23話 二十三
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「沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。」
と正吉が言う処を、立直って見れば、村の故道を横へ切れる細い路。次第高の棚田に架って、峰からなぞえに此方へ低い。田の青さと、茂った樹立の間を透いて、六月の空は藍よりも蒼く、日は海の方へ廻って、背後から赫と当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。
三方、山の尾が迫った、一方は大なる楓の梢へ、青田の波が越すばかり。それから青芒の線を延して、左へ離れた一方に、一叢立の藪があって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと揺出し、揺出す。その上に、萱で包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿の彳んだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、颯と黒髪を捌いたごとく、梢が乱れ、根が茂る。
路はその雑木の中に出つ入りつ、糸を引いて枝折にした形に入る……赤土の隙間なく、凹に蔭ある、樹の下闇の鰭爪の跡、馬は節々通うらしいが、処がら、竜の鱗を踏むと思えば、鼈の足痕を辿るよとも疑われた。
次第に山の裾を分け上ると、件の楓を左の方に低く視めて、右へ折曲ってもう一谷戸、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、山懐の土が崩れて、目の下の田までは落ちず、径の端に、抜けた岩ごと泥が堆かった。
「沼はこの先でがんす。」
と正吉は前へ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞ頷かるる。
「梅雨あけに、医師と、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。腕車もはい、持立てるようにしてここまでは曳いて来ただが、前あ挺でも動きましねえでね。」
と言う。
このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。何、正体を見れば、閑古鳥にしろ、直そこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を掻込んだのが、けろりとした目で、閑に任かして、退屈まぎれに独言を言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中の蟻までが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、喨々として調べ奏でる。
……きょ、きょら、くらら、くららっ!
と転がして、発奮みかかって、ちょいと留めて、一つ撓めておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴が谺に響く。
小松原は、魂を取って扱かれるほど、ひしひしと身に堪え、
「……京から、今日ら……来るか、来るか!」
と言われるようで、
「来ました、東京から今日来ましたよ。」
と胸の裡で言った。
その蒼沼は……
小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、対岸へ山の青簾、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風が面を打って、爪先寒う湛えたのである。
水の面は秋の空、汀に蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、二葉三葉折れながら葉ばかりの菖蒲の伸びた蔭は、どんよりと白い。木の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴菜の蔓が、水筋を這い廻る――空は、と見ると、覆かかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠方は遠方なりに遮って、池の周囲と同じ程より、多くは天を余さぬから、押包んだ山の緑に藍を累ねて、日なく月なく星もなく、倒に沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となく涸れて荒びて、主やあらん、その、主の留守の物寂しい。