沼夫人

23話 二十三

1,319字 約3分 2011年4月29日 公開

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「沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。」

 と正吉が言う処を、立直って見れば、村の故道(ふるみち)を横へ切れる細い路。次第(だか)の棚田に(かか)って、峰からなぞえに此方(こなた)へ低い。田の青さと、茂った樹立(こだち)の間を透いて、六月(みなづき)の空は(あい)よりも(あお)く、日は海の方へ廻って、背後(うしろ)から(かっ)と当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。

 三方、山の尾が迫った、一方は(おおい)なる(かえで)(こずえ)へ、青田の波が越すばかり。それから青芒(あおすすき)の線を(のば)して、左へ離れた一方に、一叢立(ひとむらだち)(やぶ)があって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと揺出(ゆりだ)し、揺出す。その上に、(かや)で包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿の(たたず)んだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、(さっ)と黒髪を(さば)いたごとく、(うら)が乱れ、根が茂る。

 路はその雑木の中に出つ()りつ、糸を引いて枝折(しおり)にした形に入る……赤土の隙間(すきま)なく、(くぼみ)に蔭ある、樹の下闇(したやみ)鰭爪(ひづめ)の跡、馬は節々通うらしいが、処がら、(たつ)(うろこ)を踏むと思えば、(すっぽん)足痕(あしあと)辿(たど)るよとも疑われた。

 次第に山の裾を分け上ると、(くだん)の楓を左の方に低く(なが)めて、右へ折曲(おりまが)ってもう一谷戸(ひとやと)、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、山懐(やまふところ)の土が崩れて、目の下の田までは落ちず、(こみち)の端に、抜けた岩ごと泥が(うずたか)かった。

「沼はこの先でがんす。」

 と正吉は(さき)へ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞ(うなず)かるる。

「梅雨あけに、医師(せんせい)と、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。腕車(くるま)もはい、持立(もった)てるようにしてここまでは()いて来ただが、(さき)(てこ)でも動きましねえでね。」

 と言う。

 このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。(なあに)、正体を見れば、閑古鳥にしろ、(じき)そこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を掻込(かいこ)んだのが、けろりとした目で、(ひま)()かして、退屈まぎれに独言(ひとりごと)を言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中の(あり)までが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、喨々(りょうりょう)として調べ(かな)でる。

 ……きょ、きょら、くらら、くららっ!

 と転がして、発奮(はず)みかかって、ちょいと留めて、一つ()めておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴が(こだま)に響く。

 小松原は、魂を取って(しご)かれるほど、ひしひしと身に(こた)え、

「……京から、今日ら……来るか、来るか!」

 と言われるようで、

「来ました、東京から今日来ましたよ。」

 と胸の(うち)で言った。

 その蒼沼は……

 小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、対岸(むこう)へ山の青簾(あおすだれ)、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風が(おもて)を打って、爪先(つまさき)寒う(たた)えたのである。

 水の(おも)は秋の空、(みぎわ)に蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、二葉(ふたは)三葉(みは)折れながら葉ばかりの菖蒲(あやめ)の伸びた蔭は、どんよりと白い。()の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴菜(ぬなわ)(つる)が、水筋を()い廻る――空は、と見ると、(おおい)かかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠方(おちかた)は遠方なりに遮って、池の周囲(まわり)と同じ程より、多くは(そら)を余さぬから、押包(おッつつ)んだ山の緑に(あい)(かさ)ねて、日なく月なく星もなく、(さかさ)に沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となく()れて(すさ)びて、(ぬし)やあらん、その、主の留守の物寂しい。

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