4話 人形の家(4)
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クログスタット 奧さん、ご免なさい。
ノラ (押しつけたやうな叫聲で振り向き、半ばとび上る)お! 何かご用ですか?
クログスタット 失禮致しました。外の戸が開いてゐましてね、誰か閉めるのを忘れたのでせう――
ノラ (立ち上りながら)宅は今留守ですよ。
クログスタット 承知してをります。
ノラ ぢやどういふご用でいらつしやつたのです?
クログスタット あなたに少しお話し申すことがありましてね。
ノラ 私に? (子供の方を向いて柔かに)アンナの方へ行つてお出で。ママちよつとご用があるから。あの人が歸つたらまた遊びませうね(子供を左手の室へやり後をしめる、心配さうに息を潜める)私にお話があるとおつしやるのですか?
クログスタット はい。
ノラ 今日? だつてまだ一日にはならないぢやありませんか――
クログスタット なりません。今日はクリスマスの宵祭です。そこで、あなたのお考へ一つでクリスマスが愉快にも不愉快にもやれようといふものです。
ノラ どうなさらうといふんです? 今日は私少しも用意してませんから――
クログスタット その方はいまご心配には及びません。お話は外のことですが、ちよつとの間お差支へありますまいか。
ノラ さうですね、構ひませんけれど、たゞ――
クログスタット よろしうございます。ご主人のお出かけになるのを、私この向ふの料理屋に待つてゐて、突きとめたものですからな。
ノラ それで?
クログスタット 一人のご婦人と。
ノラ それがどうしました?
クログスタット もしやあのご婦人はリンデンの奧さんといふのぢやありませんか?
ノラ えゝ。
クログスタット 此方へお出でになつた許り?
ノラ えゝ今日。
クログスタット お親しくしておいでなさるのでせう?
ノラ えゝえ、ですけど、あなたどういふ譯で?
クログスタット 私もあの婦人とはもと知合ひでしてね。
ノラ それは聞きましたよ。
クログスタット あゝ、すつかりお聞きなすつた? そんなことだらうと思つた。ぢやあ打ち明けて申しますが、あの方が今度銀行へお入んなさるのですね?
ノラ クログスタットさん、何であなたはそんなに嵩にかゝつて根掘り葉掘りお聞きになるの? あなたは私どもにとつちあ使用人の癖に。だけど聞きたきや聞かせて上げます。はい、リンデンの奧さんは、銀行へお勤めになるのですよ。それからあの方を推薦したのは私。わかりましたか、クログスタットさん。
クログスタット やつぱり思つた通りだな。
ノラ (歩き廻りながら)ねえ? これでもちよつと權力があるでせう? 女だからつていつもさう――ね、クログスタットさん、下に立つ者は氣をつけて失禮なことのないやうにしないと、私のやうに――
クログスタット 權力のある場合にですか?
ノラ えゝ。
クログスタット (調子をかへて)奧さん、どうか、あなたの權力で私をお助け下さる譯には參りますまいか。
ノラ え? 何ですつて?
クログスタット お慈悲でどうか、目下の私ですから、銀行の地位が保つて行けるやうにご盡力下さい。
ノラ なせ、そんなことをいふんです? 誰もあなたの地位を奪やしないでせう?
