湯島詣

51話 星 五十一

1,499字 約3分 2018年11月4日 公開

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 しかり、==色狂気の亭主==これを警官の口から聞くに至って梓は絶望したのである。

 されば冥土(よみじ)辿(たど)るような思いで、弥生町(やよいちょう)を過ぎて根津まで()くと、夜更(よふけ)人立(ひとだち)はなかったが、交番の中に、蝶吉は、(かいな)(そびら)(ねじ)られたまま、水を張った手桶(ておけ)にその横顔を押着けられて、ひいひい泣いていた。

 帯を解いて下じめと共に卓子(テイブル)の上に(わが)ねてあった。この時まで(たしな)んで持っていたか、懐中鏡やら鼈甲(べっこう)透彫(すかしぼり)の金蒔絵(まきえ)挿櫛(さしぐし)やら、(あたり)(ちら)ばった懐紙の中には、見覚(みおぼえ)のある繿縷錦(つづれにしき)の紙入も、落交(おちまじ)って狼藉(ろうぜき)極まる、蝶吉はあたかも手籠(てごめ)にされたもののごとく、三人(がか)りで身動きもさせない様子で、一(にん)柄杓(ひしゃく)を取って天窓(あたま)から水を浴びせておった。黒髪も海松(みる)となり、胸も(すそ)も取乱して乳も(あらわ)になって震えている。

 梓は歯切(はがみ)をして、()と寄って、その行為(おこない)(なじ)ったが、これに答えた警官の(ことば)は、極めて明瞭に、且つ極めて正当なものであった。

 狂人力(きちがいぢから)で手に合わず、取静めようとして引留めれば、(ぬし)のある身体(からだ)だ、指を指すなと、あばれ廻って、(かんざし)を抜いて突こうとする。突かれて手の甲に(きずつ)けられたものも一名ある、ようよう(つか)まえてからも危険だから、腕は()じ上げておかねばならぬ。且つその住所、姓名、身分の手懸(てがかり)を知るために、懐中物も(しら)べねばならず、(あるい)はいかなる迫害を途上受けたかも計られないから、身内を検するには、着物も脱がさなければならぬ、もちろん帯も解かんけりゃ不可(いけな)い。逆上(のぼせ)夥多(おびただ)しく鼻血を出すから、手当をして、今(ひや)している処だといった。学士がここに来た時には、既にその道を()く女に尾行した男というのが明かに分っていた。

 交番の窓に頬杖を()いて、様子を見ている一名紋着(もんつき)を着た目の鋭いのがすなわちそれで、(かれ)は学士に(うらみ)のある書生の身の(はて)で、今は府下のある小新聞(こしんぶん)に探訪員たる紳士であった。

「やあ、神月。」

 これにも答えず、もとより警官には返すべき(ことば)もなく、学士は見る目も可憐(いとおし)さに死んだもののようになっている蝶吉を横ざまに膝に抱上げた。

「神月だ。」

 思わず骨も砕くるばかり、しっかと(すが)って離れぬのを、()かして、帯をしめさせて、胸を掻合(かきあわ)せてやって、落散った駒下駄を穿()かせて、手を引いて交番を出ようとする時、

「そら忘物だ、」といって投出(ほうりだ)して呉れたのは、年紀(とし)二十(はたち)の自分の写真、大学の制服で、折革鞄(おりかばん)を脇挟んだのを受取って、角燈の灯の(とど)かぬ、暗がりの中に消えてしまった。が、深更の大路に車の(きし)る音が起って、(みやこ)の一端をりんりんとして()()(ひびき)、山下を抜けて広徳寺前へかかる時、合乗(あいのり)泥除(どろよけ)にその黒髪を敷くばかり、蝶吉は身を横に、顔を(あおむ)けにした上へ、梓は頬を重ねていた。その時は二人抱合っていたが、死骸(しがい)は大川で別々(わかれわかれ)

 男は顔を両手で隠して固く放さず、女は両手を下〆(したじめ)鳩尾(みずおち)に巻きしめていた。

 この死骸を葬る時、疾風一陣土砂を()いて、天暗く、都の半面が暗くなって、矢のごとき驟雨(しゅうう)が注いだ。(ひつぎ)は白日暗中を通ったが、寺に着く(ころお)いには、(ぬぐ)うがごとき蒼空(あおぞら)となった。

 墓は、神月梓、松山峰子、と二ツならべて谷中の瑞林寺にある。

 弔うものは、梓が生前の三個の信友と、いま一(にん)忍々(しのびしのび)音信(おとず)るる玉司子爵夫人竜子であるが、姫は一夜、墓前において、ゆくりなく三人の学士にあった時、(あい)を請うもののごとく、その自分がここに(もう)ずることは、固く秘密を守って世にあらわれぬよう、名にかけて誓われたいといって(ひざまず)いたのである。哲学者は直ちに霊前に合掌してこれを誓い、柳沢は卵塔の背後(うしろ)に粛然として(うなず)いたが、一人竜田は、柳沢の胸にその紅顔を押当てて落涙しつつ(かぶり)()った。星はその時(きらめ)いたであろう。いかに、紫か、緑か、燦然(さんぜん)として。

明治三十二(一八九九)年十一月

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