二百十日

2話 二百十日(2)

5,648字 約11分 1999年2月19日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「この湯は何に利(き)くんだろう」と豆腐屋の圭(けい)さんが湯槽(ゆぶね)のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。

「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍(へそ)ばかりざぶざぶ洗ったって、出臍(でべそ)は癒(なお)らないぜ」

「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉(ゆ)を掬(く)んで、口へ入れて見る。やがて、

「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。

「飲んでもいいんだよ」と碌(ろく)さんはがぶがぶ飲む。

 圭さんは臍(へそ)を洗うのをやめて、湯槽の縁(ふち)へ肘(ひじ)をかけて漫然(まんぜん)と、硝子越(ガラスご)しに外を眺めている。碌さんは首だけ湯に漬(つ)かって、相手の臍から上を見上げた。

「どうも、いい体格(からだ)だ。全く野生(やせい)のままだね」

「豆腐屋出身だからなあ。体格が悪(わ)るいと華族や金持ちと喧嘩(けんか)は出来ない。こっちは一人向(むこう)は大勢だから」

「さも喧嘩の相手があるような口振(くちぶり)だね。当(とう)の敵(てき)は誰だい」

「誰でも構わないさ」

「ハハハ呑気(のんき)なもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのには驚(おどろ)いたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免蒙(ごめんこうむ)ろうかと思った」

「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、歩行(ある)いたつもりだ」

「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」

「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」

「また華族と金持ちか。眼の敵(かたき)だね」

「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」

「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」

「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」

 碌さんは湯の中で首を捩(ね)じ向ける。

「かぼちゃさ」

「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を這(は)ってるものだ。あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」

「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」

「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」

「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」

「そりゃ唄(うた)かい」

「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」

「屋根にかぼちゃが生(な)るようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」

「また慷慨(こうがい)か、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇(あそ)へ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」

「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石(たくあんいし)のような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮(さか)んに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」

「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行(ある)いちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。

「ともかくも六時に起きて……」

「六時に起きる?」

「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社(あそじんじゃ)へ参詣(さんけい)して、十二時から登るのだ」

「へえ、誰が」

「僕と君がさ」

「何だか君一人(ひと)りで登るようだぜ」

「なに構わない」

「ありがたい仕合せだ。まるで御供(おとも)のようだね」

「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩(うどん)にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯(ひるめし)の相談をする。

「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸(すぎばし)を食うようで腹が突張(つっぱ)ってたまらない」

「では蕎麦(そば)か」

「蕎麦も御免だ。僕は麺類(めんるい)じゃ、とても凌(しの)げない男だから」

「じゃ何を食うつもりだい」

「何でも御馳走(ごちそう)が食いたい」

「阿蘇(あそ)の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」

「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」

「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」

「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平(ひら)に不賛成だ。こう見えても僕は身分が好(い)いんだからね」

「だから柔弱(にゅうじゃく)でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」

「痩(や)せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。

「そんなに痩せもしなかったがただ虱(しらみ)が湧(わ)いたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」

「僕はないよ。身分が違わあ」

「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟(か)り尽せるもんじゃないぜ」

「煮え湯で洗濯(せんたく)したらよかろう」

「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」

「なあるほど、銭(ぜに)が一文(もん)もないんだね」

「一文もないのさ」

「君どうした」

「仕方がないから、襯衣(シャツ)を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩(たた)いた。そうしたら虱(しらみ)が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」

「おやおや」

「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」

「さぞ困ったろうね」

「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多(めった)に困っちゃ仕方がない」

「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚(あぶらげ)、がんもどきと怒鳴(どな)って、あるかなくっちゃならないかね」

「華族でもない癖に」

「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」

「あってもそのくらいじゃ駄目だ」

「このくらいじゃ豆腐(とうふ)いと云う資格はないのかな。大(おおい)に僕の財産を見縊(みくび)ったね」

「時に君、背中(せなか)を流してくれないか」

「僕のも流すのかい」

「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」

「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」

「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を湯壺(ゆつぼ)の中にうんと踏ん張って、ぎゅうと手拭(てぬぐい)をしごいたと思ったら、両端(りょうはじ)を握ったまま、ぴしゃりと、音を立てて斜(はす)に膏切(あぶらぎ)った背中へあてがった。やがて二の腕へ力瘤(ちからこぶ)が急に出来上がると、水を含んだ手拭は、岡のように肉づいた背中をぎちぎち磨(こす)り始める。

 手拭の運動につれて、圭さんの太い眉(まゆ)がくしゃりと寄って来る。鼻の穴が三角形に膨脹(ぼうちょう)して、小鼻が勃(ぼっ)として左右に展開する。口は腹を切る時のように堅く喰締(くいしば)ったまま、両耳の方まで割(さ)けてくる。

