51話 星 五十一
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しかり、==色狂気の亭主==これを警官の口から聞くに至って梓は絶望したのである。
されば冥土を辿るような思いで、弥生町を過ぎて根津まで行くと、夜更で人立はなかったが、交番の中に、蝶吉は、腕を背へ捻られたまま、水を張った手桶にその横顔を押着けられて、ひいひい泣いていた。
帯を解いて下じめと共に卓子の上に綰ねてあった。この時まで嗜んで持っていたか、懐中鏡やら鼈甲に透彫の金蒔絵の挿櫛やら、辺に散ばった懐紙の中には、見覚のある繿縷錦の紙入も、落交って狼藉極まる、蝶吉はあたかも手籠にされたもののごとく、三人懸りで身動きもさせない様子で、一人は柄杓を取って天窓から水を浴びせておった。黒髪も海松となり、胸も裾も取乱して乳も露になって震えている。
梓は歯切をして、衝と寄って、その行為を詰ったが、これに答えた警官の語は、極めて明瞭に、且つ極めて正当なものであった。
狂人力で手に合わず、取静めようとして引留めれば、主のある身体だ、指を指すなと、あばれ廻って、簪を抜いて突こうとする。突かれて手の甲に傷けられたものも一名ある、ようよう掴まえてからも危険だから、腕は捻じ上げておかねばならぬ。且つその住所、姓名、身分の手懸を知るために、懐中物も検べねばならず、或はいかなる迫害を途上受けたかも計られないから、身内を検するには、着物も脱がさなければならぬ、もちろん帯も解かんけりゃ不可い。逆上て夥多しく鼻血を出すから、手当をして、今冷している処だといった。学士がここに来た時には、既にその道を行く女に尾行した男というのが明かに分っていた。
交番の窓に頬杖を支いて、様子を見ている一名紋着を着た目の鋭いのがすなわちそれで、渠は学士に怨のある書生の身の果で、今は府下のある小新聞に探訪員たる紳士であった。
「やあ、神月。」
これにも答えず、もとより警官には返すべき言もなく、学士は見る目も可憐さに死んだもののようになっている蝶吉を横ざまに膝に抱上げた。
「神月だ。」
思わず骨も砕くるばかり、しっかと縋って離れぬのを、賺かして、帯をしめさせて、胸を掻合せてやって、落散った駒下駄を穿かせて、手を引いて交番を出ようとする時、
「そら忘物だ、」といって投出して呉れたのは、年紀二十の自分の写真、大学の制服で、折革鞄を脇挟んだのを受取って、角燈の灯の達かぬ、暗がりの中に消えてしまった。が、深更の大路に車の轆る音が起って、都の一端をりんりんとして馳せ行く響、山下を抜けて広徳寺前へかかる時、合乗の泥除にその黒髪を敷くばかり、蝶吉は身を横に、顔を仰けにした上へ、梓は頬を重ねていた。その時は二人抱合っていたが、死骸は大川で別々。
男は顔を両手で隠して固く放さず、女は両手を下〆で鳩尾に巻きしめていた。
この死骸を葬る時、疾風一陣土砂を捲いて、天暗く、都の半面が暗くなって、矢のごとき驟雨が注いだ。柩は白日暗中を通ったが、寺に着く頃いには、拭うがごとき蒼空となった。
墓は、神月梓、松山峰子、と二ツならべて谷中の瑞林寺にある。
弔うものは、梓が生前の三個の信友と、いま一人、忍々に音信るる玉司子爵夫人竜子であるが、姫は一夜、墓前において、ゆくりなく三人の学士にあった時、哀を請うもののごとく、その自分がここに詣ずることは、固く秘密を守って世にあらわれぬよう、名にかけて誓われたいといって跪いたのである。哲学者は直ちに霊前に合掌してこれを誓い、柳沢は卵塔の背後に粛然として頷いたが、一人竜田は、柳沢の胸にその紅顔を押当てて落涙しつつ頭を掉った。星はその時煌いたであろう。いかに、紫か、緑か、燦然として。
明治三十二(一八九九)年十一月