沼夫人

13話 十三

1,585字 約3分 2011年4月29日 公開

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「それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、

(健ちゃんは?)ッて聞いたんだ。

(そこいらに居ましょう。)

 と藤色の緒の表附(おもてつき)駒下駄(こまげた)を、(べに)()した爪先(つまさき)引掛(ひっか)けながら、私が退()いた後へ手を掛けて、格子から外を(のぞ)いた、(かど)を出てからで()さそうなものを、やっぱり雨に閉籠(とじこも)った処を、四五日振りの湯上りで晴々(せいせい)して、戸外(おもて)へ出るのが嬉しくって、気が()いたものらしかった。

 帯もざっとした引掛(ひっかけ)結びで、

(おや、居ませんか?)

 ッて蓮葉(はすは)に出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を覗込(のぞきこ)んで、

(健ちゃん、健ちゃんや。)

 と呼ぶと、急に、わやわやと四五人小児(こども)の声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に棒千切(ぼうちぎれ)を持って健坊が顔を出した。田圃(たんぼ)へお()で、と云うと、

(いや)だべい。)

 で突掛(つッかか)るように刎附(はねつ)ける、同じ腕白夥間(なかま)に大勢馴染(なじみ)が出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も真黒(まっくろ)になった。母様(かあさん)がまたこれを大層喜んでいたもんです。

(じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。)

(うん、)

 と云うと、わっと吶喊(とき)を上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、鶏小屋(とりごや)の前で、健ちゃんは素飛(すっと)ぶ。

(お庇様(かげさま)で、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。)

 と嬉しそうに見えて、

(どちらへ?)と聞く。

(踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。)

 百姓家二三軒でもう(なわて)だが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。片方(かたっぽ)に田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を畦伝(あぜづた)いに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう――もっとも汎水(でみず)と云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら歩行(あるき)を通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。

 路は悪かった。所々の水溜(みずたまり)では、夫人(おくさん)の足がちらちら映る。真中(まんなか)泥濘(ぬかるみ)(ひど)いので、(すそ)の濡れるのは我慢しても、路傍(みちばた)の草を()かねばならない。

 停車場(ステエション)は、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に白光(しろびかり)に光って、夜になると(あお)く燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を水田(みずた)の方へ、むらむらと(まだら)に飛ぶ。が海を(いだ)いた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一(ぬぐ)(ぬぐい)を掛けたいように底が澄まず、ちょうど海の(はて)と思う処に、あるかなし墨を引いた(くもり)(わた)って、驚破(すわ)と云うとずんずん押出して、山の雲と一(まと)めにまた空を暗闇(くらやみ)にしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠い(ともしび)の影も見られなそうな夕暮だった。

(もう、お天気になりましょうね。)

(さあ、)

 とは云ったがどうも請合いかねる。……明白(あからさま)に云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞ()き厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。

 風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、(あふ)れた水が田へ(かぶ)るそれらしかった。

 踏切を渡ると、(からす)が一羽……その飛んだ事ったら――吃驚(びっくり)したほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山の()か、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。雨気(あまけ)が深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。

 もう少し隧道(トンネル)の方へ()くと、あすこに、路の真中(まんなか)に、縦に掛けたちょっとした橋がある。棒杭(ぼうぐい)のように欄干がついて、――あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、瓦色(かわらいろ)に濁ったのが、どうどうとただ一幅(ひとはば)だけれども(うねり)を立てて、橋の底へすれすれに(すさま)じいほど流れている。いつもは俯向(うつむ)いて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、(かさ)増して、(すすき)の葉が瀬を造って、もうこれで充満(いっぱい)と云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶ()ってた。」

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