2話 二
読み方を変える
「――川裳明神縁起。――この紀行中では、人が呼んで、御坊々々と言いますし、可心は坊さんかと、読みながら思いましたが、そうではない。いかにも、気がつくとその頃の俳諧の修行者は、年紀にかかわらず頭を丸めていたのです――道理こそ、可心が、大木の松の幽寂に二本、すっくり立った処で、岐路の左右に迷って、人少な一軒屋で、孫を抱いた六十余の婆さんに途を聞くと、いきなり奥へ入って、一銭もって出た……(いやとよ、老女)と、最明寺で書いていますが、報謝に預るのではない、ただ路を聞くのだ、と云うと、魂消た気の毒な顔をして、くどくど詫をいいながら、そのまま、跣足で、雨の中を、びたびた、二町ばかりも道案内をしてくれた。この老女の志、(現世に利益、未来に冥福あれ、)と手にした数珠を揉んで、別れて帰るその後影を拝んだという……宗匠と、行脚の坊さんと、容子がそっくりだった事も分りますし、跣足で路しるべをしたお婆さんの志、その後姿も、尊いほどに偲ばれます。――折からのざんざ降で、一人旅の山道に、雨宿りをする蔭もない。……ただ松の下で、行李を解いて、雨合羽を引絡ううちも、袖を絞ったというのですが。――これは、可心法師が、末森の古戦場――今浜から、所口(七尾)を目的に、高畑をさして行く途中です。
何でもその頃は、芭蕉の流れを汲むものが、奥の細道を辿るのは、エルサレムの宮殿、近代の学者たちの洋行で、奥州めぐりを済まさないと、一人前の宗匠とは言われない。加賀近国では、よし、それまでになくても、内外能登の浦づたいをしないと、幅が利かなかったらしいのです。今からだと夢のようです。
はじめ、河北潟を渡って――可心は、あの湖を舟で渡った。――高松で一夜宿、国境になりますな。それから末松の方へ、能登浦、第一歩の草鞋を踏むと、すぐその浜に、北海へ灌ぐ川尻が三筋あって、渡船がない。橋はもとよりで、土地のものは瀬に馴れて、勘で渉るから埒が明く。勿論、深くはない、が底に夥多しく藻が茂って、これに足を搦まれて時々旅人が溺れるので。――可心は馬を雇って、びくびくもので渉ったが、その第三の川は、最も海に近いだけに、ゆるい流も、押し寄せる荒海の波と相争って、煽られ、揉まるる水草は、たちまち、馬腹に怪しき雲の湧くありさま。幾万条ともなき、青い炎、黒い蛇が、旧暦五月、白い日の、川波に倒に映って、鞍も人も呑もうとする。笠被た馬士が轡頭をしっかと取って、(やあ、黒よ、観音様念じるだ。しっかりよ。)と云うのを聞いて、雲を漕ぐ櫂かと危む竹杖を宙に取って、真俯伏になって、思わずお題目をとなえたと書いています。
旅行は、どうして、楽なものではなかったのです。可心にとって、能登路のこの第一歩の危懼さが、……――実は讖をなす事になるんです。」
と言って、小山夏吉は一息した。
「やがて道端の茶店へ休むと――薄曇りの雲を浴びて背戸の映山紅が真紅だった。つい一句を認めて、もの優しい茶屋の女房に差出すと、渋茶をくんで飲んでいる馬士が、俺がにも是非一枚。で、……その短冊をやたらに幾度も頂いた。(おかし。)と云って、宗匠ちょっと得意ですよ。――道中がちと前後しました。――可心法師は、それから徒歩で、二本松で雨に悩み、途に迷い、情あるお婆さんに導かれて後、とぼとぼと高畑まで辿り着く。その夜、旅のお侍と俳談をする処があります。翌日は快晴。しかし昨日、道に迷った難儀に懲りて、宿から、すぐ馬を雇って出ると、曳出した時は、五十四五の親仁が手綱を取って、十二三の小僧が鞍傍についていた。寂しい道だし、一人でも連は難有いと喜んだのに、宿はずれの並木へ掛ると、奴が綱に代って、親仁は啣煙管で、うしろ手を組んで、てくりてくりと澄まして帰る。……前後に人脚はまるでなし。……(これ、兄や、こなた馬は曳けるかの、大丈夫じゃろうかの。私は初旅じゃ。その上馬に乗るも今度がはじめてじゃ。それにの、耳はよう聞えずの。……頼んだぞ。)いかにも心細そうです。読んでいて段々分りましたが、筆談でないと通じないほどでもないが、余程耳が疎いらしい。……あるいはそんな事で、世捨人同様に、――俳諧はそのせめてもの心遣りだったのかも知れません。勿論、独身らしいのです。寸人豆馬と言いますが、豆ほどの小僧と、馬に木茸の坊さん一人。これが秋の暮だと、一里塚で消えちまいます、五月の陽炎を乗って行きます。
お婆さんが道祖神の化身なら、この子供には、こんがら童子の憑移ったように、路も馬も渉取り、正午頃には早く所口へ着きました。可心は穴水の大庄屋、林水とか云う俳友を便って行くので。……ここから七里、海上の渡だそうです。