クログスタット あ、そんなに白を切らなくともいゝですよ。あなたのお友達が私に會ふのをいやがつてることも、そのため私が逐ひ出されなくちやならないことも、私はよく呑み込んでゐますよ。
ノラ だつて私は決して――
クログスタット まあ、何でもないことです。まだ後れてはゐませんから、一つ、そんな目に會はないやうにあなたの權力を揮つて下すつたらと、ご相談申すのです。
ノラ ですけどクログスタットさん、私何も權力なんかありやしません。
クログスタット 權力がない? しかし唯今伺つたところぢやあ――
ノラ 勿論、そんな意味ぢやなかつたのですよ。私なんぞ――どうして主人に對してそんな權力があるものですか。
クログスタット いや、ご主人のことは大學にゐた頃からよく知つてますが、奧さんに對してさう強硬な態度を取れるたちぢやありませんな。
ノラ あなた、手前どもに對して失敬なことをおつしやるなら、お歸りを願はなくちやなりませんよ。
クログスタット 思ひ切りがいゝですな、奧さん。
ノラ 私もう貴方を怖がつちやゐませんよ、新年がすむと早々すつかり片をつけてしまひますから。
クログスタット (我慢しながら)ま、お聞きなさい、奧さん。場合によつちや私は命賭けでも銀行のあのちつぽけな地位を爭つて見せますぞ。
ノラ えゝ、そんなこともなさりかねないやうね。
クログスタット 單に金錢のためばかりぢやありません、金のことはどうでもいゝ。もう少し違つた意味があります。さうさな、すつかりいつちまつた方がいゝかも知れない。無論誰も知つてることだからご承知でせうが、五六年前私にとつて少し面倒なことが持ち上りましてね。
ノラ 何かそんな話を聞いたやうですね。
クログスタット その事件は裁判沙汰とまではならなかつたが、しかしそれからといふもの私の前途はぱつたり塞がつてしまひました。そこでご承知の通りの商賣を始めたのですがね、さうするしか仕方がなかつたんです。けれども、もうあの方はすつかり止さなきやならなくなりました。伜どもが段々大きくなつてみると、あれらのためにも是非出來るだけの信用を取り返して置いてやらなくちやなりませんからな。で、銀行に入つたのがその第一歩といふ譯なのです。處が、そこへ此方のご主人が出ておいでなすつて、折角登りかけた梯子から泥沼の中へ突き落しておしまひなさらうといふんだ。
ノラ ですけど、クログスタットさん、實際私は、貴方を救ふ力はないんですよ。
クログスタット 救つて下さる氣がないんだ、しかし是非救つていたゞく方法はありますな。
ノラ 借金の事を主人にお話なさらうといふのですか?
クログスタット ふむ、もしさうするとしましたら?
ノラ そんな不徳義なこと(目に涙をためて)私が悦んで誇りにしてゐる祕密を――そんな淺間しい非道い仕方で、それも貴方の口から打明けてしまふなんて! そんなことになつたら私はどんなにか不愉快な身の上になるでせう?
クログスタット たゞ不愉快なばかりですか?
ノラ (激して)まあ、やつてご覽なさいな、一番困つて來るのは貴方だから。主人は貴方を惡人だと思ふでせう? さうすると貴方の地位はなくなつちまふに決つてます。
クログスタット いや私はたゞあなたが家庭の不愉快といふことばかり氣にかけていらつしやるのかとお尋ねしてゐるのです。
ノラ 萬一、主人がその話を聞いたら、無論、お金は一時に拂つちまふでせう。そして、それで、もうあなたとは關係を絶つてゐますよ。
クログスタット (一歩進みながら)お聞きなさい奧さん、あなたは健忘症でいらつしやるやうだ。それとも實務上のことはまるでご存じないのですか。まあ、私がすつかり、事情を呑込ませて上げませう。
ノラ どうしたといふんです?
クログスタット ご主人がご病氣の時に、貴方は私の所へお出でになつて、千二百ターレル貸してくれとおつしやつた。
ノラ 他に懇意な方もなかつたものですから。
クログスタット で、私はその金を拵へて上げませうとお約束をしました――
ノラ そして、拵へて下すつたぢやありませんか。
クログスタット そのお約束をする時に私は條件を持ち出しましたね。あなたはその時ご主人の病氣に氣をとられて、旅行の費用を拵へたい一心でお出でになつたから、細かいことには碌々氣がつかなかつたかも知れません。ですから私がそれをここでお話して上げます。その時の約束は、私が書いた手形と引換にそのお金を拵へて差上ようといふのでしたな。
ノラ えゝ、それで私はその手形に署名しました。
クログスタット それに相違ありませんな。けれども、その時私は後から二三行つけ加へて、あなたのお父さんに保證して頂くやうにしました。そしてお父さんが、それに署名をなさるはずになつてました。
ノラ 署名するはずですつて? 署名したぢやありませんか。
クログスタット 日付の所を明けて置きましたらう? 即ちお父さんが自身で署名の上に日付をお入れなさるやうになつてました。ご記憶ですか?
