13話 即興詩人(13)
読み方を変える
この夕我と同じ年頃なる人々にて、中には我を知れるものも幾人か雜りたるが、アヌンチヤタが家の窓の下に往きて絃歌を催さむといふ。我は崇拜の念止み難き故をもて、膽太くもまたこの群に加りぬ。唱歌といふものをば止めてより早や年ひさしくなりたるにも拘らで。
姫が歸りてより一時間の後なりき。一群はピアツツア、コロンナに至りぬ。出窓の内よりは猶燈の光さしたり。樂器執りたる人々は窓の前に列びぬ。我心は激動せり。我聲は臆することなく人々の聲にまじりたり。歌の一節をば、われ一人にて唱へき。この時我は唯だアヌンチヤタが上をのみ思ひて、すべての世の中を忘れ果てたり。さて深く息して聲を出すに、その力、その柔さ、能くかく迄に至らんとは、みづからも初より思ひかけざる程なりき。火伴のものは覺えず微なる聲にて喝采す。その聲は微なりと雖、猶我耳に入りて、我はおのが聲の能く調へるに心付きたり。喜は我胸に滿ちたり。神は我身に舍り給へり。アヌンチヤタが出窓よりさし覗きて、身を屈し禮をなしたるときは、その禮を受くるもの殆ど我一人なる如くおもはれき。我は我聲の一群を左右する力ありて、譬へば靈魂の肢體を役するが如くなるを覺えき。事果てて後家に歸りしが、身は唯だ夢中に起ちてさまよひありく、怪しき病ある人の如くにして、その夜枕に就きての夢には始終アヌンチヤタが我歌を喜べるさまをのみ見き。
翌日姫をおとづれぬ。ベルナルドオ、昨夜の火伴の二人三人は我に先だちて座にありき。姫のいはく。きのふ絃歌の中にて「テノオレ」の聲のいと善きを聞きつといふ。我面はこの詞と共に火の如くなりぬ。それこそアントニオなれと告ぐるものあり。姫は直ちに我を引きて「ピアノ」の前に往き、倶に歌へと勸む。我は法廷に立てるが如き心地して、再三辭みたるに、人々側より促して止まず、又ベルナルドオは聲を勵まして、さては汝切角の姫の聲をさへ我等に聞せざらんとするかと責めたり。姫に手を拉かれたる我は、捕られし小鳥に殊ならず。縱ひ羽ばたきすとも、歌はでは叶はず。姫の歌はんといふは、わが知れる雙吟なり。姫は「ピアノ」に指を下して、先づ聲を擧げ、我は震ひつゝもこれに和したり。この時姫の目なざしは、我に膽々とさゝやきて、我をその妙音界に迎ふる如くなりき。わが怯は已みて、我聲は朗になりぬ。一座は喝采を吝まず、かの猶太おうなさへやさしげに頷きぬ。
このときベルナルドオは汝はいつも人の意表に出づる男ぞとつぶやきて、さて衆人に向ひ、吾友には猶かくし藝こそあれ、そは即興の詩を作ることなり、作らせて聞き給はずやといひき。喝采に醉ひたる我は、アヌンチヤタが一言の囑を待ちて、大膽にも即興の詩を歌はんとせり。この技は人と成りての後未だ試みざるものなるを。我は姫の「キタルラ」を把りぬ。姫は直に不死不滅といふ題を命ぜり。材には豐なる題なりき。しばしうち案じて、絃を撥くこと二たび三たび、やがて歌は我肺腑より流れ出でたり。詩神は蒼茫たる地中海を渡り、希臘の緑なる山谷の間にいたりぬ。雅典は荒草斷碑の中にあり。こゝに野生の無花果樹の摧け殘りたる石柱を掩へるあり。この間には鬼の欷歔するを聞く。むかしペリクレエスの世には、この石柱の負へる穹窿の下に、笑ひさゞめく希臘の民往來したりき。そは美の祭を執り行へるなり。