35話 狂犬源兵衛 三十五
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「悪いことはいわないから、その綿の入らないものを威張って着るのと、いつもいうことだけれど、これから暑くなって、氷の打欠をお飯にかけて食べるのと、それから無理酒を飲むのは止せ、よ、気を付けなけりゃ、お前今年は大厄だ。」
としめやかに言ったがふと心付いて、手を弛めた、
「酔醒か。寒くはないか。」
「いいえ、」と内端に小さな声で、ものを考えるがごとく蝶吉はいった。
「そうか、また冷えると悪いぜ。」
「ええ。」と仇気なく秘さず、打明けて縋り着くような返事をする。梓はこの声を聞くと一入思入って、あわれにいとおしくなるのが例で。
「体はもうすっかり良いのかい、」
「ええ、」
「お前は駄々ッ子で、鼻ッ端が強くって、威勢よく暴れるけれど、その実大の弱虫なんだから心配だよ、この頃は内で姐さんと喧嘩はしないか。」
「ふふ、」と泣出しそうにしながら、蝶吉は無理に片頬で微笑む。
「やっぱり母様の夢ばかり見てるのか。」
「ええ、」ともいわず蝶吉は面を背けると、御所車の簾の青い裏に、燃立つような緋縮緬を、手に搦んで、引出して、目を拭って、
「何にも言わないで下さいな、胸が一杯になって来てよ、可笑しいねえ、」といって袖口を除けたが、ぱっちりと目を《みひら》いて、梓を見まいとするかのごとく、あらぬ方を瞶めたけれども、
「おやおや、可けないねえ。」
また俯向いて目を塞いで、
「貴方、手を放して下さいな、」
声も消入るようであった。
梓はともかくも蝶吉の心の落着いているのが知れて、いうままに手を放したが、ほとんど失心しているような女の体は、そのまま背後へ倒れるだろうと思った。
蝶吉は、かえって、ちゃんとして、膝に両手を組みながら、恍惚して梓の顔を見ていたが、細い声で、
「あなた、」
「どうしたの、」
「後生だから顔を見ないで下さいな。」
梓は思わず面を背けた、火鉢の火は消えかかって籠洋燈の光も暗い、と見ると痩せた薄と、悄れた女郎花と、桔梗とが咲乱れて、黒雲空に、月は傾いて照らさんとも見えず、あわれに描いた秋草の二枚折の屏風が立っているのが、薄暗い灯で、幻のようで、もの寂しい。
「私泣くんだから、あっちを向いても可くッて?」
梓は頭から寒くなったが、俯向いて頷くと、蝶吉は向むきになって屏風に影が映った、その胸をしっかり抱いた。
着物の振が両方から、はらりと迫って、身も痩せた。細々とした指の尖が、肩から見えて、潰し島田の乱れかかったのを、ふらふらとさして熟としていたが、折れたように身を倒す、姿はしぼんだごとくになり、声を殺してわっと泣いた。梓も耐らず、背向になった。二人の茫然した薄い姿は、件の秋草の中へ入って、風もないのに動いたと見ると、一人は畳へ、一人は壁へ、座敷の影が別れたのである。