19話 十九
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「一生懸命の声をして、
(さ、お掴んなさい。)
とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝を掴んだが、苦痛を堪える恐い力が入って、痺れるばかり。
(しっかり……しっかりして下さいよ。)
背中を擦ろうとした手が辷って、ひやひやと後毛を潜って、柔かな襟脚に障ったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。
その時ふっとまた、褄の水に映るのが、薄彩色して目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!
膝に倒れたのは、あの人だ。
私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。
(我慢なさい。こんな事をしていちゃ、生命にも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず駈出して行って支度して迎に来ます。)
と声も震えながら云うと、
(一人で、どうして居られましょう、一所に。)
ッて、ぐいと袂に掴まったが、絞ると見えて水が垂った。
(田も畦も構わない、一文字に駈け抜けるんです、怪我があると不可ません。)
(可いの、貴下、婦は最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!)
と縋った手を、しっかりと取合った。
(じゃ、悪魔に攫われたと、断念めて、目を瞑って、覚悟をして……)
(は、瞑りました。)
と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。」
と、小松原は拳を握った手首をかえして、目を圧えて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。
「考えて見れば怪しい。
はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦に踞んでるにも当らず。不断見れば掌ほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものに弄ばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に恍惚となると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。
畢竟ずるに、言訳沢山の恋かも知れん。
その罰です。
後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を曳合って駈出した処を、あっと云う間もなく、終汽車で刎飛ばされた。
気が付いた時は、真蒼な何かの灯で、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、衣を脱がしてあった。ただ一束ねの滑かな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳の辺に血が染んだ、――この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。
君も知ってる、生命は、あの人も助かったんだが、その後影を隠してしまって、いまだに杳として消息がない。
これが風説の心中仕損。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても自然から明りは立つ。面と向って汝が、と云うものがないのは、君が何にも言わないと同一なんだ。
お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄まして活きているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。――ただもう一度逢いたいよ。」
と団扇を膝につくと、額を暗うした。
医師は黙っている。
「しかし、」
と、小松原が額を上げた。