ライス(名娼の名)の如く美しき婦人は環飾を取りて市に舞ひ、詩人は善と美との不死不滅なるを歌ひぬ。忽ちにして美人は黄土となりぬ。當時の民の目を悦ばしたる形は世の忘るゝ所となりぬ。詩神は瓦礫の中に立ちて泣くほどに、人ありて美しき石像を土中より掘り出せり。こは古の巨匠の作れるところにして、大理石の衣を着けて眠りたる女神なり。詩神はこれを見て、さきの希臘の美人の俤を認めき。あはれ古人が美をかう/″\しき迄に進めて、雪の如き石に印し、これを後昆に遺したるこそ嬉しけれ。見よや、死滅するものは浮世の權勢なり。美いかでか死滅すべき。詩神は又波を踏みて伊太利に渡り、古の帝王の住みつる城址に踞して、羅馬の市を見おろしたり。テヱエル河の黄なる水は昔ながらに流れたり。されどホラチウス・コクレスが戰ひし處には、今筏に薪と油とを積みてオスチアに輸るを見る。されどクルチウスが炎火の喉に身を投ぜし處には、今牧牛の高草の裡に眠れるを見る。アウグスツスよ。チツスよ。汝が雄大なる名字も、今は破れたる寺、壞れたる門の稱に過ぎず。羅馬の鷲、ユピテルの猛き鳥は死して巣の中にあり。あはれ羅馬よ。汝が不死不滅はいづれの處にか在る。鷲の眼は忽ち耀きて、その光は全歐羅巴を射たり。既に倒れたる帝座は、又起ちてペトルスの椅子(法皇座)となり、天下の王者は徒跣してこゝに來り、その下に羅拜せり。おほよそ手の觸るべきもの、目の視るべきもの、いづれか死滅せざらん。されどペトルスの刀いかでか《さび》を生ずべき。寺院の勢いかでか墮つる期あるべき。縱ひ有るまじきことある世とならんも、羅馬は猶その古き諸神の像と共に、その無窮なる美術と共に、世界の民に崇められん。東よりも西よりも、又天寒き北よりも、美を敬ふ人はこゝに來て、羅馬よ、汝が威力は不死不滅なりといはん。この段の畢るや、喝采の聲は座に滿ちたり。獨りアヌンチヤタは靜座して我面を見たるが、其姿はアフロヂテの像の如く、其眸には優しさこもれり。我情は猶輕き詩句となりて、唇より流れ出でたり。詩境は廣き世界より狹き舞臺に遷れり。こゝに技倆すぐれたる俳優あり。その所作、その唱歌は萬客の心を奪へり。歌ひてこゝに至りたるとき、姫は頭を低れたり。そは我上とおもへばなるべし。座中の人々も、亦我敍述する所によりて我意の在るところを認めしならん。かゝる俳優も歌歇み幕落ちて、喝采の聲絶ゆるときは、其藝術は死なん。死して美き屍となりて、聽衆の胸に《うづ》められたるのみならん。されど詩人の胸は衆人の胸に殊なり。譬へば聖母の墓の如し。こゝに《うづ》めらるゝものは、悉く化して花となり香となり、死者は再びこれより起たん。しかしてその詩は一たび死したる藝術をして、不死不滅の花となりて開かしめん。我目はアヌンチヤタが顏を見やりたり。我心は吐き盡したり。われは起ちて禮をなしたるに、人々は我を圍みて謝したり。姫は我を視て、君は深く我心を悦ばしめ給ひぬといひぬ。我は僅に唇をやさしき手に押し當てたり。
そも/\劇は虹の如きものなり。彼も此も天地の間に架したる橋梁なり。彼も此も人皆仰いで其光彩を喜ぶ。然はあれどその忽にして滅するや、彼も此も迹の尋ぬべきなし。アヌンチヤタとアヌンチヤタが技とは、其運命實にかくの如し。姫はわがこれを不朽にせんとする心を、この時能く曉り得たり。姫が我を解することの斯く深かりしことは、當時我未だ知ること能はざりしが、後に至りて明かになりぬ。
