22話 湯帰り 二十二
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さるほどに神月梓は、暗夜、町中に灯した洋燈を持って、荷車の前に立たせられて、天神下をかしこここ、角の酒屋では伺います、莨屋の店でも少々、米屋の窓でもちょいとものを。いずれも知らない、存じませんな、を言わるるたび、背後から、噛着くように叱言をくッて、ほとんど耐え切れなくなると、雨が降出した。
梓は蒼くなるまでに、果は気を苛って、額がつッぱると思うほどな癇癪筋、一体大人しく、人に逆らわず、争わないだけ、いつもは殺しておく虫があるのでむらむらと、来た。それに気が小さいから、取詰めて、持ってる洋燈をこの荷車に叩きつけよう、そして粉微塵に砕けたら、石油に火が移ってめらめらと燃えて無くなるであろうとまで思った。これはしかねない少年であった。
その時、黒縮緬の一ツ紋。お召の平生着に桃色の巻つけ帯、衣紋ゆるやかにぞろりとして、中ぐりの駒下駄、高いので丈もすらりと見え、洗髪で、濡手拭、紅絹の糠袋を口に銜えて、鬢の毛を掻上げながら、滝の湯とある、女の戸を、からりと出たのは、蝶吉で、仲之町からどこにか住替えようとして、しばらくこの近所にある知己の口入宿に遊んでいた。年紀十七の夏のはじめ、春の名残に降ろうとする大雨の前で、戸外は真暗な出会頭。蝙蝠が一羽ひらひらと地を低くう飛んだと見た、早や戸を閉めた縄暖簾を洩れて二筋三筋戸外にさす灯の色も沈んだ米屋を背後に、此方を向いて悄然洋燈を手にして彳んでる一個白面の少年を見たのである。梓その時はその美しい眉も逆釣ッていたであろう。まさに洋燈を取って車の台に抛むとする、眦の下ったのは蝮より嫌な江戸ッ児肌。人見知をせず、年は若し、かけかまいのない女であるから、癇癪が高ぶって血も逆らんとする、若い品の良いのを見て嬉しくッて耐らず、様子を悟って声を懸けた。
(ちょいとどこへいらっしゃるの、)
一幅の赤い灯が、暗夜を劃して閃くなかに、がらくたの堆い荷車と、曳子の黒い姿を従えて立っていたのが、洋燈を持ったまま前へ出て、
(家を探してるんです。)と内心に激したれば声も鋭く答えたのである。
蝶吉は莞爾々々しながら、愛想よく仔細を尋ねて、
(そう、今日お引越なすったの、何でしょう、兵児帯をして、前垂を懸けた、肥った旦那と、襟のかかった素袷で、器量の可いかみさんとが居る内でしょう。そうなの、それじゃあついそこなんだわ。)といって、濡手拭で指をしてくれた。蝶吉はその長屋の表通の口入宿に居たのであった。
この口入宿の隣家は、小さな塩煎餅屋で、合角の花簪を内職にする表長屋との間に露地がある。そこを入ると突当が黒板塀。ついて右へ廻ると粋な格子戸の内に御神燈を釣したのがあるが、あらず、左へ向うと、いきなり縁側になって、奥の石垣が見透される板屋根の小家がある、そこが引越先であった。
この一廓は、柳にかくれ、松が枝に隔てられ、大屋根の陰になり、建連る二階家に遮られて、男坂の上からも見えず、矢場が取払われて後、鉄欄干から瞰下しても、直ぐ目の下であるのに、一棟の屋根も見えない、天神下のかくれ里。