骨董羹 ―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―

1話 骨董羹 ―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―(1)

6,878字 約14分 2007年7月16日 公開

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     別乾坤

 Judith Gautier が詩中の支那は、支那にして又支那にあらず。葛飾北斎(かつしかほくさい)水滸画伝(すゐこぐわでん)(さしゑ)も、誰か又是を以て如実(によじつ)に支那を写したりと云はん。さればかの明眸(めいぼう)女詩人(ぢよしじん)も、この短髪の老画伯も、その無声の詩と有声の(ぐわ)とに彷弗(はうふつ)たらしめし所謂(いはゆる)支那は、(むし)ろ彼等が白日夢裡(はくじつむり)逍遙遊(せうえうゆう)(ほしいまま)にしたる別乾坤(べつけんこん)なりと称すべきか。人生(さいはひ)にこの別乾坤あり。誰か又小泉八雲(こいづみやくも)と共に、天風海濤(てんぷうかいたう)の蒼々浪々たるの処、去つて還らざる蓬莱(ほうらい)蜃中楼(しんちうろう)を歎く事をなさん。(一月二十二日)

     軽薄

 (げん)(りかん)文湖州(ぶんこしう)の竹を見る数十(ふく)(ことごとく)意に満たず。東坡(とうば)山谷等(さんこくら)の評を読むも(また)思ふらく、その交親に(わたくし)するならんと。(たまたま)友人王子慶(わうしけい)と遇ひ、話次(わじ)文湖州の竹に及ぶ。子慶(いはく)、君(いまだ)真蹟を見ざるのみ。府史の蔵本(はなはだ)(しん)明日(みやうにち)借り来つて示すべしと。翌日(すなはち)之を見れば、風枝抹疎(ふうしまつそ)として塞煙(さいえん)を払ひ、露葉蕭索(ろえふせうさく)として清霜を帯ぶ、(あたか)渭川(ゐせん)淇水(きすゐ)(かん)に坐するが如し。《かん》感歎()(あた)はず。大いに聞見の寡陋(くわろう)を恥ぢたりと云ふ。の如きは(いまだ)(じよ)すべし。かの写真版のセザンヌを見て色彩のヴアリユルを喋々(てふてふ)するが如き、論者の軽薄唾棄するに堪へたりと云ふべし。戒めずんばあるべからず。(一月二十三日)

     俗漢

 バルザツクのペエル・ラシエエズの墓地に葬らるるや、棺側に侍するものに内相バロツシユあり。送葬の途上同じく棺側にありしユウゴオを顧みて尋ぬるやう、「バルザツク氏は材能の士なりしにや」と。ユウゴオ(ふつく)として答ふらく「天才なり」と。バロツシユその答にや(いきどほ)りけん傍人(ばうじん)(ささや)いて云ひけるは、「このユウゴオ氏も聞きしに(まさ)る狂人なり」と。仏蘭西(フランス)台閣(だいかく)(また)這般(しやはん)の俗漢なきにあらず。日東帝国の大臣諸公、意を安んじて可なりと云ふべし。(一月二十四日)

     同性恋愛

 ドオリアン・グレエを愛する人は Escal Vigor を読まざる()からず。男子の男子を愛するの情、この書の如く遺憾なく描写せられしはあらざる可し。書中若しこれを翻訳せんか。我当局の忌違(きゐ)に触れん事疑なきの文字少からず。出版当時有名なる訴訟(そしよう)事件を惹起(じやくき)したるも、(また)是等艶冶(えんや)(ひつ)(るゐ)する所多かりし由。著者 George Eekhoud は白耳義(ベルギイ)近代の大手筆(だいしゆひつ)なり。声名(かならず)しもカミユ・ルモニエエの下にあらず。されど多士済々(せいせい)たる日本文壇、(いまだ)この人が等身の著述に一言(いちげん)の紹介すら加へたるもの無し。文芸(あに)独り北欧の天地にのみ、オウロラ・ボレアリスの盛観をなすものならんや。(一月二十五日)