「まるで仁王(におう)のようだね。仁王の行水(ぎょうずい)だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」

 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦(こす)る。擦っては時々、手拭を温泉(ゆ)に漬(つ)けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗(あせ)と膏(あぶら)と垢(あか)と温泉(ゆ)の交(まじ)ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。

「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽(ゆぶね)を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極(きょく)、流しへ突っ立ったまま、茫然(ぼうぜん)として、仁王の行水を眺めている。

「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽(ふね)のなかから質問する。

「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」

「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端(いったん)を放すや否や、ざぶんと温泉(ゆ)の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽(まんそう)の湯は一度に面喰(めんくら)って、槽の底から大恐惶(だいきょうこう)を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢(あふ)れだす。

「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。

「なるほどそう遠慮なしに振舞(ふるま)ったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」

「あの隣りの客は竹刀(しない)と小手(こて)の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気(のんき)なものだ。

「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」

「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳(わけ)が分らない」

「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似(まね)をする。

「ハハハハそこでそら竹刀(しない)を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。

「なにあれでも、実は慷慨家(こうがいか)かも知れない。そらよく草双紙(くさぞうし)にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本毛剃九右衛門(けぞりくえもん)て」

「海賊らしくもないぜ。さっき温泉(ゆ)に這入(はい)りに来る時、覗(のぞ)いて見たら、二人共木枕(きまくら)をして、ぐうぐう寝ていたよ」

「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。

「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ載(の)せたまんま寝ていたよ」

「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。

「何だろう、あの本は」

「伊賀(いが)の水月(すいげつ)さ」と碌さんは、躊躇(ちゅうちょ)なく答えた。

「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」

「伊賀の水月を知らないのかい」

「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を捻(ひね)った。

「恥じゃないが話せないよ」

「話せない? なぜ」

「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」

「うん、又右衛門か」

「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入(はい)る。圭さんはまた槽(ふね)のなかへ突立(つった)った。

「もう仁王の行水は御免だよ」

「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上(のぼせ)るから、時々こう立つのさ」

「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」

「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。

「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも何(なんに)も知らないね」

「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」

「何だい」

「相撲取(すもうとり)だ」

「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦(だいきょうえつ)である。

「そんなにおかしいか」

「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」

「そんなに有名な男か」

「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」

「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」

「そら、落ち行く先きは九州相良(さがら)って云うじゃないか」

「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」

「困った男だな」

「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、毫(ごう)も僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山路(やまみち)が苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」

「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい叶(かな)いっこない。そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」

「君は第一平生から惰弱(だじゃく)でいけない。ちっとも意志がない」

「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩(うどん)に逢(あ)った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」

「ハハハハつまらん事を云っていらあ」

「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」

「こんなに黒くってもかい」

「黒い白いは別として、豆腐屋は大概箚青(ほりもの)があるじゃないか」

「なぜ」

「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」

「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんな愚(ぐ)な真似をするものか。華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」

「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」

「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」

「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易(へきえき)するよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々(いいだくだく)として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」

「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」

「僕がかい」

「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」

「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」

「なあに構わんさ」

「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半(せっぱん)されるんだから、愚(ぐ)の極(きょく)だ」

「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇(あそ)の噴火口を見る事ができるだろう」

「可愛想(かわいそう)に。一人(ひとり)だって阿蘇ぐらい登れるよ」

「しかし華族や金持なんて存外意気地(いくじ)がないもんで……」

「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」

「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟(りくつ)がわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」

「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」

「その内、してやろうと思ってるのさ」

「思ってるだけじゃ剣呑(けんのん)なものだ」

「なあに年(ねん)が年中(ねんじゅう)思っていりゃ、どうにかなるもんだ」

「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉(コレラ)になるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」

「時にあの髯(ひげ)を抜いてた爺さんが手拭(てぬぐい)をさげてやって来たぜ」

「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」

「僕はもう湯気(ゆけ)に上がりそうだから、出るよ」

「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入(はい)っていたまえ」

「おや、あとから竹刀(しない)と小手(こて)がいっしょに来たぜ」

「どれ。なるほど、揃(そろ)って来た。あとから、まだ来るぜ。やあ婆さんが来た。婆さんも、この湯槽(ゆぶね)へ這入るのかな」

「僕はともかくも出るよ」

「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」

 風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌(すはだ)を臍(へそ)のあたりまで吹き抜けた。出臍(でべそ)の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥(くしゃみ)を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉(はくふよう)が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向(むこう)では阿蘇(あそ)の山がごううごううと遠くながら鳴っている。

「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。

「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。

        三

目次に戻る

目次