沼夫人

10話

1,381字 約3分 2011年4月29日 公開

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「まあ、坐ったんだ。」

 小松原は苦笑して頬を()でたが、寂しそうに打傾き、

土下坐(どげざ)をしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。」

「またどうしてだい。」

 と医師(せんせい)(くつろ)いだ身の動作(こなし)で、掻巻(かいまき)の上へ足を投げて、綴糸(つづりいと)を手で引張(ひっぱ)る。

「それがね、」

(じっ)と灰吹を見詰めてから、静かに巻莨(まきたばこ)突込(つッこ)みながら、

「はじめは何でもない事だった。――何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。」

「あの人ッて?」

「…………」

「ははあ、対手(あいて)の貴婦人だね。」

「そんな事を言わないで、」

 と吸口をもっと突込(つッこ)む。

()いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。」

「何、貴婦人に違いはないが、その対手(あいて)が悪い。」

()し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。」

「御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が媒酌人(なこうど)で結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが見知越(みしりごし)でいたのだった。

 ちょうど戦争のあった年でね。

 主人は戦地へ行って留守中。その時分、三才(みッつ)だった健坊と云うのが、梅雨あけ頃から(せき)が出て、塩梅(あんばい)が悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地が()い、場所は、と云って此地(ここ)を、その主治医が指定したというもんです。

 小児(こども)の病気とはいいながら、旅館と来ると湯治(とうじ)らしく、時節柄人目に立つ。(あらた)に別荘を一軒借りるのも億劫(おっくう)だし、部屋(がり)が出ず入らず、しかるべき空座敷(あきざしき)があるまいか、と私が此地(こっち)に居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。

 そちこち聞合せると、私が借りていた家から、田圃(たんぼ)の方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店で(あきない)も大きく()っている、家主の人柄も()し、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。

 直ぐに()めて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が停車場(ステエション)へ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。

 五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、単衣(ひとえ)に羽織を()て、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って閉籠(とじこも)っていた処……その日は朝から雨が(あが)って、昼頃には雲切(くもぎれ)がして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、蒼空(あおぞら)は見えなかったが、多日(しばらく)ぶりで、出歩行(である)くに傘は要らない。

 小児(こども)を歩行かせるには(みち)が悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、(はす)っかいに私の前二階を(のぞ)いて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、

(お出掛けなさいませんか。)

 と浜を誘いに見えるだろう。

(小松……君。)

 と原抜きにして、高慢に仇気(あどけ)なく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。

 その内、湯に入ると、(うっす)りと湯槽(ゆぶね)の縁へ西日がさす。(のぞ)くと、空の真白(まっしろ)な底に、高くから蒼空が団扇(うちわ)をどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、(かこい)の外を、

(水が出たぞ。)

(田圃一面。)

 と饒舌(しゃべ)って通った。

 これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、(ろく)手拭(てぬぐい)も絞らないで、ふらんねるを(ひっ)かけたなり、帽子も(かぶ)らずに、下駄を突掛(つッか)けて出たんだがね。」――

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