沼夫人

1話

1,517字 約3分 2011年4月29日 公開

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「ああ、奥さん、」

 と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室内(まのうち)真暗(まっくら)黒白(あやめ)が分らぬ。寝てから大分の時が()ったらしくもあるし、つい今しがた現々(うとうと)したかとも思われる。

 その現々たるや、意味のごとく曖昧(あいまい)で、虚気(うっかり)としていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚束(おぼつか)ないが、

「ああ、奥さん、」

 と返事をした声は、(たしか)に耳に()って、判然(はっきり)聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身体(からだ)のどっかが、がっくりと(くぼ)んだ気がする。

 そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。――呼んだのは、室の(ひらき)の外からだった――すなわち、(ねや)の戸を音訪(おとず)れられたのである。

 但し閨の戸では、この室には相応(そぐ)わぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋()……と云うが、この部落における、ある国手(いしゃ)の診察室で。

 小松原は、旅行中、夏の一夜(ひとよ)を、知己(ちかづき)の医学士の家に宿ったのであった。

 隙間漏る夜半(よわ)の風に、ひたひたと(すそ)(なび)く、薄黒い、ものある影を、臆病(おくびょう)のために嫌うでもなく、さればとて、(むらが)(たか)る蚊の(くちばし)を忍んでまで(いと)うほどこじれたのでもないが、鬱陶(うっとう)しさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。

 ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟を(かぶ)っても、成るべくは、蛍、萱草(かやくさ)、行抜けに見たい了簡(りょうけん)。それには持って来いの診察室。装飾(かざり)の整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋跣足(はだし)歩行(ある)かれる絨氈(じゅうたん)が敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のやや()せた、緑の窓帷(カアテン)が絞ってある。これさえ引いておけば、田圃(たんぼ)は近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を仰臥(あおむ)かせて、内の国手(せんせい)が聴診器を当てようという、寝台(ねだい)の上。ますます妙なのは(のみ)(うれい)更になし。

 地方(いなか)と言っても、さまで辺鄙(へんぴ)な処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、瓦斯(がす)が窓越の森に映って、薄ら(あお)くぱっと()いていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと突立(つッた)って、(ねじ)って、ふっと消した。

「何、この方が勝手です、燧火(マッチ)を一つ置いといて頂けば沢山で。」

 この()の細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しい(あか)扱帯(しごき)、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、洋燈(ランプ)をそこへ、……

「いいえ、お()れなさらないと、()とお目覚めの時、不可(いけな)いもんですよ。(やど)でもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくって()いてって、此室(ここ)(ふせ)りましてね、夜中に戸迷(とまど)いをして、それは貴下(あなた)、方々へ打附(ぶつか)りなんかして、飛んだ可笑(おか)しかったことがござんすの。

 可笑(おかし)いより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたから(よろ)しかったようなものの、(わたくし)どもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じような(きれ)を掛けて(おおい)にしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、何しろ、どこか一つ窓へ顔を出して方角を()めようとしましてね、窓掛だ、と思って引揚げましたのが、その蔽だったんでしょう。箱の中に飾っておきます骸骨(がいこつ)に、ぴったり打撞(ぶつか)ったんでございますとさ、(いや)ではござんせんかねえ。」

 ……と寝台の横手、窓際に卓子(テエブル)があるのに、その洋燈(ランプ)()せながら話したが、中頃に腰を掛けた、その椅子は、患者が医師(せんせい)対向(さしむか)いになる一脚で、

「何ぼ、男でもヒヤリとしましたそうですよ。」

 と愛嬌(あいきょう)よく莞爾(にっこり)した。

「や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。」

「ですから、お気を()けなさいまし。(やど)とは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……(おんな)のだって、言いますから。」

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