     同人雑誌

 年少の子弟醵金(きよきん)して、同人雑誌(どうじんざつし)を出版する事、当世の流行の一つなるべし。されど紙代印刷費用共に(はなはだ)(れん)ならざる今日(こんにち)、経営に苦しむもの(また)少からず。伝へ聞く、ル・メルキウル・ド・フランスが初号を(いち)(いだ)せし時も、(もと)より文壇不遇の士の黄白(くわうはく)(ゆたか)なる筈なければ、やむ無く一株(ひとかぶ)六十(フラン)の債券を同人に募りしかど、その唯一(ゆゐいち)(おほ)株主たるジユウル・ルナアルが持株すら僅々(きんきん)四株に過ぎざりしとぞ。しかもその同人の中には、アルベエル・サマンの如き、レミ・ド・グルモンの如き、一代の才人多かりしを思へば、当世流行の同人雑誌と(いへど)も、資金の(はなはだ)潤沢(じゆんたく)ならざるを(うら)むべき理由なきに似たり。唯、得難きは当年のル・メルキウルに、象徴主義の大旆(たいはい)()てしが如き英霊底(えいれいてい)(かん)一ダアスのみ。(一月二十六日)

     雅号

 日本の作家今は多く雅号(ががう)を用ひず。文壇の新人旧人を分つ、(ほとんど)雅号の有無を以てすれば足るが如し。されば(さき)に雅号ありしも捨てて用ひざるさへ少からず。雅号の薄命なるも(また)甚しいかな。露西亜(ロシア)の作家にオシツプ・デイモフと云ふものあり。チエホフが短篇「(いなご)」の主人公と同名なりしと覚ゆ。デイモフはその名を借りて雅号となせるにや。博覧の士の示教(しけう)を得れば幸甚(かうじん)なり。(一月二十八日)

     青楼

 仏蘭西(フランス)語に妓楼(ぎろう)を la maison verte と云ふは、ゴンクウルが造語なりとぞ。(けだ)し青楼美人合せの名を翻訳せしに出づるなるべし。ゴンクウルが日記に云ふ。「この年(千八百八十二年)わが病的なる日本美術品蒐集(しうしふ)の為に(つひや)せし金額、実に三千(フラン)に達したり。これわが収入の全部にして、懐中時計を(あがな)ふべき四十(フラン)の残余さへ(とど)めず」と。又云ふ。「数日以来(千八百七十六年)日本に(おもむ)かばやと思ふ心(とど)め難し。されどこの旅行はわが日頃の蒐集(しうしふ)癖を(みた)さんが為のみにはあらず。われは夢む、一巻の著述を成さん事を。題は『日本の一年』。日記の如き体裁。叙述よりも情調。かくせば比類なき好文字(かうもんじ)を得べし。唯、わがこの(らう)如何(いかん)」と。日本の版画を愛し、日本の古玩(こぐわん)を愛し、更に又日本の菊花を愛せる(れいへい)孤寂(こじやく)のゴンクウルを(おも)へば、青楼の一語短なりと(いへど)も、無限の情味なき(あた)はざるべし。(一月二十九日)

     言語

 言語は(もと)より多端なり。(さん)と云ひ、(がく)と云ひ、(ほう)と云ひ、(らん)と云ふ。義の同うして字の異なるを用ふれば、即ち意を隠微の(かん)(ぐう)するを得べし。大食(おほぐら)ひを大松(だいまつ)と云ひ差出者(さしでもの)左兵衛次(さへゑじ)と云ふ。聞くものにして江戸つこならざらんか、面罵せらるるも(なほ)恬然(てんぜん)たらん。(こころみ)に思へ、品蕭(ひんせう)の如き、後庭花(こうていくわ)の如き、倒澆燭(たうげうしよく)の如き、金瓶梅(きんぺいばい)肉蒲団(にくぶとん)中の語彙(ごゐ)を借りて一篇の小説を作らん時、善くその淫褻(いんせつ)俗を(やぶ)るを看破すべき検閲官の(すう)何人なるかを。(一月三十一日)

     誤訳

 カアライルが独逸(ドイツ)文の翻訳に誤訳指摘を試みしはデ・クインシイがさかしらなり。されどチエルシイの哲人はこの後進の鬼才を遇する事|

(かへ)つて(はなはだ)(あつ)かりしかば、デ・クインシイも(また)その襟懐に服して百年の心交を結びたりと云ふ。カアライルが誤訳の如何(いか)なりしかは知らず。予が知れる誤訳の最も滑稽なるはマドンナを奥さんと訳せるものなり。訳者は楽園の門を守る下僕天使にもあらざるものを。(二月一日)

