河伯令嬢

2話

3,779字 約8分 2011年8月14日 公開

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「――川裳明神縁起。――この紀行中では、人が呼んで、御坊々々と言いますし、可心は坊さんかと、読みながら思いましたが、そうではない。いかにも、気がつくとその頃の俳諧の修行者(しゅぎょうじゃ)は、年紀(とし)にかかわらず頭を丸めていたのです――道理こそ、可心が、大木の松の幽寂に二本、すっくり立った処で、岐路(わかれみち)の左右に迷って、人少(ひとずくな)な一軒屋で、孫を抱いた六十(あまり)の婆さんに(みち)を聞くと、いきなり奥へ入って、一銭(いちもん)もって出た……(いやとよ、老女)と、最明寺で書いていますが、報謝に預るのではない、ただ路を聞くのだ、と云うと、魂消(たまげ)た気の毒な顔をして、くどくど(わび)をいいながら、そのまま、跣足(はだし)で、雨の中を、びたびた、二町ばかりも道案内をしてくれた。この老女の志、(現世に利益、未来に冥福(めいふく)あれ、)と手にした数珠を()んで、別れて帰るその後影を拝んだという……宗匠と、行脚(あんぎゃ)の坊さんと、容子(ようす)がそっくりだった事も分りますし、跣足(はだし)で路しるべをしたお婆さんの志、その後姿(うしろつき)も、尊いほどに(しの)ばれます。――折からのざんざ(ぶり)で、一人旅の山道に、雨宿りをする蔭もない。……ただ松の下で、行李(こうり)を解いて、雨合羽(あまがっぱ)引絡(ひきまと)ううちも、(そで)を絞ったというのですが。――これは、可心法師が、末森の古戦場――今浜から、所口(七尾)を目的(めあて)に、高畑をさして()く途中です。

 何でもその頃は、芭蕉の流れを()むものが、奥の細道を辿(たど)るのは、エルサレムの宮殿、近代の学者たちの洋行で、奥州めぐりを済まさないと、一人前の宗匠とは言われない。加賀近国では、よし、それまでになくても、内外(うちそと)能登の浦づたいをしないと、幅が利かなかったらしいのです。今からだと夢のようです。

 はじめ、河北潟(かほくがた)を渡って――可心は、あの湖を舟で渡った。――高松で一夜宿(いちやどまり)、国境になりますな。それから末松の方へ、能登浦、第一歩の草鞋(わらじ)を踏むと、すぐその浜に、北海へ(そそ)ぐ川尻が三筋あって、渡船がない。橋はもとよりで、土地のものは瀬に()れて、勘で(わた)るから(らち)が明く。勿論、深くはない、が底に夥多(おびただ)しく藻が茂って、これに足を(から)まれて時々旅人が(おぼ)れるので。――可心は馬を雇って、びくびくもので(わた)ったが、その第三の川は、最も海に近いだけに、ゆるい(ながれ)も、押し寄せる荒海の波と相争って、(あお)られ、()まるる水草は、たちまち、馬腹に怪しき雲の()くありさま。幾万(すじ)ともなき、青い炎、黒い蛇が、旧暦五月、白い日の、川波に(さかさま)に映って、(くら)も人も()もうとする。笠()馬士(まご)轡頭(くつわ)をしっかと取って、(やあ、黒よ、観音様念じるだ。しっかりよ。)と云うのを聞いて、雲を()(かい)かと(あやぶ)竹杖(たけづえ)を宙に取って、真俯伏(まうつぶし)になって、思わずお題目をとなえたと書いています。

