2話 上の二
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有恁予は憐むべき美少年の為に、咒詛の釘を抜棄てなんと試みしに、執念き鉄槌の一打は到底指の力の及ぶ所にあらざりき。
洵に八才の龍女がその功力を以て成仏せしというなる、法華経の何の巻かを、誦じては抜き、誦じては抜くにあらざれば、得て抜くべからざるものをや。
誰にもあれ人無き処にて、他に見せまじき所業を為せばその事の善悪に関わらず、自から良心の咎むるものなり。
予も何となく後顧き心地して、人もや見んと危みつつ今一息と踏張る機会に、提灯の火を揺消したり。黒白も分かぬ闇夜となりぬ。予は茫然として自失したりき。時に遠く一点の火光を認めつ。
良有りて予はその燈影なるを確めたり。軈て視線の及ぶべき距離に近きぬ。
予が曩に諸君に向いて、凄まじきものの経験を有せりと謂いしは是なり。
予は謂えらく、偶然人の秘密を見るは可し。然れども秘密を行う者をして、人目を憚る行を、見られたりと心着かしめんは妙ならず。ために由無き怨を負いて、迷惑することもありぬべしと、四辺を見廻わして、身を隠すべき所を覓めしに、この辺には屡見る、山腹を横に穿ちたる洞穴を見出したり。
要こそあれと身を翻して、早くも洞中に潜むと与に、燈の主は間近に来りぬ。一個の婦人なり。予は燈影を見し始より、今夜満願に当るべき咒詛主の、驚破や来ると思いしなりき。
霜威の凜冽たる冬の夜に、見る目も寒く水を浴びしと覚しくて、真白の単衣は濡紙を貼りたる如く、よれよれに手足に絡いて、全身の肉附は顕然に透きて見えぬ。霑いたる緑の黒髪は颯と乱れて、背と胸とに振分けたり。想うに、谷間を流るる一条の小川は、此処に詣ずる行者輩の身を浄むる処なれば、婦人も彼処にこそ垢離を取れりしならめ。
と見る間に婦人は一本杉の下に立寄りたり。
ここに於て予がその婦人を目して誰なりとせしかは、予が言を待たずして、諸君は疾に推し給わむ。
予は洞中に声を呑みて、その為んようを窺いたり。渠は然りとも知らざれば、金燈籠に類したる手提の燈火を傍に差置き、足を爪立てて天を仰ぎ、腰を屈めて地に伏し、合掌しつ、礼拝しつ、頭を木の幹に打当つるなど、今や天地は己が独有に皈せる時なるを信じて、他に我を見る一双の眼あるを知らざる者にあらざるよりは、到底裏恥かしく、為しがたかるべき、奇異なる挙動を恣にしたりとせよ。
最後に婦人は口中より一本の釘を吐出して、これを彼二十一歳の男子と記したる紙片に推当て、鉄槌をもて丁々と打ちたりけり。
時に万籟寂として、地に虫の這う音も無く、天は今にも降せんずる、霙か、雪か、霰か、雨かを、雲の袂に蔵しつつ微音をだに語らざる、その静さに睡りたりし耳元に、「カチン」と響く鉄槌の音は、鼓膜を劈きて予が腸を貫けり。
続きて打込む丁々は、滴々冷かなる汗を誘いて、予は自から支えかぬるまでに戦慄せり。
剰え陰々として、裳は暗く、腰より上の白き婦人が、長なる髪を振乱して彳める、その姿の凄じさに、予は寧ろ幽霊の与易さを感じてき。
釘打つ音の終ると《ひとし》く、婦人はよろよろと身を退りて、束ねしものの崩るる如く、地上に《どう》と膝を敷きぬ。
予をして謬たざらしめば、首尾好く願の満ちたるより、二十日以来張詰めし気の一時に弛みたるにやあらん。良ありて渠の身を起し、旧来し方に皈るを見るに、その来りし時に似もやらで、太く足許の《よろめ》きたりき。