     戯訓

 往年久米正雄(くめまさを)氏シヨウを訓して笑迂(せうう)と云ひ、イブセンを訓して燻仙(いぶせん)と云ひ、メエテルリンクを訓して瞑照燐火(めいてるりんくわ)と云ひ、チエホフを訓して知慧豊富(ちゑほうふ)と云ふ。戯訓(ぎくん)と称して可ならん()二人比丘尼(ににんびくに)の作者鈴木正三(すずきしやうざう)、その耶蘇教(やそけう)弁斥(べんせき)の書に題して破鬼理死端(はきりしたん)と云ふ。(また)悪意ある戯訓の一例たるべし。(二月二日)

     俳句

 紅葉(こうえふ)の句(いまだ)古人霊妙の機を会せざるは、独りその談林調(だんりんてう)たるが故のみにもあらざるべし。この人の文を見るも楚々(そそ)たる落墨(ただち)に松を成すの妙はあらず。長ずる所は精整緻密(せいせいちみつ)、石を(ゑが)いて一細草(いちさいさう)点綴(てんてい)を忘れざる(かう)にあり。句に短なりしは当然ならずや。牛門(ぎうもん)の秀才鏡花(きやうくわ)氏の句品(くひん)遙に師翁(しをう)の上に出づるも、(また)この理に外ならざるのみ。遮莫(さもあらばあれ)斎藤緑雨(さいとうりよくう)(かの)縦横の才を蔵しながら、句は遂に沿門黒(えんもんさくこく)(はい)軒輊(けんち)なかりしこそ不思議なれ。(二月四日)

     松並木

 東海道(とうかいだう)松並木(まつなみき)()らるべき由、何時(いつ)やらの新聞紙にて読みたる事あり。(もと)より道路改修の為とあれば止むを得ざるには似たれども、これが為に百尺(ひやくせき)枯龍(こりゆう)斧鉞(ふゑつ)(さい)(かうむ)るもの百千なるべきに想到すれば、惜みても(なほ)惜むべき限りならずや。ポオル・クロオデル日本に来りし時、この東海道の松並木を見て作る所の文一篇あり。痩蓋(そうがい)煙を含み危根(きこん)石を倒すの状、(ゑが)き得て霊彩(れいさい)奕々(えきえき)たりと云ふべし。今やこの松並木亡びんとす。クロオデルもしこれを聞かば、或は恐る、黄面(くわうめん)豎子(じゆし)(いまだ)王化に浴せずと長太息(ちやうたいそく)に堪へざらん事を。(二月五日)

     日本

 ゴオテイエが娘の支那(シナ)は既に云ひぬ。〔Jose' Maria de Heredia〕 が日本も(また)別乾坤(べつけんこん)なり。簾裡(れんり)の美人琵琶(びは)(たん)じて鉄衣の勇士の(きた)るを待つ。景情(もと)より日本ならざるに非ず。(le samourai)されどその絹の白と漆と(きん)とに(いろど)られたる世界は、(かへ)つて是縹渺(へうべう)たるパルナシアンの夢幻境のみ。しかもエレデイアの夢幻境たる、もしその所在を地図の上に按じ得べきものとせんか、恐らく仏蘭西(フランス)には近けれども、日本には(はるか)(へだた)りたるべし。(かの)ゲエテの希臘(ギリシヤ)と雖も、トロイの(たたかひ)の勇士の口には一抹(いつまつ)ミユンヘンの麦酒(ビイル)の泡の(いまだ)消えざるを如何(いか)にすべき。歎ずらくは想像にも(また)国籍の存する事を。(二月六日)

     大雅

 東海の画人多しとは云へ、九霞山樵(きうかさんせう)の如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅(たいが)すら、年三十に及びし時、意の如く()の進まざるを憂ひて、教を祇南海(ぎなんかい)に請ひし事あり。血性(けつせい)大雅に過ぐるもの、何ぞ進歩の遅々たるに焦燥(せうそう)の念無きを得可けんや。唯、返へす返すも学ぶべきは、聖胎長養(せいたいちやうやう)の機を誤らざりし九霞山樵の工夫(くふう)なるべし。(二月七日)

