13話 十三
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「それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、
(健ちゃんは?)ッて聞いたんだ。
(そこいらに居ましょう。)
と藤色の緒の表附の駒下駄を、紅の潮した爪先に引掛けながら、私が退いた後へ手を掛けて、格子から外を覗いた、門を出てからで可さそうなものを、やっぱり雨に閉籠った処を、四五日振りの湯上りで晴々して、戸外へ出るのが嬉しくって、気が急いたものらしかった。
帯もざっとした引掛結びで、
(おや、居ませんか?)
ッて蓮葉に出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を覗込んで、
(健ちゃん、健ちゃんや。)
と呼ぶと、急に、わやわやと四五人小児の声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に棒千切を持って健坊が顔を出した。田圃へお出で、と云うと、
(厭だべい。)
で突掛るように刎附ける、同じ腕白夥間に大勢馴染が出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も真黒になった。母様がまたこれを大層喜んでいたもんです。
(じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。)
(うん、)
と云うと、わっと吶喊を上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、鶏小屋の前で、健ちゃんは素飛ぶ。
(お庇様で、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。)
と嬉しそうに見えて、
(どちらへ?)と聞く。
(踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。)
百姓家二三軒でもう畷だが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。片方に田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を畦伝いに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう――もっとも汎水と云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら歩行を通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。
路は悪かった。所々の水溜では、夫人の足がちらちら映る。真中は泥濘が甚いので、裙の濡れるのは我慢しても、路傍の草を行かねばならない。
停車場は、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に白光に光って、夜になると蒼く燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を水田の方へ、むらむらと斑に飛ぶ。が海を抱いた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一拭い拭を掛けたいように底が澄まず、ちょうど海の果と思う処に、あるかなし墨を引いた曇が亘って、驚破と云うとずんずん押出して、山の雲と一絡めにまた空を暗闇にしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠い灯の影も見られなそうな夕暮だった。
(もう、お天気になりましょうね。)
(さあ、)
とは云ったがどうも請合いかねる。……明白に云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞ厭き厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。
風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、溢れた水が田へ被るそれらしかった。
踏切を渡ると、鴉が一羽……その飛んだ事ったら――吃驚したほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山の端か、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。雨気が深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。
もう少し隧道の方へ行くと、あすこに、路の真中に、縦に掛けたちょっとした橋がある。棒杭のように欄干がついて、――あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、瓦色に濁ったのが、どうどうとただ一幅だけれども畝を立てて、橋の底へすれすれに凄じいほど流れている。いつもは俯向いて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、嵩増して、薄の葉が瀬を造って、もうこれで充満と云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶ遣ってた。」