33話 狂犬源兵衛 三十三
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「よ、どうしてそれが見棄てられるものか、まだその上に蝶吉は子供の時から、怨と、僻と憤とをもって見た世に対して、謂わば復讎的に己が腕で幾多遊冶郎を活殺して、その肉を啖い、その血を嘗むることをもって、精魂の痛苦を癒そうとしたが、あたかも母の死に逢って志を果さず、まだ一たびも男に向って、誑すの嬲るのというはもとより、お世辞一ツ言わずにいた身をもって、これを梓に献じたのである。譬えば、その家は壊たれ、その樹は伐られ、その海は干され、その山は崩され、その民は屠られ、その女は姦せられた亡国の公主にして、復讎の企図を懐いて、薪胆の苦を嘗め尽したのが、張も忘れ、意気地も棄ててかえって我に哀を請い、一片の同情を求むるのである。天下またかくのごとく憐むべく悼むべきものはあるまい。何としてそれが見棄てられよう。蝶吉は残少になった年期に借り足して、母親を見送ってからは、世に便なく、心細さの余、ちと棄身になって、日頃から少しは飲けた口のますます酒量を増して、ある時も青楼の座敷で酔った帰りに、夜更けて京町の夜露の上に寝倒れた。月が射して、その肉は蒼く、その骨は白く見ゆるまで、冷えて霜を浴びたようになったのを、往来の仕事師が見附けて、大坂屋へ抱え込むと、気が付いたが、急に胸前へ差込が来てから、持病になって、三日置ぐらいには苦悶える、最後にはあまり苦痛が烈しいので、くいしばっても悲鳴が洩れて、畳を掻むしって転げ廻るのを、可煩いと、抱主が手足を縛って、口に手拭を捻込んだ上、気つけだと言って、足袋を脱がせて、足の拇指の間へ続け様に灸を据えた。妙齢になってから、火ぶくれの痕は、今も鮮明に残ってると、蝶吉は口惜しそうに、母親に甘えるごとく、肩を振って、浴衣に搦んで足を揃えて、小い爪尖を見せながら、目に涙を浮べたその目で、待合の襖の紙が蟹のような形に破れているのを見付けると延した足の拇指を曲げて、件の破目を、
(繕ったら可さそうなものね、何だい、何だい、)と叱るようにいって抉るのを、
(馬鹿な、)と叱りつける梓の顔、鼻を詰らせながら、涙の目で、蝶吉は嬉しそうに瞶めていた。それをも梓は忘れはせぬ。そんな他愛のない、取留のない、しかも便りのない孤に、ただ一筋に便らるる、梓はどうして棄てられよう。
蝶吉はかの時無慙なる介抱をした抱主の処置に平なることあたわず、圧え切れない虫は突走って、さてこそ天神下の口入宿へ来たのであった。柳橋か、葭町かと行先を選んでいる中に、内々勧めるものがあった。これは天下の秘密だけれども、髪結が一人、お針が二人、料理人が一人、医師が一人、女を十二人選んで、世話役が三人これを頭取が率いてパリイとかシカゴとかいう処の、博覧会へ日本の女を見せに行く。場所も薔薇の花の盛な中へ取って、朱塗の埒も結ってある、日給は一日三円、十月の約束でどうだという。どの道東京で死んだ処で、誰一人そうかとも言ってくれない体だからと、既に観世物になる処、湯屋の前でふっと見た梓に未練が残ったので、ようよう獣に楽まれるだけ助かったのである。その話をする時も、蝶吉は坐ったまま、大手を振って、
(こうやって威張って見せてやろうと思ったのよ。)
梓は余りのことに吹出して、
(シャモの牝はこれでございと言やあしないか、)
(まずね、)と莞爾した暢気さ加減、浅はかさも程があった。
「僕が附いていない日には、お蝶、お前どんな目に逢おうも知れぬ、」と梓は息を吐きもあえず、
「それさえ見棄てて、別れなければならないような、児を堕すなどという、飛んだことをしてくれた。」と蝶吉の項を抱いて口移しに噛んで含めるように、自分の赤心を語るため、今まで久しい間、時に触れ、折に当って、動かされた、至憐至愛の情の切なるを、ここに打明けて語ったのである。
蝶吉は聞くこと半ばにして、色を変えて、心、その心を貫くごとに、ほとんど顔を見らるるに耐えざるごとく、摺抜けて駈出しもしかねない様子に見え、左に、右に、その面を背けたが、梓の手と、声と、語と、真心は、ますます力が籠ったから、身も世もあらず、動きもならずいうこと、ここに到る頃いの、果は、悄然と頭を低れて、腕に落した前髪がひやりとしたので、手折った女郎花の儚い露を、憂き世の風が心なく、吹散すかと、胸に応える。