     妖婆

 英語に witch と唱ふるもの、大むねは妖婆(えうば)と翻訳すれど、年少美貌のウイツチ(また)決して少しとは云ふべからず。メレジユウコウスキイが「先覚者」ダンヌンツイオが「ジヨリオの娘」或は遙に(しな)(さが)れどクロオフオオドが Witch of Prague など、顔(たま)の如きウイツチを(ゑが)きしもの、尋ぬれば猶多かるべし。されど白髪蒼顔のウイツチの如く、活躍せる性格少きは(いな)み難き事実ならんか。スコツト、ホオソオンが昔は問はず、近代の英米文学中、妖婆を描きて出色なるものは、キツプリングが The Courting of Dinah Shadd の如き、或は随一とも称すべき()。ハアデイが小説にも、妖婆に材を取る事珍らしからず。名高き Under the Greenwood の中なる、エリザベス・エンダアフイルドもこの類なり。日本にては山姥(やまうば)鬼婆(おにばば)共に純然たるウイツチならず。支那にてはかの夜譚随録(やたんずゐろく)載する所の夜星子(やせいし)なるもの、(ほぼ)妖婆たるに近かるべし。(二月八日)

     柔術

 西人(せいじん)は日本と云ふ(ごと)に、(かならず)柔術を想起すと聞けり。さればにやアナトオル・フランスが「天使の反逆」の一章にも、日本より巴里(パリ)に来れる天使仏蘭西(フランス)の巡査を()(つか)んで物も見事に投げ捨つるくだりあり。モオリス・ルブランが探偵小説の主人公侠賊(けふぞく)リユパンが柔術に通じたるも、日本人より学びし所なりとぞ。されど日本現代の小説中、柔術の妙を極めし主人公は僅に泉鏡花(いづみきやうくわ)氏が「芍薬(しやくやく)の歌」の桐太郎(きりたらう)のみ。柔術も(また)予言者は故郷に()れられざるの歎無きを得んや。好笑(かうせう)好笑。(二月十日)

     昨日の風流

 趙甌北(てうおうぼく)呉門雑詩(ごもんざっし)に云ふ。看尽煙花細品評(えんくわをみつくしてこまかにひんぴやうす)始知佳麗也虚名(はじめてしるかれいのまたきよめいなるを)従今不作繁華夢(いまよりおこさずはんくわのゆめ)消領茶煙一縷清(せうりやうすさえんいちるのせい)。又その山塘(さんたう)の詩に云ふ。老入歓場感易増(おいてくわんじやうにいればかんましやすし)煙花猶記昔遊曾(えんくわなほしるすせきいうのそう)酒楼旧日紅粧女(しゆろうきうじつこうしやうのぢよ)已似禅家退院僧(すでににたりぜんかたいゐんのそう)一腔(いつかう)の詩情(ほとんど)永井荷風(ながゐかふう)氏を想はしむるものありと云ふべし。(二月十一日)

     発音

 ポオの名 Quantin 版に 〔Poe:〕 と印刷せられてより、仏蘭西(フランス)を始め諸方にポオエの発音行はれし由。予等が英文学の師なりし故ロオレンス先生も、時にポオエと発音せられしを聞きし事あり。西人(せいじん)の名の発音の誤り易きはさる事ながら、ホイツトマン、エマスンなどを(あが)め尊ぶ人のわが(ほとけ)の名さへアクセントを誤りたるは、無下(むげ)にいやしき心地せらる。(つつし)まざる可らざるなり。(二月十三日)

     傲岸不遜

 一青年作家或会合の席上にて、われら文芸の士はと云ひさせしに、(かたはら)なるバルザツク忽ちその語を(さへぎ)つて云ひけるは、「君の我等に伍せんとするこそ烏滸(をこ)がましけれ。我等は近代文芸の将帥(しやうすゐ)なるを」と。文壇の二三子(つと)傲岸不遜(がうがんふそん)(そしり)ありと聞く。されど予は(いまだ)一人(いちにん)のバルザツクに似たるものを見ず。(もと)より人間喜劇の著述二三子の手に成るを聞かざれども。(二月十五日)