ノラ えゝ、さうのやうでしたわ――
クログスタット そこで私はその手形をあなたに差上げてお父さんの方へお送りを願つた。さういふ順序でしたな?
ノラ えゝ。
クログスタット それで無論あなたは直ぐその通りになすつたでせう? といふのは五六日經たない中に、その手形を私の處へお返しになつたが、ちやんとお父さんのお名前が書いてありました。そこで私はお金をあなたにお渡し申しました。
ノラ それでどうしたといふんです? 私拂ふものはきちん/\とお拂ひしてるぢやありませんか。
クログスタット まづねえ。所で話の要點に成ると、その頃あなたは大變お困りのやうでしたね、奧さん。
ノラ 實際さうでしたよ。
クログスタット あなたのお父さんは大病だといふし。
ノラ とても助からないといふ時でしたからね。
クログスタット そして間もなくお亡くなりになつたでせう?
ノラ えゝ。
クログスタット 何ですか? 奧さん、あなたはお父さんのお亡くなりになつた日を覺えていらつしやいますか、月の幾日といふことを?
ノラ 父は、九月の二十九日に亡くなりました。
クログスタット 確かにさうです。私はすつかり檢べて來ました。所で、こゝに一つ重大なことが起つて來る――(手形を取出す)どうも私には理由がわからない。
ノラ 重大なことつて何です? どんなことか知りませんが――
クログスタット 重大なことと申すのはね奧さん、お父さんがこの手形に署名なすつたのは、お亡くなりになつてから三日後のやうですぜ!
ノラ 何ですつて? 私まだわからないんですが――
クログスタット ご親父は九月の二十九日にお亡くなりになつたでせう? 處がご覽なさい、この署名は十月二日になつてゐます。重大なことぢやありませんか、奧さん(ノラ默つてゐる)何か理由がありますか?(ノラなほ默つてゐる)その上注目すべきことは、十月二日といふ文句とその上の年號とがどうもご親父の手でないやうに見えます。何處か見覺えのある書體ですね。が、これあ説明がつきます。ご親父は署名なすつた時に日付を入れることをお忘れなすつた、それをお亡くなりの後まだそのことの知れない時に誰か勝手に日付を入れたのでせう。もつともそれだけなら一向惡いことぢやありません。大事なのは名前ですからな。名前の方は確かでせうな奧さん? 實際あなたのお父さんがご自分の手でちやんとこゝへ署名なすつたんでせうな?
ノラ (暫く默つてゐて、頭を後へそらせ、決然たる樣子で彼を見る)いゝえ、父の名を書いたのは私です。
クログスタット もし、奧さん、あなた危險なことをおつしやつてますぞ、よございますか。
ノラ 構はないでせう、お金はぢき拂ひますから。
クログスタット 尚一つ伺ひたいことがあります、なぜこの手形をご親父の方へお送りにならなかつたのですか?
ノラ それは、送るわけに行かなかつたからです、父は大病でせう? そこへ署名のことなどいつてやると、金の使ひ道も話さなくちやなりませんから、宅が病氣で命が危ないといふやうなことはとてもいつてやれなかつたのです。
クログスタット そんなら旅行をお止しなすつたらよかつたでせう。
ノラ どうしてそんなことが出來るものですか。その旅行一つで主人の命はどうにもなるといふ場合でしたもの。到底止めるわけには參らなかつたのです。
クログスタット で、あなたは私に對して詐欺をしてお出でになるとは氣がつかなかつたのですか?
