訊いた。

「若いときはしました。しかし、今の家内を(もら)ってから、福沢宗(ふくざわしゅう)になりましてね、堅蔵(かたぞう)ですよ」

「お金をたくさん持って面白い」

「何とか有効に使わなくちゃならないと考えて来るようになっちゃ、もう面白くありませんな」

「そう」

 小初は、もう料理のコースの終りのメロンも喰べ終って、皮にたまった薄青い汁を小匙(こさじ)の先で(すく)っていた。

 ふっとした拍子(ひょうし)に貝原と小初は探り会う眼を合せた。

「今夜、何か話があるの」

 小初の義務的な質問が、小初の顔立ちを引締まらせた。小初がずっと端麗(たんれい)に見える。その威厳(いげん)がかえって貝原を真向きにさせた。貝原は悪びれず、

「相当な年配の男のいうことですから、あなたも本気で()いて下さい。これは家内とも相談しての上ですから――まあ、私だちちっぽけなりにも身上も出来てみれば、出来のいい品のある子供が欲しいです。うちに一人ありますが、ひと口に云うとから駄目(だめ)なのです。人を扱いつけてる職業ですから私にはすぐ判ります。血筋というものは争われません。何代か前からきっと立派な血が流れて来ていて、それが子孫に現われて来るんですね」

「これは家内とも相談ですが」と貝原は再び儀式的の掛け合いのように念を押して、

「小初先生。世の中には、相当な知識階級の女でも、何か資金の都合のため、人の世話になるという手があります。先生をおもちゃにする気は毛頭ありません。あなたの持っている血筋をここに新らしく立てる私の家の系図へちっとばかり注ぎ入れて頂きたいのです」

 貝原の平顔は両顎がやや張って来て、利を(つか)むときのような狡猾(こうかつ)な相を現わして来た。がそれもじきにまた曖昧(あいまい)になり、やがて単純な弱気な表情になって、ぎごちなく他所見(よそみ)をした。

 小初は貝原の様子などには頓着(とんじゃく)せず、貝原の言葉について考え入った。――自分の媚を望むなら、それを(あた)えもしよう。肉体を望むなら、それを与えもしよう。魂があると仮定して、それを望むなら与えもしよう。自分がこの都会の中心に復帰出来るための手段なら、(すべ)てを犠牲(ぎせい)に投げ出しもしよう。だがこの宮大工上りの五十男の滑稽(こっけい)な申込みようはどうだ。

「貝原さん、子供が欲しいなんて云わずに真直ぐに私が欲しいと云ったらどうですの」

「ああ。そうですか。でもあんまり失礼だと思いまして」

 貝原がようやくまともに向けた顔を真直ぐに見て、さびしい声で小初は云った。

「それで子供を生んでもらうためなんてしらじらしい、ありきたりの(うそ)を云ったのですか。失礼とか恥かしいとか云っている世の中じゃないと思うわ。そんなことに捉われていたから、東京人は田舎者にずんずん追いこくられてしまったのよ。私たち必死で都会を取り返さなけりゃならないのよ」小初はきつい眼をしながら云い続けた。「それには私達、どんな取引きだってするというのよ」

 小初のきつい眼から(なみだ)が二三(てき)落ちた。貝原は身の置場所もなく恐縮(きょうしゅく)した。小初は涙を拭いた。そして今度はすこし優しい声音で云った。

「でも貝原さん、何もかも遠泳会過ぎにして下さい、ね。私、あなたのいい方だってことはよく知ってるのよ」

目次に戻る

目次