我は日ごとに姫をおとづれき。わづかに殘れる謝肉祭の日はいつしか夢の如くに過ぎ去りぬ。されどこの間われは遺憾なくこのまつりの興を受用し盡せり。そはアヌンチヤタが我に賦したる樂天主義の賜なりき。或時ベルナルドオのいふやう。汝はやうやくまことの男とならんとす。われ等に變らぬ眞の男とならんとす。されど汝はまだ唇を杯の縁にあてしに過ぎず。我は明かに知る、汝が唇の未だ曾て女子の口に觸れず、汝が頭の女子の肩に倚らざるを。今若しアヌンチヤタまことに汝を愛せばいかに。我。思ひも掛けぬ事かな。アヌンチヤタは我が僅に能く仰ぎ見るものゝ名にして、我手の屆くべきものゝ名にあらず。彼。あらず。高くもあれ低くもあれ、アヌンチヤタとは女子の名なり。汝は詩人にあらずや。詩人は測るべからざる性あるものなり。その女子の胸の片隅を占むるや、その奧に進むべき鍵は、詩人の手にあるものぞ。我。姫がやさしさ、賢しさ、姫が藝術のすぐれたるをこそ慕へ。これに戀せんなどとは、われ實に夢にだにおもひしことなし。彼。汝が眞面目なるおも持こそをかしけれ。好し/\、我は汝が言を信ぜん。汝は素より蛙なんどに等しき水陸兩住の動物なり。現の世のものか、夢の世のものか、そを誰か能く辨ぜん。汝はまことに彼君を愛せざるべし、わが愛する如く、世の人の戀するときに愛する如く愛せざるべし。されど汝が姫に對する情果して戀に非ずば、今より後彼に對して面をあかめ、火の如き目なざしゝて彼に向ふことを休めよ。そは彼君のためにあしかりなん。傍より見ん人の心のおもはれて。されど姫はあさて此地を立つといへば、最早その憂もあらざるべし。基督再生祭の後には歸るといへど、そも恃むべきにはあらず。これを聞きたるとき、我胸は躍りぬ。アヌンチヤタを見るべからざること五週に亙るべし。彼君はフイレンツエの芝居に傭はれ、斷食日の初にこゝを立つなりとぞ。ベルナルドオは語を繼ぎていはく。かしこに至らば崇拜者の新なる群は姫がめぐりに集ふべし。さらば舊きは忘れられん。譬へば汝が即興の詩の如きも、その時こそ姫のやさしき目なざしに、汝に謝する色現れつれ、かしこにては思出さるゝ暇なからん。さはあれ一個の婦人にのみ心を傾くるは癡漢の事なり。羅馬には女子多し。野に遍き花のいろ/\は人の摘み人の采るに任するにあらずや。
この夕我はベルナルドオと共に芝居に往きぬ。アヌンチヤタは再びヂドとなりて出でぬ。その歌、その振、始に讓らざりき。完備せるものゝ上には完備を添ふるに由なし。姫が技藝はまことに其域に達したるなり。こよひは姫また我理想の女子となりぬ。その本讀の曲にての役、その平生の擧動は、例へば天上の仙の暫くこの世に降りて、人間の態をなせるが如くぞおもはるる。その態も好し。されどヂドの役にては、姫が全幅の精神を見るべし。姫がまことの我を見るべし。萬客は又狂せり。想ふにこの羅馬の民のむかし該撤とチツスとを迎へけん歡も、おそらくは今宵の上に出でざるならん。曲畢りて姫は衆人に向ひて謝辭を陳べ、再びこゝに來んことを約せり。姫はこよひもあまたゝび呼出されぬ。歸途に人々の車を挽けるも亦同じ。我もベルナルドオと共に車に附き添ひて、姫がやさしき笑顏を見送りぬ。
謝肉祭の終る日