沼夫人

16話 十六

1,375字 約3分 2011年4月29日 公開

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「透かした前途(ゆくて)に、蘆の葉に(から)んで、一条(ひとすじ)白い物がすっと(かか)った。――穂か、いやいや、変に仇光(あだびか)りのする様子が水らしい、水だと無駄です。

(ここにいらっしゃい。)

 と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越(はねこ)え、跳越え、倒れかかる(あし)薙立(なぎた)てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆(がっかり)した。線路から眺めて水浸(みずびたし)の田は、ここだろう。……

 が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに(しお)が上げているんだから流れはせん。薄い水溜(みずたまり)だ、と試みに()ってみると、ほんの(かかと)まで、で、下は草です。結句、泥濘(ぬかるみ)(すべ)るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや(おびただ)しい、(あぜ)が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。

 早や暗くなって、この田圃(たんぼ)にただ一人の(はず)の、あの人の影が見えない。

 浜で手鍋(てなべ)の時なんかは、調子に乗って、

(お房さん。)

 と呼んだりしたが、もう(しん)になって、

夫人(おくさん)!)

 と慌てて呼んだ。

(はーい。)と云う、(いや)に寂しい。

 声を便りに駈戻(かけもど)って、蘆がくれなのを勇んで誘い、

(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)

 誰も落着いてはいないのを、(うぬ)周章(あわ)てて捲立(まくした)てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。

 路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の真中(まんなか)へ立った姿で、何だか幻の中を()く、天の川でも渡るようで、その時ふとまた(うつくし)い色が、薄濁った水に映った――」

 小松原は歯を()んで言渋ったが、

先方(さき)でも、手を出した……それを()こうと思った時……

 私はぎょっとした。

 つい目の前を、足に(から)んだ水よりは色の濃い、重っくるしい底力(そこぢから)のあるのが、一筋、褐色(かばいろ)(うろこ)を立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形が(あらわ)れたんだ。

 ここに、ちょいとした橋があるんだが、その(いきおい)だからもう不可(いけな)い。水の上で持上って、だぶりだぶりと(あおり)を打つと、蘆がまた根から穂を振って、光来々々(おいでおいで)()めてるなんざ、(なさけ)なかろうではないか。

 しかも幅一間とは無いんだよ。

不可(いけ)ないのねえ。)

(駄目です、)

 と言ったきり。だって口惜(くや)しかろう。その川一条(ひとすじ)前途(さき)は、麗々と土が出て、(うっす)りと霧が()って、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらく(にら)み詰めて立っていた。」

 医師(せんせい)はむくむくと起きて、平胡坐(ひらあぐら)で、枕を(おとがい)突支(つッか)って、

「いや、散々、散々、お察し申すな。」

「ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその橋向(はしむこう)へ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。()える、吠える! うう、と(うな)る、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまで(すご)かった。

(あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。)

 と低声(こごえ)で、あの人が言う。

(なぜ。)

 と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと歩行(ある)き出した。

 現在犬に(あやし)まれているんです……漁師村を(おもて)に、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。

 が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、

(一奮発遣附(やッつ)けましょう。)

 と(いさみ)が出た。」

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