沼夫人

19話 十九

1,363字 約3分 2011年4月29日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「一生懸命の声をして、

(さ、お(つかま)んなさい。)

 とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝を(つか)んだが、苦痛を堪える(おそろし)い力が入って、(しび)れるばかり。

(しっかり……しっかりして下さいよ。)

 背中を(さす)ろうとした手が(すべ)って、ひやひやと後毛(おくれげ)(くぐ)って、柔かな襟脚に(さわ)ったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。

 その時ふっとまた、(つま)の水に映るのが、薄彩色(うすさいしき)して目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!

 膝に倒れたのは、あの人だ。

 私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。

(我慢なさい。こんな事をしていちゃ、生命(いのち)にも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず駈出(かけだ)して行って支度して(むかえ)に来ます。)

 と声も震えながら云うと、

(一人で、どうして居られましょう、一所に。)

 ッて、ぐいと(たもと)(つか)まったが、絞ると見えて水が垂った。

(田も(あぜ)も構わない、一文字に駈け抜けるんです、怪我(けが)があると不可(いけ)ません。)

()いの、貴下(あなた)(おんな)は最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!)

 と(すが)った手を、しっかりと取合った。

(じゃ、悪魔に(さら)われたと、断念(あきら)めて、目を(ねむ)って、覚悟をして……)

(は、瞑りました。)

 と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。」

 と、小松原は(こぶし)を握った手首をかえして、目を(おさ)えて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。

「考えて見れば怪しい。

 はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦に(しゃが)んでるにも当らず。不断見れば(てのひら)ほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものに(もてあそ)ばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に恍惚(うっとり)となると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。

 畢竟(ひっきょう)ずるに、言訳沢山の恋かも知れん。

 その罰です。

 後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を曳合(ひきあ)って駈出(かけだ)した処を、あっと云う間もなく、(しまい)汽車で刎飛(はねと)ばされた。

 気が付いた時は、真蒼(まっさお)な何かの(あかり)で、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、(きもの)を脱がしてあった。ただ一束(ひとつか)ねの(なめら)かな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳の(あたり)に血が(にじ)んだ、――この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。

 君も知ってる、生命(いのち)は、あの人も助かったんだが、その(のち)影を隠してしまって、いまだに(よう)として消息がない。

 これが風説(うわさ)の心中仕損(しそこない)。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても自然(おのず)から明りは立つ。面と向って(きさま)が、と云うものがないのは、君が何にも言わないと同一(おんなじ)なんだ。

 お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄まして()きているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。――ただもう一度逢いたいよ。」

 と団扇(うちわ)を膝につくと、額を暗うした。

 医師(せんせい)は黙っている。

「しかし、」

 と、小松原が額を上げた。

目次に戻る

目次