16話 十六
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「透かした前途に、蘆の葉に搦んで、一条白い物がすっと懸った。――穂か、いやいや、変に仇光りのする様子が水らしい、水だと無駄です。
(ここにいらっしゃい。)
と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越え、跳越え、倒れかかる蘆を薙立てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆した。線路から眺めて水浸の田は、ここだろう。……
が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに汐が上げているんだから流れはせん。薄い水溜だ、と試みに遣ってみると、ほんの踵まで、で、下は草です。結句、泥濘を辷るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや夥しい、畦が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。
早や暗くなって、この田圃にただ一人の筈の、あの人の影が見えない。
浜で手鍋の時なんかは、調子に乗って、
(お房さん。)
と呼んだりしたが、もう真になって、
(夫人!)
と慌てて呼んだ。
(はーい。)と云う、厭に寂しい。
声を便りに駈戻って、蘆がくれなのを勇んで誘い、
(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)
誰も落着いてはいないのを、汝が周章てて捲立てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。
路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の真中へ立った姿で、何だか幻の中を行く、天の川でも渡るようで、その時ふとまた美い色が、薄濁った水に映った――」
小松原は歯を噛んで言渋ったが、
(先方でも、手を出した……それを曳こうと思った時……
私はぎょっとした。
つい目の前を、足に絡んだ水よりは色の濃い、重っくるしい底力のあるのが、一筋、褐色の鱗を立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形が顕れたんだ。
ここに、ちょいとした橋があるんだが、その勢だからもう不可い。水の上で持上って、だぶりだぶりと煽を打つと、蘆がまた根から穂を振って、光来々々を極めてるなんざ、情なかろうではないか。
しかも幅一間とは無いんだよ。
(不可ないのねえ。)
(駄目です、)
と言ったきり。だって口惜しかろう。その川一条の前途は、麗々と土が出て、薄りと霧が這って、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらく睨み詰めて立っていた。」
医師はむくむくと起きて、平胡坐で、枕を頤に突支って、
「いや、散々、散々、お察し申すな。」
「ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその橋向へ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。吠える、吠える! うう、と唸る、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまで凄かった。
(あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。)
と低声で、あの人が言う。
(なぜ。)
と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと歩行き出した。
現在犬に怪まれているんです……漁師村を表に、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。
が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、
(一奮発遣附けましょう。)
と勇が出た。」