     煙草

 煙草(たばこ)の世に行はれしは、亜米利加(アメリカ)発見以後の事なり。埃及(エジプト)亜剌比亜(アラビア)羅馬(ロオマ)などにも、喫煙の俗ありしと云ふは、青盲者流(せいまうしやりう)のひが(ごと)のみ。亜米利加土人の煙を(たしな)みしは、コロムブスが新世界に至りし時、既に葉巻あり、(きざ)みあり、(かぎ)煙草ありしを見て知るべし。タバコの名も実は植物の名称ならで、刻みの煙を味ふべきパイプの意なりしぞ滑稽なる。されば欧洲の白色人種が喫煙に新機軸を(いだ)したるは、僅に一事軽便なるシガレツトの案出ありしのみ。和漢三才図会(わかんさんさいづゑ)によれば、南蛮紅毛(こうもう)甲比丹(かびたん)がまづ日本に舶載(はくさい)したるも、このシガレツトなりしものの如し。村田(むらた)煙管(きせる)(いまだ)世に出でざりし時、われらが祖先は既にシガレツトを口にしつつ、春日(しゆんじつ)煦々(くく)たる山口の街頭、天主会堂の十字架を仰いで、西洋機巧の文明に賛嘆の声を惜まざりしならん。(二月二十四日)

     ニコチン夫人

 ボオドレエルがパイプの詩は(もと)より、Lyra Nicotiana を(ひるがへ)すも、西洋詩人の喫煙を()づるは、東洋詩人の点茶(てんちや)を悦ぶと好一対(かういつつゐ)なりと云ふを得べし。小説にてはバリイが「ニコチン夫人」最も人口に(くわいしや)したり。されど唯軽妙の(ひつ)、容易に読者を微笑せしむるのみ。ニコチンの名、もと仏蘭西(フランス)人ジアン・ニコツトより出づ。十六世紀の中葉、ニコツト大使の職を帯びて西班牙(スペイン)に派遣せらるるや、フロリダ渡来の葉煙草を得て、その医療に効あるを知り、栽培(さいばい)大いに努めしかば、一時は仏人煙草を呼んでニコチアナと云ふに至りしとぞ。デ・クインシイが「阿片(アヘン)喫煙者の懺悔(ざんげ)」は、さきに佐藤春夫(さとうはるを)氏をして「指紋(しもん)」の奇文を成さしめたり。誰か又バリイの(のち)に出でて、バリイを抜く事数等なる、(あたか)もハヴアナのマニラに於ける如き煙草小説を書かんものぞ。(二月二十五日)

     一字の師

 (たう)任翻(じんはん)天台巾子峯(てんだいきんしほう)に遊び、詩を寺壁に題して云ふ。「絶頂新秋生夜涼(ぜつちやうのしんしうやりやうをしやうず)鶴翻松露滴衣裳(つるはひるがへつてしようろいしやうにしたたる)前峯月照一江水(ぜんぽうつきはてるいつかうのみづ)僧在翠微開竹房(そうはすゐびにあつてちくばうをひらく)。」題し(をは)つて(のち)行く事数十里、途上一江水(いつかうすゐ)半江水(はんかうすゐ)()かざるを覚り、(ただち)に題詩の処に(かへ)れば、何人(なんびと)(すで)に「一」字を(けづ)つて「半」字に改めし(のち)なりき。翻長太息(はんちやうたいそく)に堪へずして(いはく)台州(たいしう)有人(ひとあり)と。古人が詩に心を用ふる、惨憺経営の跡想ふべし。青々(せいせい)が句集妻木(つまぎ)の中に、「初夢や(あけ)なる(ひも)の結ぼほる」の句あり。予思ふらく、一字不可、「る」字に()ふに「れ」字を以てすれば可ならんと。知らず、青々予を拝して能く一字の師と()すや否や。一笑。(二月二十六日)

     応酬

 ユウゴオ一夕宴をアヴニウ・デイロオの自邸に張る。(たまたま)衆客(しゆうかく)(みな)(さかづき)を挙げて主人の健康を祝するや、ユウゴオ(かたはら)なるフランソア・コツペエを顧みて云ふやう、「今この席上なる二詩人(たがひ)に健康を祝さんとす。(また)善からずや」と。意コツペエが為に乾杯せんとするにあり。コツペエ辞して云ふ、「否、否、座間(ざかん)詩人は唯一人(いちにん)あるのみ」と。意詩人の名に(そむ)かざるものは唯ユウゴオ一人(いちにん)のみなるを云ふなり。時に「オリアンタアル」の作者、忽ち破顔して答ふるやう、「詩人は唯一人(いちにん)あるのみとや。善し、さらば我は如何(いかに)」と。意コツペエが言を(ひるがへ)しておのが仰損を示せるなり。曰く「僧院の秋」の会、曰く「三浦(みうら)製糸場主」の会、曰く猫の会、曰く杓子(しやくし)の会、方今(はうこん)の文壇会(はなはだ)多しと(いへど)も、(いまだ)滑脱(くわつだつ)の妙を極めたる、()くの如き応酬ありしを聞かず。(かたはら)に人あり。(わら)つて云ふ、「請ふ、(くわい)より始めよ」と。(二月二十七日)