ここの茶店の女房も、(ものやさしく取りはやして)――このやさしくを女扁に、花、《やさし》。――という字があててある。……ちょっと今昔の感がありましょう。――(女ばかりか草さえ菜さえ能登は優や土までも――俗謡の趣はこれなんめり。)と調子が乗って、はやり唄まで記した処は、御坊、ここで一杯きこしめしたかも知れない。……
亭主が、これも、まめまめしく、方々聞合わせてくれたのだけれども、あいにく便船がなく、別仕立の渡船で、御坊一人十匁ならばと云う、その時の相場に、辟易して、一晩泊る事にきめると、居心のいい大きな旅籠を世話しました。(私の大笹の宿という形があります。)その宿に、一人、越中の氷見の若い男の、商用で逗留中、茶の湯の稽古をしているのに、茶をもてなされたと記してあります。商用で逗留中、若い男が茶の湯の稽古――その頃の人気が思われます。しかし、何だかうら寂しい。
翌日は、巳の時ばかりに、乗合六人、石動山のお札くばりの山伏が交って、二人船頭で、帆を立てました。石崎、和倉、奥の原、舟尾、田鶴浜、白浜を左に、能登島を正面に、このあたりの佳景いわむ方なし。で、海上左右十町には足りまいと思う、大蛇と称える処を過ぎると、今度は可恐しく広い海。……能登島の鼻と、長浦の間、今の三ヶ口の瀬戸でしょう。その大海へ出る頃から、(波やや高く、風加わり、忽ち霧しぶき立つと見れば、船頭たち、驚破白山より下すとて、巻落す帆の、軋む音骨を裂く。唯一人おわしたる、いずくの里の女性やらむ、髪高等に結いなして、姿も、いうにやさしきが、いと様子あしく打悩み、白芥子の一重の散らむず風情。……
むかし義経卿をはじめ、十三人の山伏の、鰐の口の安宅をのがれ、倶利伽羅の竜の背を越えて、四十八瀬に日を数えつつ、直江の津のぬしなき舟、朝の嵐に漾って、佐渡の島にも留まらず、白山の嶽の風の激しさに、能登国珠洲ヶ岬へ吹はなされたまいし時、いま一度陸にうけて、ともかくもなさせ給えとて、北の方、紅の袴に、唐のかがみを取添えて、八大竜王に参らせらると、つたえ聞く、その面影も目のあたり。)……とこの趣が書いてあります。
――佐渡にも留めず、吹放った、それは外海。この紀事の七尾湾も一手の風に《しぶき》を飛ばす、霊山の威を思うとともに、いまも吹きしむ思がして、――大笹の夜の宿に、ゾッと寒くなりました。それだのに掻巻を刎ねて、写本を持ったなり、起直ったんです、私は……」
小山夏吉の眉に、陰が翳した。
「……紀行に、前申した、川裳明神縁起とあるのでしょう。可心の無事はもとよりですが、ここでこの船に別条が起って、白芥子の花が散るのではないか。そのゆうなる姿を、明神に祭ったのではないだろうか、とはっとしました。私の聞き知った、川裳明神は女神ですから。……ところで(船中には、一人坊主を忌むとて、出家一人のみ立交る時は、海神の祟ありと聞けば、彼の美女の心、いかばかりか、尚おその上に傷みなむ。坊主には候わず、出家には侍らじ。と、波風のまぎれに声高に申ししが、……船助かりし後にては、婦人の妍きにつけ、あだ心ありて言いけむように、色めかしくも聞えてあたり恥し。)と云うので、木の葉とばかり浮き沈む中で、聾同然の可心が、何慰めの言も聞き得ないで、かえって人の気を安めようと、一人、魚のように口を開けて、張って(坊主でない、坊主でない。)と喚いた様子が可哀に見えます。
穴水の俳友の住居は、千石の邸の構で、大分懇にもてなされた。かこい網の見物に(われは坊主頭に顱巻して)と、大に気競う処もあって――(鰯、鯖、鰺などの幾千ともなく水底を網に飜るありさま、夕陽に紫の波を飜して、銀の大坩炉に溶くるに異ならず。)――人気がよくて魚も沢山だったんでしょう。磯端で、日くれ方、ちょっと釣をすると、はちめ(甘鯛の子)、阿羅魚、鰈が見る見るうちに、……などは羨しい。
七日ばかり居たのです。
これまでは、内浦で、それからは半島の真中を間道越に横切って、――輪島街道。あの外浦を加賀へ帰ろうという段取になると、路が嶮くって馬が立たない。駕籠は……四本竹に板を渡したほどなのがあるにはある、けれども、田植時で舁き手がない。……大庄屋の家の屈強な若いものが、荷物と案内を兼ねて、そこでおかしいのは、(遣りきれなくなったら負さりたまえ。)と云う俳友の深切です。出発の朝、空模様が悪いのを見て、雨が降ったら途中から必ず引返せ、と心づけています。道は余程難儀らしい……」
小山夏吉は、炬燵蒲団を指で辿りつつ言った。