沼夫人

21話 二十一

1,304字 約3分 2011年4月29日 公開

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「ねえ、小松原さん、」

 とぼかしたような顔が、蚊帳の中で(おぼろ)に動いて、

「あの御骨(おこつ)だって、水に縁があるんですもの。」

「婦女子の言です。」

 と医師(せんせい)は横を向く。小松原は、片手を敷布の上、隣室(となり)摺寄(すりよ)る身構えで、

「水に縁と……仰有(おっしゃ)ると?」

「あれは貴下(あなた)、何ですわ、つい近い頃、(やど)が拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、(もと)あった処は沼なんですって。」

「沼!」

「おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。(なまず)に網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、掬上(すくいあ)げるもんか。」

「だって、そりゃ沼からじゃありますまいけれど、梅雨あけに水が()えたので、底から流出(ながれだ)したんだろうッて、貴郎(あなた)がそう言っていらしったではありませんか。――小松原さん、この梅雨あけにも田圃へ水が出ましてね、先刻(さっき)おっしゃいました、踏切の前の橋も落ちたんですよ。蒼沼(あおぬま)(あふ)れたんですって、田圃の用水は、(みんな)そこから来るんだって申します……

 その近処の病家へ()きました時に、其家(そこ)の作男が、沼を通りがかりに見て来たって、話したもんですから、(やど)貴下(あなた)好事(ものずき)にその男を連れて帰りがけに、廻道(まわりみち)をして、内の車夫(わかいしゅ)に手伝わして、拾って来たんですわ。

 御骨は、沼の縁に(やわらか)な泥の中にありましたって、どこも不足しないで、手足も頭も(つなが)って、膝を(かが)めるようにしていたんだそうです。」

妄誕臆説(ぼうたんおくせつ)!」

 と(とな)えて、肩を一つ団扇で(たた)く。

「臆説って、貴下(あなた)がお話しなすった癖に。そうしてこう骨になってから、全体(そなわ)っているのは、何でも非常な別嬪(べっぴん)に違いない。何骨とか言って、仏家では菩薩(ぼさつ)の化身とさえしてある。……第一膝を折った身躾(みだしなみ)()い処を見ろッて、さんざん効能を言ったではありませんか。」

 と、もう小児(こども)も寝たので、掻巻からするりと出て褄を合わせる。

 医師(せんせい)喟然(きぜん)として、

(よろ)しく頼む。あとは君にまかせるから、二人して、あの骨をその人だとでも何とでも御意(ぎょい)なさい、こちらへ来て講中にならんか。」

 と笑いながら、むずと蚊帳を出て、廊下へ寝衣(ねまき)突立(つッた)った。

 が横向に隣を見て、

「何だ、お前も手水(ちょうず)か。馬鹿な、今の話しで不気味だからって。お客様の居る処を、連立って便所へ行く奴があるかい。」

 と言う。

 小松原が、ト(すか)すと、二重(ふたえ)遮って(ほのか)ではあるが、細君は蚊帳の中を動かずにいたのである。

貴郎(あなた)、」

 とこの時、細君の声は、果せる(かな)(いた)く震えて、

「貴郎……」

「うむ、」

 小松原も蚊帳の中に悚然(ぞっ)として、

「酒田。」

 と変な声をする。

「誰か居ますか。」

「おお……」

 と医師(せんせい)は、蹌踉(よろ)けたように、雨戸を(うしろ)に、此方(こなた)を向き替え、斜めに隣室(となり)の蚊帳を(のぞ)いた。

「私はここに居ますんですよ。」

「誰だ、今のは?」

 うっかり医師(せんせい)が言うや否や……

(いや)……」

 と立って、ふらふらと、浅黄に白地で蚊帳を(くぐ)ると、(すそ)と裙とにばっと挟まる、と蜘蛛(くも)の巣に(かか)ったように見えたが、一つ(あお)って、すッと()せたようになって、此方(こなた)の蚊帳へ――廊下に事はあるものを、夫を力にそこへは出られぬ――腰を細く、乗るばかり、胸に(すが)った手が白く、小松原の膝にしがみついた。

 ――この(さま)を……後に、医学士が人に語る。――

蒼沼(あおぬま)の水は可恐(おそろ)しい、人をして不倫の恋をなさしむるかと、私は(ねた)もうとした。」

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