     白雨禅

 狩野芳涯(かのうはうがい)常に諸弟子(しよていし)に教へて(いはく)、「(ぐわ)の神理、唯(まさ)悟得(ごとく)すべきのみ。師授によるべからず」と。一日芳涯病んで()す。(たまたま)白雨天を傾けて来り、深巷(しんかう)(せき)として行人(かうじん)を絶つ。師弟共に黙して雨声(うせい)()くもの多時、忽ち一人(いちにん)あり。高歌して門外を過ぐ。芳涯莞爾(くわんじ)として、諸弟子を顧みて曰、「()せりや」と。句下殺人の意あり。吾家(ごか)吹毛剣(すゐまうけん)単于(ぜんう)千金に(あがな)ひ、妖精太陰(たいいん)に泣く。一道の寒光、君看取せよ。(三月三日)

     批評

 ピロンが、皮肉は世に聞えたり。一文人彼に語るに前人未発の業を成さん事を以てす。ピロン冷然として答ふらく、「易々(いい)たるのみ。君自身の讃辞(さんじ)を作らば可」と。当代の文壇、聞くが如くんば、党派批評あり。売笑批評あり。挨拶(あいさつ)批評あり。雷同批評あり。紛々(ふんぷん)たる毀誉褒貶(きよはうへん)庸愚(ようぐ)の才が自讃の如きも、一犬の虚に吠ゆる処、万犬(また)実を伝へて、(かならず)しもピロンが所謂(いはゆる)、前人未発の業と()(べか)らず。寿陵余子(じゆりようよし)生れてこの季世にあり。ピロンたるも(また)難いかな。(三月四日)

     誤謬

 門前の雀羅(じやくら)蒙求(もうぎう)(さへづ)ると説く先生あれば、燎原(れうげん)を焼く火の如しと辯ずる夫子(ふうし)あり。明治神宮の用材を(さん)して、彬々(ひんひん)たるかな文質と云ふ農学博士あれば、海陸軍の拡張を議して、艨艟罷休(もうどうひきう)あらざる可らずと云ふ代議士あり。昔は姜度(きやうと)()(たん)するや、李林甫(りりんぼ)(しゆ)書を作つて(いはく)、聞く、(ろうしやう)(よろこび)ありと。客之を視て口を(おほ)ふ。蓋し林甫(りんぽ)璋字(しやうじ)を誤つて、(しやうじ)を書せるを笑へるなり。今は大臣の時勢を慨するや、危険思想の瀰漫(びまん)を論じて曰、病既に膏盲(かうまう)に入る、国家の興廃旦夕にありと。然れども天下怪しむ者なし。漢学の素養の顧られざる、(また)甚しと云はざる可らず。(いはん)や方今の青年子女、レツテルの英語は解すれども、四書の素読(そどく)覚束(おぼつか)なく、トルストイの名は耳に熟すれども、李青蓮(りせいれん)の号は眼に(うと)きもの、紛々(ふんぷん)として数へ難し。頃日(けいじつ)(たまたま)書林の店頭に、数冊の(ふる)雑誌を見る。題して紅潮社(こうていしや)発兌(はつだ)紅潮第何号と云ふ。知らずや、漢語に紅潮と云ふは女子の月経に(ほか)ならざるを。(四月十六日)

     入月

 西洋に女子の紅潮(こうてう)を歌へる詩ありや否や、寡聞(くわぶん)にして(いまだ)之を知らず。支那には宮掖閨閤(きゆうえきけいかふ)の詩中、(まれ)に月経を歌へるものあり。王建(わうけん)宮詞(きゆうし)(いはく)、「密奏君王知入月(くんわうにみつそうしつきにいるをしる)喚人相伴洗裙裾(ひとをよんであひともなつてくんきよをあらふ)」と。春風(しゆんぷう)珠簾(しゆれん)を吹いて、銀鉤(ぎんこう)(たう)するの処、蛾眉(がび)の宮人の衣裙(いくん)を洗ふを見る、月事(げつじ)(また)風流ならずや。(四月十六日)

     遺精

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