 旅行は、どうして、楽なものではなかったのです。可心にとって、能登路のこの第一歩の危懼(あぶなっかし)さが、……――実は(しん)をなす事になるんです。」

 と言って、小山夏吉は一息した。

「やがて道端の茶店へ休むと――薄曇りの雲を浴びて背戸の映山紅(つつじ)真紅(まっか)だった。つい一句を(したた)めて、もの優しい茶屋の女房に差出すと、渋茶をくんで飲んでいる馬士(まご)が、(おら)がにも是非一枚(いちめえ)。で、……その短冊をやたらに幾度も頂いた。(おかし。)と云って、宗匠ちょっと得意ですよ。――道中がちと前後しました。――可心法師は、それから徒歩(かち)で、二本松で雨に悩み、(みち)に迷い、(なさけ)あるお婆さんに導かれて(のち)、とぼとぼと高畑まで辿(たど)り着く。その夜、旅のお侍と俳談をする処があります。翌日は快晴。しかし昨日(きのう)、道に迷った難儀に懲りて、宿から、すぐ馬を雇って出ると、曳出(ひきだ)した時は、五十四五の親仁(おやじ)が手綱を取って、十二三の小僧が鞍傍(くらわき)についていた。寂しい道だし、一人でも(つれ)難有(ありがた)いと喜んだのに、宿はずれの並木へ(かか)ると、(やっこ)が綱に代って、親仁は啣煙管(くわえぎせる)で、うしろ手を組んで、てくりてくりと澄まして帰る。……前後に人脚はまるでなし。……(これ、兄や、こなた馬は()けるかの、大丈夫じゃろうかの。(わし)は初旅じゃ。その上馬に乗るも今度がはじめてじゃ。それにの、耳はよう聞えずの。……頼んだぞ。)いかにも心細そうです。読んでいて段々分りましたが、筆談でないと通じないほどでもないが、余程耳が(うと)いらしい。……あるいはそんな事で、世捨人同様に、――俳諧はそのせめてもの心遣(こころや)りだったのかも知れません。勿論、独身らしいのです。寸人豆馬(すんじんとうば)と言いますが、豆ほどの小僧と、馬に木茸(きくらげ)の坊さん一人。これが秋の暮だと、一里塚で消えちまいます、五月の陽炎(かげろう)を乗って()きます。

 お婆さんが道祖神(さえのかみ)の化身なら、この子供には、こんがら童子の憑移(のりうつ)ったように、路も馬も渉取(はかど)り、正午頃(ひるごろ)には早く所口へ着きました。可心は穴水の大庄屋、林水とか云う俳友を便(たよ)って行くので。……ここから七里、海上の(わたし)だそうです。

 ここの茶店の女房も、(ものやさしく取りはやして)――このやさしくを女扁に、花、《やさし》。――という字があててある。……ちょっと今昔の感がありましょう。――(女ばかりか草さえ菜さえ能登は(やさし)や土までも――俗謡の趣はこれなんめり。)と調子が乗って、はやり唄まで記した処は、御坊、ここで一杯きこしめしたかも知れない。……

 亭主が、これも、まめまめしく、方々聞合わせてくれたのだけれども、あいにく便船がなく、別仕立の渡船で、御坊一人十(もんめ)ならばと云う、その時の相場に、辟易(へきえき)して、一晩泊る事にきめると、居心のいい大きな旅籠(はたご)を世話しました。(私の大笹の宿という形があります。)その宿に、一人、越中の氷見(ひみ)の若い男の、商用で逗留(とうりゅう)中、茶の湯の稽古(けいこ)をしているのに、茶をもてなされたと記してあります。商用で逗留中、若い男が茶の湯の稽古――その頃の人気が思われます。しかし、何だかうら寂しい。

 翌日は、()の時ばかりに、乗合六人、石動山(せきどうざん)のお札くばりの山伏が交って、二人船頭で、帆を立てました。石崎、和倉、奥の原、舟尾、田鶴浜、白浜を左に、能登島を正面に、このあたりの佳景いわむ方なし。で、海上左右十町には足りまいと思う、大蛇(おろち)(とな)える処を過ぎると、今度は可恐(おそろ)しく広い海。……能登島の鼻と、長浦の間、今の(みつ)ヶ口の瀬戸でしょう。その大海へ出る頃から、(波やや高く、風加わり、(たちま)ち霧しぶき立つと見れば、船頭たち、驚破(すわ)白山より(おろ)すとて、巻落す帆の、(きし)む音骨を裂く。(ただ)一人おわしたる、いずくの里の女性(にょしょう)やらむ、髪高等に結いなして、姿も、いうにやさしきが、いと様子あしく打悩み、白芥子(しらげし)一重(ひとえ)の散らむず風情。……