ノラ まアそんなことは私何とも思はなかつたのですよ。貴方のことなんざ、まるで考へてゐませんでした。貴方は宅が大病であると知りながら殘酷な面倒なことばかしいつておよこしになるもんだから私我慢が仕切れなかつたのですよ。
クログスタット 奧さん、あなたは現にやつてお出でなさることがどんな事だかご存じないやうですね。私がかうやつて社會から投り出されたのも、あなたとおなじことをしたからですぜ。
ノラ まあ、この人は! 細君の命でも救ふために立派なことをしたやうな顏をして。
クログスタット 法律は動機の如何を問ひません。
ノラ それぢや、その法律は大間違ひの法律です。
クログスタット 間違つてゐようがゐまいが、この證書を裁判所にさへ持出せば、あなたは法律上の罪人にならなくてはなりませんよ。
ノラ そんなことがあるものですか、あなたのおつしやるやうだと、娘が大病の父に苦勞をさせまいとする權利はないわけですね――妻が夫の命を救ふ權利もないわけですね、私、法律のことはよく知らないけれど、きつと何處かに今いつたやうなことが許してあると思ひますわ。それを貴方はご存じないんだから――貴方のやうな法律家が! 貴方はきつと碌な法律家ぢやないんですね、クログスタットさん。
クログスタット さうかも知れません。けれどもかういふことになると――今起つてるやうな事件になると、私はよく知つてゐますよ。おわかりになりましたか? それぢやあ宜しい。それから先はご隨意になさい。たゞ申上げて置きたいのは、私がもう一度泥沼へ落ちるとなると、貴女もご一緒に來なくてはなりませんよ。(ちよつと腰を屈めて廊下から出て行く)
ノラ (暫く考へながら立つてゐて、そして頭を立てる)何でそんなことが! あいつ私を威かさうと思つてやがる。私、そんな間拔ぢやない! (子供の衣服を疊み始めるその手を止めて)けれど――いゝえ、そんなことのあらうはずはない。愛のためにしたんだもの――
子供 (左手の扉の處で)お母さん、よそのおぢさん、もう行つちまひましたよ。
ノラ えゝえ、知つてますよ。けれどね、よそのおぢさんの來たことを誰にもいつてはいけませんよ。わかりましたか、パパにだつていけませんよ。
子供 えゝ、だから一緒に遊びませうよ、ねえお母さん?
ノラ いゝえ、今はいけないの。
子供 ねえ、遊びませうよ。お母さん、約束したんですもの。
ノラ さうですけどね、今はいけませんよ。乳母のゐる方へいらつしやい。お母さんは澤山ご用があるから。さ、さ、いらつしやい。温和しくしてゐるんですよ、よくつて? (子供達を靜かに向ふの室の方へ押しやり、あとの戸を閉め切る。ソファに坐り刺繍を取上げ、二針三針動かして直ぐ止める)そんなことがあるものか! (仕事のものを投出して立ち上り、廊下の扉の方へ行つて呼ぶ)エレン! クリスマス・ツリーを持つておいで! (左手のテーブルの處へ行つて抽出を開ける、またその手を止める)どうしてそんなこと、どう考へたつてそんなはずはない。
エレン (クリスマス・ツリーを持つて)何處へお立て申しませうか。
ノラ そこへ、部屋の眞中の處へ。
エレン 何かまだ他のものを持つて參りませうか。
ノラ いゝえ、よくてよ、それですつかり揃ひます。
(エレンは、木を置いて出て行く)
ノラ (忙しげに木を飾りながら)こゝは蝋燭にして向ふの方へ花をかける。あいつ本當に恐ろしい奴! 何でもない/\。何でもありやしない。クリスマス・ツリーをかうやつて飾つて貴方の氣にさへ入れば、私何でもしますわ。ねえ貴方、歌も歌ふ。踊もをどる。それから――
(ヘルマーが一束の書類を持つて廊下の扉から入つて來る)
ノラ あら! もう歸つてらしつたの?
ヘルマー あゝ、誰か來てゐたかえ?
ノラ 此處へ? いゝえ。
ヘルマー 變だな。クログスタットがこの家から出て行つたが。
ノラ お會ひなつたの? さう/\、何でしたつけ、ちよつとの間來てたのですよ。
ヘルマー ノラ、お前の樣子でちやんとわかるよ、彼奴め、お前に口をきかせようと思つて來たな!
