湯島詣

33話 狂犬源兵衛 三十三

1,756字 約4分 2018年11月4日 公開

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「よ、どうしてそれが見棄てられるものか、まだその上に蝶吉は子供の時から、(うらみ)と、(ひがみ)(いきどおり)とをもって見た世に対して、()わば復讎(ふくしゅう)的に(おのれ)が腕で幾多遊冶郎(ゆうやろう)を活殺して、その()(くら)い、その血を()むることをもって、精魂の痛苦を(いや)そうとしたが、あたかも母の死に逢って志を果さず、まだ一たびも男に向って、(だま)すの(なぶ)るのというはもとより、お世辞一ツ言わずにいた身をもって、これを梓に献じたのである。(たと)えば、その家は(こぼ)たれ、その樹は()られ、その海は干され、その山は崩され、その民は(ほふ)られ、その(じょ)(かん)せられた亡国の公主にして、復讎の企図を(いだ)いて、薪胆(しんたん)の苦を嘗め尽したのが、(はり)も忘れ、意気地も棄ててかえって我に(あい)を請い、一片の同情を求むるのである。天下またかくのごとく(あわれ)むべく悼むべきものはあるまい。何としてそれが見棄てられよう。蝶吉は(のこり)(すくな)になった年期に借り足して、母親を見送ってからは、世に便(たより)なく、心細さの(あまり)、ちと棄身(すてみ)になって、日頃から少しは()けた口のますます酒量を増して、ある時も青楼(ちゃや)の座敷で酔った帰りに、夜更けて京町の夜露の上に寝倒れた。月が()して、その肉は(あお)く、その骨は白く見ゆるまで、冷えて霜を浴びたようになったのを、往来(ゆきき)の仕事師が見附けて、大坂屋へ抱え込むと、気が付いたが、急に胸前(むなさき)差込(さしこみ)が来てから、持病になって、三日置ぐらいには苦悶(くるしみもだ)える、最後にはあまり苦痛が(はげ)しいので、くいしばっても悲鳴が()れて、畳を(かい)むしって転げ廻るのを、可煩(うるさ)いと、抱主(かかえぬし)が手足を縛って、口に手拭(てぬぐい)捻込(ねじこ)んだ上、気つけだと言って、足袋を脱がせて、足の拇指(おやゆび)の間へ続け様に灸を据えた。妙齢(としごろ)になってから、火ぶくれの(あと)は、今も鮮明(あざやか)に残ってると、蝶吉は口惜しそうに、母親に甘えるごとく、肩を振って、浴衣に(から)んで足を揃えて、(ちいさ)爪尖(つまさき)を見せながら、目に涙を(うか)べたその目で、待合の(ふすま)の紙が(かに)のような形に破れているのを見付けると(のば)した足の拇指を曲げて、(くだん)破目(やぶれめ)を、

(繕ったら()さそうなものね、何だい、何だい、)と叱るようにいって(えぐ)るのを、

(馬鹿な、)と叱りつける梓の顔、鼻を(つま)らせながら、涙の目で、蝶吉は嬉しそうに(みつ)めていた。それをも梓は忘れはせぬ。そんな他愛のない、取留(とりとめ)のない、しかも便(たよ)りのない(みなしご)に、ただ一筋に便らるる、梓はどうして棄てられよう。

 蝶吉はかの時無慙(むざん)なる介抱をした抱主の処置に(たいらか)なることあたわず、(おさ)え切れない虫は突走(つッぱし)って、さてこそ天神下の口入宿へ来たのであった。柳橋か、葭町(よしちょう)かと行先を選んでいる(うち)に、内々勧めるものがあった。これは天下の秘密だけれども、髪結(かみゆい)が一人、お針が二人、料理人が一人、医師が一人、女を十二人選んで、世話役が三人これを頭取が率いてパリイとかシカゴとかいう処の、博覧会へ日本の女を見せに()く。場所も薔薇(ばら)の花の(さかん)な中へ取って、朱塗(しゅぬり)(らち)も結ってある、日給は一日三円、十月(とつき)の約束でどうだという。どの道東京で死んだ処で、誰一人そうかとも言ってくれない体だからと、既に観世物(みせもの)になる処、湯屋の前でふっと見た梓に未練が残ったので、ようよう(けだもの)(たのし)まれるだけ助かったのである。その話をする時も、蝶吉は坐ったまま、大手を振って、

(こうやって威張って見せてやろうと思ったのよ。)

 梓は余りのことに吹出して、

(シャモの(めす)はこれでございと言やあしないか、)

(まずね、)と莞爾(にっこり)した暢気(のんき)さ加減、浅はかさも程があった。

「僕が附いていない日には、お蝶、お前どんな目に逢おうも知れぬ、」と梓は息を()きもあえず、

「それさえ見棄てて、別れなければならないような、()(おろ)すなどという、飛んだことをしてくれた。」と蝶吉の(うなじ)を抱いて口移しに()んで含めるように、自分の赤心(まごころ)を語るため、今まで久しい間、時に触れ、折に当って、動かされた、至憐至愛の情の切なるを、ここに打明けて語ったのである。

 蝶吉は聞くこと半ばにして、色を変えて、心、その心を貫くごとに、ほとんど顔を見らるるに耐えざるごとく、摺抜(すりぬ)けて駈出(かけだ)しもしかねない様子に見え、左に、右に、その(おもて)を背けたが、梓の手と、声と、(ことば)と、真心は、ますます力が(こも)ったから、身も世もあらず、動きもならずいうこと、ここに到る(ころお)いの、(はて)は、悄然(しょうぜん)(かしら)()れて、(かいな)に落した前髪がひやりとしたので、手折(たお)った女郎花(おみなえし)(はかな)い露を、憂き世の風が心なく、吹散(ふきちら)すかと、胸に(こた)える。

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