黒壁

2話 上の二

1,383字 約3分 2015年8月4日 公開

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 有恁(かくて)予は憐むべき美少年の為に、咒詛(のろい)の釘を抜棄(ぬきす)てなんと試みしに、執念(しゅうね)き鉄槌の一打は到底指の力の及ぶ所にあらざりき。

 (まこと)に八才の龍女がその功力を以て成仏せしというなる、法華経の何の巻かを、(ずん)じては抜き、誦じては抜くにあらざれば、得て抜くべからざるものをや。

 誰にもあれ人無き処にて、他に見せまじき所業を為せばその事の善悪に関わらず、自から良心の咎むるものなり。

 予も何となく後顧(うしろぐら)き心地して、人もや見んと(あやぶ)みつつ今一息と踏張(ふんば)る機会に、提灯の火を揺消(ゆりけ)したり。黒白(こくびゃく)も分かぬ闇夜となりぬ。予は茫然として自失したりき。時に遠く一点の火光(あかり)を認めつ。

 (やや)有りて予はその燈影なるを(たしか)めたり。(やが)て視線の及ぶべき距離に(ちかづ)きぬ。

 予が(さき)に諸君に向いて、凄まじきものの経験を有せりと謂いしは(ここ)なり。

 予は()えらく、偶然人の秘密を見るは()し。(しか)れども秘密を行う者をして、人目を憚る(ふるまい)を、見られたりと心着かしめんは妙ならず。ために(よし)無き(うらみ)を負いて、迷惑することもありぬべしと、四辺を見廻わして、身を隠すべき所を(もと)めしに、この辺には(しばしば)見る、山腹を横に穿(うが)ちたる洞穴を見出したり。

 要こそあれと身を翻して、早くも洞中に潜むと(とも)に、(ともしび)の主は間近に来りぬ。一個の婦人なり。予は燈影を見し(はじめ)より、今夜(こよい)満願に当るべき咒詛主の、驚破(すわ)や来ると思いしなりき。

 霜威(そうい)凜冽(りんれつ)たる冬の夜に、見る目も寒く水を浴びしと(おぼ)しくて、真白の単衣(ひとえ)は濡紙を貼りたる如く、よれよれに手足に(まと)いて、全身の肉附は顕然(あらわ)に透きて見えぬ。(うるお)いたる緑の黒髪は(さっ)と乱れて、背と胸とに振分けたり。想うに、谷間を流るる一条(ひとすじ)の小川は、此処に詣ずる行者輩の身を(きよ)むる処なれば、婦人も彼処(あすこ)にこそ垢離(こり)を取れりしならめ。

 と見る間に婦人は一本杉の下に立寄りたり。

 ここに於て予がその婦人を目して誰なりとせしかは、予が言を待たずして、諸君は(とう)に推し給わむ。

 予は洞中に声を呑みて、その()んようを(うかが)いたり。渠は然りとも知らざれば、金燈籠に類したる手提の燈火を傍に差置き、足を爪立てて天を仰ぎ、腰を(かが)めて地に伏し、合掌しつ、礼拝しつ、頭を木の幹に打当つるなど、今や天地は己が独有に(かえ)せる時なるを信じて、他に我を見る一双の眼あるを知らざる者にあらざるよりは、到底裏恥(うらはず)かしく、為しがたかるべき、奇異なる挙動(ふるまい)(ほしいまま)にしたりとせよ。

 最後に婦人は口中より一本の釘を(はき)出して、これを彼二十一歳の男子と記したる紙片に推当(おしあ)て、鉄槌をもて丁々(ちょうちょう)と打ちたりけり。

 時に万籟(ばんらい)(せき)として、地に虫の這う音も無く、天は今にも(ふら)せんずる、(みぞれ)か、雪か、(あられ)か、雨かを、雲の(たもと)に蔵しつつ微音をだに語らざる、その(しずか)さに睡りたりし耳元に、「カチン」と響く鉄槌の音は、鼓膜を(つんざ)きて予が腸を貫けり。

 続きて打込む丁々は、滴々(たらたら)冷かなる汗を誘いて、予は自から支えかぬるまでに戦慄せり。

 (あまつさ)え陰々として、(もすそ)は暗く、腰より上の白き婦人が、(たけ)なる髪を振乱(ふりみだ)して(たたず)める、その姿の凄じさに、予は寧ろ幽霊の与易(くみしやす)さを感じてき。

 釘打つ音の終ると《ひとし》く、婦人はよろよろと身を退(すさ)りて、束ねしものの崩るる如く、地上に《どう》と膝を敷きぬ。

 予をして(あやま)たざらしめば、首尾好く(がん)の満ちたるより、二十日以来張詰(はりつ)めし気の一時に(ゆる)みたるにやあらん。(やや)ありて(かれ)の身を起し、(もと)来し方に(かえ)るを見るに、その来りし時に似もやらで、太く足許(あしもと)の《よろめ》きたりき。

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