ノラ えゝ。
ヘルマー で、お前はそれを自分の料簡一つでやらうと思つたのかい? お前は彼奴が此處にゐたことを知らせまいとしてゐるやうだが、それも彼奴の入智惠ぢやなかつたか?
ノラ えゝ、ですけどね――
ヘルマー ノラ! どうしてお前そんなことが出來るんだ! あんな奴と話をして約束までするなんて、それで私には嘘をついて、ごまかさうとする!
ノラ 嘘ですつて?
ヘルマー 誰も來ないといつたぢやないか(指で突く眞似をして)家の小鳥さんは二度とそんなことをいつちやいけないよ、小鳥が調子の違つた歌なんか囀つちや仕樣がない(片手に女を抱きながら)え、さうぢやないか――さうだらう、さうなくちやならない(女を放す)ぢや、もうそのことはいはないことにしようね(ストーヴの前に坐る)あゝ、靜かでいゝ氣持だな! (持つてゐる書類を覗き込む)
ノラ (クリスマス・ツリーに氣を取られてゐる。暫く默つてゐて)あなた!
ヘルマー え?
ノラ 私、本當に明後日のステンボルグさんの假裝舞踏會が待ち遠しいわ。
ヘルマー 私はまたお前がどんな趣向で私を驚かすだらうと、それが樂しみだよ。
ノラ 私も全く思案にあまつてゐるのよ。
ヘルマー どうして?
ノラ 幾ら考へても旨い思つきが出ないんですもの。何を考へてみても下らない、平凡なものばかりですから。
ヘルマー ノラさんがさういふ發見をしたんだな?
ノラ (夫の椅子の後から腕をもたせかけて)貴方、非常にお忙しくつて?
ヘルマー さうさな――
ノラ その書類は何のご用?
ヘルマー 銀行の用事だ。
ノラ もう?
ヘルマー 今度辭職する支配人と相談して少し役員の出し入れなんかさせて貰つたもんだからね。その方がクリスマス中かかるだらう。新年になるとすつかり片がつきさうだ。
ノラ ぢや、そのためですわ、可哀さうに、あのクログスタットが――
ヘルマー ふむ――
ノラ (尚、椅子の背の處によりかゝり、靜かに夫の髮の毛を掻きながら)貴方、餘り忙しくなかつたら本當にお願ひしたいことがあるんですけれどね。
ヘルマー 何だらう? いつてご覽。
ノラ 誰だつて、貴方ほど趣味の高い人はゐないんだから、私今度の假裝舞踏會には思ふ樣立派にして行きたいと思ふんですよ。で、貴方何ですか? 一緒にいらして私が何になればいゝか決めて衣裳を見立てゝ下さるわけにはいきませんか?
ヘルマー あはあ! 家の剛情屋さんが、途方にくれて悄げ始めて來たね。
ノラ えゝ、どうかね。貴方がいらして下さらなくちやどうにもならないんですもの。
ヘルマー よし/\、考へてみよう、そのうち何か見つかるさ。
ノラ まあよかつた。貴方親切ですわね! (またクリスマス・ツリーの方へ行く、立ち止る)赤い花がいいこと! ですけれどね、あなた、あのクログスタットが惡いことをしたといふのは、大變怖ろしいことなのでしたか?
ヘルマー 私文書僞造といふだけだがね、それはどんなことか知つてるかい?
ノラ 何か止むを得ない事情で、そんなことをしたんでせうね?
ヘルマー さうか、またはよくある奴でほんの不注意からそんなことになつたのかも知れない。俺は何も、それ一つの過失で絶對に人に難癖をつけるほど、冷酷ぢやないんだがね。
ノラ でせう? 私だつてさう思ひますわ。
ヘルマー たゞ自分の罪を白状して、それだけの刑罰を受けちまへば、それですつかり道徳上正しい人間になることが出來るんだが。
ノラ 刑罰ですつて?
