湯島詣

35話 狂犬源兵衛 三十五

1,127字 約2分 2018年11月4日 公開

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「悪いことはいわないから、その綿の入らないものを威張って着るのと、いつもいうことだけれど、これから暑くなって、氷の打欠(ぶっかき)をお(まんま)にかけて食べるのと、それから無理酒を飲むのは()せ、よ、気を付けなけりゃ、お前今年は大厄だ。」

 としめやかに言ったがふと心付いて、手を(ゆる)めた、

酔醒(えいざめ)か。寒くはないか。」

「いいえ、」と内端(うちわ)に小さな声で、ものを考えるがごとく蝶吉はいった。

「そうか、また冷えると悪いぜ。」

「ええ。」と仇気(あどけ)なく(かく)さず、打明けて(すが)り着くような返事をする。梓はこの声を聞くと一入(ひとしお)思入って、あわれにいとおしくなるのが例で。

「体はもうすっかり()いのかい、」

「ええ、」

「お前は駄々ッ子で、鼻ッ端が強くって、威勢よく(あば)れるけれど、その実大の弱虫なんだから心配だよ、この頃は内で(ねえ)さんと喧嘩(けんか)はしないか。」

「ふふ、」と泣出しそうにしながら、蝶吉は無理に片頬で微笑(ほほえ)む。

「やっぱり母様(おっかさん)の夢ばかり見てるのか。」

「ええ、」ともいわず蝶吉は(おもて)を背けると、御所車の(すだれ)の青い裏に、燃立つような緋縮緬(ひぢりめん)を、手に(から)んで、引出して、目を(ぬぐ)って、

「何にも言わないで下さいな、胸が一杯になって来てよ、可笑(おか)しいねえ、」といって袖口を()けたが、ぱっちりと目を《みひら》いて、梓を見まいとするかのごとく、あらぬ(かた)(みつ)めたけれども、

「おやおや、()けないねえ。」

 また俯向(うつむ)いて目を(ふさ)いで、

貴方(あなた)、手を放して下さいな、」

 声も消入るようであった。

 梓はともかくも蝶吉の心の落着いているのが知れて、いうままに手を放したが、ほとんど失心しているような女の体は、そのまま背後(うしろ)へ倒れるだろうと思った。

 蝶吉は、かえって、ちゃんとして、膝に両手を組みながら、恍惚(うっとり)して梓の顔を見ていたが、細い声で、

「あなた、」

「どうしたの、」

「後生だから顔を見ないで下さいな。」

 梓は思わず(おもて)を背けた、火鉢の火は消えかかって籠洋燈(かごランプ)の光も暗い、と見ると()せた(すすき)と、(しお)れた女郎花(おみなえし)と、桔梗(ききょう)とが咲乱れて、黒雲空に、月は傾いて照らさんとも見えず、あわれに描いた秋草の二枚折の屏風(びょうぶ)が立っているのが、薄暗い(あかり)で、幻のようで、もの寂しい。

(わたい)泣くんだから、あっちを向いても()くッて?」

 梓は(つむり)から寒くなったが、俯向いて(うなず)くと、蝶吉は(むこう)むきになって屏風に影が映った、その胸をしっかり抱いた。

 着物の(ふり)が両方から、はらりと迫って、身も痩せた。細々とした指の(さき)が、肩から見えて、(つぶ)し島田の乱れかかったのを、ふらふらとさして(じっ)としていたが、折れたように身を倒す、姿はしぼんだごとくになり、声を殺してわっと泣いた。梓も(たま)らず、背向(そがい)になった。二人の茫然(ぼんやり)した薄い姿は、(くだん)の秋草の中へ入って、風もないのに動いたと見ると、一人は畳へ、一人は壁へ、座敷の影が別れたのである。

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