湯島詣

22話 湯帰り 二十二

1,257字 約3分 2018年11月4日 公開

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 さるほどに神月梓は、暗夜、町中(まちなか)(ひとも)した洋燈(ランプ)を持って、荷車の前に立たせられて、天神下をかしこここ、角の酒屋では伺います、莨屋(たばこや)の店でも少々、米屋の窓でもちょいとものを。いずれも知らない、存じませんな、を言わるるたび、背後(うしろ)から、噛着(かみつ)くように叱言(こごと)をくッて、ほとんど(こら)え切れなくなると、雨が降出した。

 梓は(あお)くなるまでに、(はて)は気を(いら)って、額がつッぱると思うほどな癇癪筋(かんしゃくすじ)、一体大人しく、人に逆らわず、争わないだけ、いつもは殺しておく虫があるのでむらむらと、来た。それに気が小さいから、取詰めて、持ってる洋燈をこの荷車に叩きつけよう、そして粉微塵(こなみじん)に砕けたら、石油に火が移ってめらめらと燃えて無くなるであろうとまで思った。これはしかねない少年であった。

 その時、黒縮緬(くろちりめん)の一ツ紋。お(めし)平生着(ふだんぎ)に桃色の(まき)つけ帯、衣紋(えもん)ゆるやかにぞろりとして、中ぐりの駒下駄、高いので(せい)もすらりと見え、洗髪(あらいがみ)で、濡手拭(ぬれてぬぐい)紅絹(もみ)糠袋(ぬかぶくろ)を口に(くわ)えて、(びん)の毛を掻上(かきあ)げながら、滝の湯とある、女の戸を、からりと出たのは、蝶吉で、仲之町からどこにか住替えようとして、しばらくこの近所にある知己(ちかづき)口入宿(くちいれやど)に遊んでいた。年紀(とし)十七の夏のはじめ、春の名残(なごり)に降ろうとする大雨の前で、戸外(おもて)真暗(まっくら)出会頭(であいがしら)蝙蝠(こうもり)が一羽ひらひらと地を()くう飛んだと見た、早や戸を閉めた縄暖簾(なわのれん)()れて二筋三筋戸外(おもて)にさす灯の色も沈んだ米屋を背後(うしろ)に、此方(こなた)を向いて悄然(しょんぼり)洋燈を手にして(たたず)んでる一個白面の少年を見たのである。梓その時はその美しい眉も逆釣(さかづ)ッていたであろう。まさに洋燈を取って車の台に(なげうた)むとする、(めじり)(さが)ったのは(まむし)より(きらい)な江戸ッ()肌。人見知(ひとみしり)をせず、年は若し、かけかまいのない女であるから、癇癪が高ぶって血も(さかのぼ)らんとする、若い品の()いのを見て嬉しくッて(たま)らず、様子を悟って声を懸けた。

(ちょいとどこへいらっしゃるの、)

 一幅(ひとはば)の赤い(ともし)が、暗夜を(かく)して(ひらめ)くなかに、がらくたの(うずたか)い荷車と、曳子(ひきこ)の黒い姿を従えて立っていたのが、洋燈を持ったまま前へ出て、

(うち)を探してるんです。)と内心に激したれば声も鋭く答えたのである。

 蝶吉は莞爾々々(にこにこ)しながら、愛想よく仔細(しさい)を尋ねて、

(そう、今日お引越(ひっこし)なすったの、何でしょう、兵児帯(へこおび)をして、前垂(まえだれ)を懸けた、(ふと)った旦那と、襟のかかった素袷(すあわせ)で、器量の()いかみさんとが居る内でしょう。そうなの、それじゃあついそこなんだわ。)といって、濡手拭で(ゆびさし)をしてくれた。蝶吉はその長屋の表通(おもてどおり)の口入宿に居たのであった。

 この口入宿の隣家(となり)は、小さな塩煎餅屋(しおせんべいや)で、合角(あいかど)花簪(はなかんざし)を内職にする表長屋との間に露地がある。そこを入ると突当(つきあたり)が黒板塀。ついて右へ廻ると(いき)な格子戸の内に御神燈を(つる)したのがあるが、あらず、左へ向うと、いきなり縁側になって、奥の石垣が見透(みとお)される板屋根の小家(こいえ)がある、そこが引越先であった。

 この一廓は、柳にかくれ、松が()に隔てられ、大屋根の陰になり、建連(たてつらな)る二階家に遮られて、男坂の上からも見えず、矢場が取払われて後、鉄欄干から瞰下(みおろ)しても、直ぐ目の下であるのに、一棟の屋根も見えない、天神下のかくれ里。

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