ヘルマー 所がクログスタットは白状といふことをしなかつた。彼奴は小細工やごまかしで逃れようとした。それが彼奴を腐敗させてしまつたんだ。
ノラ あなた、それでは――?
ヘルマー ま、考へてもご覽! 一度惡いことを承知でさういふことをした奴は、一生涯嘘をついて眞面目な顏をしてゐなくちやならない。何もかもごまかして生きて行く。彼奴は自分の妻子にまで假面を被つてゐなくちやならないんだ。第一、子供にとつてこれほど惡いことはないだらう。
ノラ 何故です?
ヘルマー 何故つてお前、そんなうそいつはりが入つて來ると、家庭の空氣はすつかり腐つてしまつて毒をもつて來るからな、子供が呼吸する度に罪惡の黴菌を吸ひ込むやうなものだ。
ノラ (夫の後の方へ近よつて行つて)貴方本當にさう思ふんですか?
ヘルマー 辯護士をしてる間に私は幾度もさういふ例を見たよ、子供の時分に惡いことをする奴は、十中八九まで母親が嘘をつくのに原因してるやうだ。
ノラ まあ――母親がですか?
ヘルマー まづ概して母親の方から來るやうだな。けれども無論父親の感化だつて同じことには相違ない。あのクログスタットなんざ、これまで何年となく嘘と僞善の生活で自分の子供を損つて來たんだ。それさ、私が彼奴を道徳的に破産した奴といふのは(兩手を女の方に差出して)そんなわけだから家のノラさんは、もう彼奴の辯護なんか誓つて止めなくちやいけないよ。さあ誓ひの印に握手しようか。おい、どうしたんだ。手をお出し。それでよし/\、それで契約濟だよ。實際私は彼奴と一緒に仕事をすることは不可能だつたんだ。あゝいふ奴に會ふと胸がむかついて來るからな。
(ノラは自分の手をひいてクリスマス・ツリーの向ふ側へ行く)
ノラ この室は暑いわ。私まだ澤山色んなことをしなくちや。
ヘルマー あゝ、俺も夕飯までに書類の必要なものだけすつかり見て置かなくちやならない、それからお前の衣裳のことも考へなくちやならないし。クリスマス・ツリーに金紙で下げるものも何か思ひつくかも知れない(女の頭に手を置いて)家の大事な小鳥さん。
(ヘルマー自分の室に入り後の扉を閉める)
ノラ (暫く間を置いて柔らかに)大丈夫そんなことはない。あらうはずがない。そんなことがあつて堪るものぢやない。
アンナ (左手の扉の處で)皆さんがママの處へ行きたいんですつて、此處へお連れしてもよろしいでせうか?
ノラ いけませんよ、いけませんよ、此處へよこさないでおくれ。お前みてゐておくれ、いいかえ、アンナ!
アンナ はい(扉を閉める)
ノラ (恐怖で顏が蒼白くなつて)私の子供を腐敗させる! 私の家庭に毒を撒く! (ちよいと句切りを置いて頭を上げる)嘘! 嘘! そんなことがあるものか。
第二幕
前幕と同じ室、隅、ピアノの傍にクリスマス・ツリーが所々むしり取られて燃さしの蝋燭のついたまゝ立つてゐる。ノラの外出仕度の物がソファの上に置いてある。
ノラは落つかない樣子で歩き廻つてゐる。ソファの傍に立ち止り、外套を取り上げて、また下に置く。
ノラ 誰か來たやうだ(廊下の方へ行つて、聞耳をたてる)誰も來やしない。今日はクリスマスだから來る人はないだらう。明日だつて來やしない。けれども、ひよつとすると――(扉を開けて外を見る)さうぢやなかつた、郵便箱には何もありはしない、空つぽ(前の方へ出て來て)私、馬鹿なことを考へるわね。あいつ私を嚇かさうと思つてるに違ひない。そんなことになる氣づかひはありやしない。できないことだもの。だつて私には子供が三人もゐるぢやないか。
(アンナが左手から大きなボール箱を持つて入つて來る)