 むかし義経卿をはじめ、十三人の山伏の、(わに)の口の安宅(あたか)をのがれ、倶利伽羅(くりから)の竜の背を越えて、四十八瀬に日を数えつつ、直江の津のぬしなき舟、朝の嵐に(ただよ)って、佐渡の島にも(とど)まらず、白山の(たけ)の風の激しさに、能登国珠洲(すず)ヶ岬へ(ふき)はなされたまいし時、いま一度陸にうけて、ともかくもなさせ給えとて、北の(かた)(くれない)(はかま)に、(から)のかがみを取添えて、八大竜王に参らせらると、つたえ聞く、その面影も()のあたり。)……とこの趣が書いてあります。

 ――佐渡にも留めず、吹放った、それは外海。この紀事の七尾湾も一手(ひとて)の風に《しぶき》を飛ばす、霊山の威を思うとともに、いまも吹きしむ(おもい)がして、――大笹の()の宿に、ゾッと寒くなりました。それだのに掻巻(かいまき)()ねて、写本を持ったなり、起直ったんです、私は……」

 小山夏吉の眉に、陰が()した。

「……紀行に、前申した、川裳明神縁起とあるのでしょう。可心の無事はもとよりですが、ここでこの船に別条が起って、白芥子(しらげし)の花が散るのではないか。そのゆうなる姿を、明神に祭ったのではないだろうか、とはっとしました。私の聞き知った、川裳明神は女神(めがみ)ですから。……ところで(船中には、一人坊主を忌むとて、出家一(にん)のみ立交る時は、海神の(たたり)ありと聞けば、()の美女の心、いかばかりか、()おその上に(いた)みなむ。坊主には候わず、出家には(はんべ)らじ。と、波風のまぎれに声高に申ししが、……船助かりし(あと)にては、婦人の(かおよ)きにつけ、あだ心ありて言いけむように、色めかしくも聞えてあたり(はずか)し。)と云うので、()の葉とばかり浮き沈む中で、(つんぼ)同然の可心が、何慰めの(ことば)も聞き得ないで、かえって人の気を安めようと、一人、(うお)のように口を開けて、張って(坊主でない、坊主でない。)と(わめ)いた様子が可哀(あわれ)に見えます。

 穴水の俳友の住居(すまい)は、千石の(やしき)(かまえ)で、大分(ねんごろ)にもてなされた。かこい網の見物に(われは坊主頭に顱巻(はちまき)して)と、(おおい)気競(きお)う処もあって――((いわし)(さば)(あじ)などの幾千ともなく水底(みずそこ)を網に(ひるがえ)るありさま、夕陽(ゆうひ)に紫の波を飜して、銀の大坩炉(おおるつぼ)に溶くるに異ならず。)――人気がよくて魚も沢山だったんでしょう。磯端(いそばた)で、日くれ方、ちょっと釣をすると、はちめ(甘鯛の子)、阿羅魚(あらうお)(かれい)が見る見るうちに、……などは(うらやま)しい。

 七日ばかり居たのです。

 これまでは、内浦で、それからは半島の真中(まんなか)を間道(ごえ)に横切って、――輪島街道。あの外浦を加賀へ帰ろうという段取になると、路が(けわし)くって馬が立たない。駕籠(かご)は……四本竹に板を渡したほどなのがあるにはある、けれども、田植時で()き手がない。……大庄屋の家の屈強な若いものが、荷物と案内を兼ねて、そこでおかしいのは、(遣りきれなくなったら(おぶ)さりたまえ。)と云う俳友の深切です。出発の朝、空模様が悪いのを見て、雨が降ったら途中から必ず引返(ひっかえ)せ、と心づけています。道は余程難儀らしい……」

 小山夏吉は、炬燵蒲団(こたつぶとん)を指で辿(たど)りつつ言った。

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