10話 十
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「まあ、坐ったんだ。」
小松原は苦笑して頬を撫でたが、寂しそうに打傾き、
「土下坐をしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。」
「またどうしてだい。」
と医師は寛いだ身の動作で、掻巻の上へ足を投げて、綴糸を手で引張る。
「それがね、」
と熟と灰吹を見詰めてから、静かに巻莨を突込みながら、
「はじめは何でもない事だった。――何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。」
「あの人ッて?」
「…………」
「ははあ、対手の貴婦人だね。」
「そんな事を言わないで、」
と吸口をもっと突込む。
「可いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。」
「何、貴婦人に違いはないが、その対手が悪い。」
「可し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。」
「御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が媒酌人で結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが見知越でいたのだった。
ちょうど戦争のあった年でね。
主人は戦地へ行って留守中。その時分、三才だった健坊と云うのが、梅雨あけ頃から咳が出て、塩梅が悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地が可い、場所は、と云って此地を、その主治医が指定したというもんです。
小児の病気とはいいながら、旅館と来ると湯治らしく、時節柄人目に立つ。新に別荘を一軒借りるのも億劫だし、部屋借が出ず入らず、しかるべき空座敷があるまいか、と私が此地に居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。
そちこち聞合せると、私が借りていた家から、田圃の方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店で商も大きく遣っている、家主の人柄も可し、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。
直ぐに極めて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が停車場へ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。
五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、単衣に羽織を被て、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って閉籠っていた処……その日は朝から雨が上って、昼頃には雲切がして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、蒼空は見えなかったが、多日ぶりで、出歩行くに傘は要らない。
小児を歩行かせるには路が悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、斜っかいに私の前二階を覗いて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、
(お出掛けなさいませんか。)
と浜を誘いに見えるだろう。
(小松……君。)
と原抜きにして、高慢に仇気なく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。
その内、湯に入ると、薄りと湯槽の縁へ西日がさす。覗くと、空の真白な底に、高くから蒼空が団扇をどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、囲の外を、
(水が出たぞ。)
(田圃一面。)
と饒舌って通った。
これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、碌に手拭も絞らないで、ふらんねるを引かけたなり、帽子も被らずに、下駄を突掛けて出たんだがね。」――