16話 即興詩人(16)
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翌日は木曜の祭日なりき。鐘の音は我を聖ピエトロの寺に誘ひぬ。嘗て外國人ありて此寺の堂奧はこゝに盡きたりとおもひぬといふ、いと廣き前廳に、人あまた群れたるさま、大路の上又天使橋の上に殊ならず。羅馬の民はけふ悉くこゝに集へるなり。されば彼外國人ならぬものも、おなじ迷を起すべう思はる。何故といふに、人愈衆くして廳は愈闊しと見ゆればなり。
歌は頭の上に起りぬ。伶人の群をば棚の二箇處に居らせて、其聲相應ずるやうにせり。群衆は洗足の禮の今始まるを見んとて押し合へり。(此日法皇老若の僧徒十三人の足を洗ひ、僧徒は法皇の手に接吻して、おの/\「マチオラ」の花束を賜り退くことなり。)偶貴婦人席より我に目禮するものあり。誰ぞと視ればアヌンチヤタなりき。彼君は歸りぬ。彼君は此堂にあり。我胸はいたく騷げり。その席幸に遠からねば、我等は詞を交すことを得たり。姫は咋日歸りしかど、樂ははや果てし後にて、僅に「アヱ、マリア」の時此寺には來ぬとなり。
姫。此寺の光景はきのふ暗くて見しかた、けふのめでたきにも増してめでたかりき。聖ピエトロの墓の前なる一燈の外には何の光もなく、その光さへ最近き柱を照すに及ばざる程なるに、人々跪きて祷れば、われも亦跪きぬ。緘默の裡に無量の深祕あるをば、その時にこそ悟り侍りしかといふ。側にありし例の猶太婦人は、長き紗もて面を覆ひたれば、今までそれと知らざりしに、優しく我に會釋しつ。式は早や終りぬれば、姫はおのれを車に導くべき從者や來ると顧みたれど、その影だに見えず。若き人々の姫を認めて耳語き合ふもあれば、姫は早くこの堂を出でんとおもへる如し。われは車に導かんことを請ひしに、猶太婦人は直ちに手を我肘に懸け、姫は我と並びて行けり。我は姫に我肘に倚らんことを勸むる膽なかりき。されど表口の戸に近づきて、人の籠み合ふこと甚しかりしとき、姫は手を我肘に懸けたり。我脈には火の循り行くを覺えき。車をば直ちに見出だしつ。わが暇を告げんとせしとき、姫今は精進の時なれば何もあらねど、夕餉參らすべければ來まさずやと案内したるに、媼は快手くおのれが座の向ひなる榻に外套、肩掛などあるを片付け、こゝに場所あり、いざ乘り給へと、我手を把りぬ。共に車に載せんといひしならぬを、媼の耳疎くしてかく聞き誤りたるなれば、姫ははしたなくや思ひけん、顏さと赧めたり。されど我は思慮する遑もあらで乘り遷り、御者も亦早く車を驅りぬ。
膳は豐なるにはあらねど、一として王侯の口に上すとも好かるべき贅澤品ならぬはなし。姫はフイレンチエにての事細かに語りて、さて精進日の羅馬はいかなりしと問ひぬ。こは我がためにはあからさまに答ふべくもあらぬ問なりき。
われ。土曜日には猶太教徒の洗禮あるべし。君も往きて觀給ふべきか。此詞は料らず我口より出でしが、われは忽ち彼媼の側にあるを思ひ出だして、氣遣はしげにかなたを見き。姫。否、心に掛け給ふな。御身の詞は聞えざりき。されど聞ゆとも惡しく聞くべうもあらず。唯だ彼人の往かんは妥ならねば、我もえ往かざるべし。そが上コンスタンチヌスの寺なる彼儀式は固より餘り愛でたからぬ事なり。(この儀式は歳ごとに基督再生祭に先だつこと一日にして行へり。猶太教徒若くは囘々教徒數人をして加特力教に歸依せしめ、洗禮を行ふなり。羅馬年中行事に「シイ、アフ、イル、バツテシイモ、ヂイ、エブレイ、エ、ツルキイ」と記せり。)僧侶は異教の人の歸依せるをもて正法の功力の所爲となし、看る人に誇れども、その異教の人のまことに心より宗旨を改むるは稀なり。われもをさなき時一たび往きて觀しことあり。その折の厭ふべき摸樣は今に至るまで忘られず。拉き來りしは六つ七つばかりの猶太人の童なりき。櫛の痕なき頭髮の蓬々たるに、寺の贈なる麗しき素絹の上衣を纏へり。靴と韈とは汚れ裂けたるまゝなり。後に跟きて來たるは同じさまに汚れたる衣着たる父母なりき。この父母はおのれ等の信ぜざる後世のために、その一人の童を賣りしなるべし。われ。君はをさなき時この羅馬にありてそを見きとのたまふか。姫。然なり。されど我は羅馬のものにはあらず。われ。我は始て君が歌を聽きしとき、直ちに君のむかし識りたる人なることを想ひき。そを何故とも言ひ難けれど、この念は今も猶失することなし。若しわれ等輪應報の教を信ぜば、われも君も前生は小鳥にて、おなじ梢に飛びかひぬともいひつべし。君にはさる記念なしや。何處にてか我を見しことありとはおぼさずや。姫は我と目を見あはせて、絶てさる事なしと答へき。われ詞を繼ぎて。初めわれ君は穉きときより西班牙に居給ひぬと思ひしに、今のおん詞にては羅馬にも居ましゝなり。我惑はいよ/\深くなりぬ。君既にをさなくして此都に居給ひきといへば、若しこゝの稚き子等と共に、「アラチエリ」の寺にて説教のまねし給ひしことあらずや。姫。あり/\。まことにさやうなる事侍りき。さてはかの折人々の目に留まりし童はアントニオ、おん身なりしか。われ。いかにも初め目に留まりしは我なりき。されど勝をば君に讓りしなり。姫はげに思ひも掛けぬ事かなと、我兩手を把りて我面を見るに、媼さへその氣色の常ならぬを訝りて、椅子をいざらせ、我等が方をうちまもりぬ。姫は珍らしき再會の顛末を媼に説き聞せつ。われ。我母もその外の人々も暫くは君が上をのみ物語りぬ。その姿のやさしさ、その聲の軟さをば、穉き我心にさへ妬ましきやうに覺えき。姫。その時君は金の控鈕附きたる短き上衣を着たまひしこと今も忘れず。その衣をめづらしと見しゆゑ、久しく記憶に殘れるなるべし。我。君は又胸の上に美しき赤き鈕を垂れ給ひぬ。されど最も我目に留まりしはそれにはあらず。君が目、君が黒髮なりき。人となり給へる今も、その俤は明に殘れり。始て君がヂドに扮し給へるを見しとき、われは直ちにこの事をベルナルドオに語りぬ。さるをベルナルドオはそを我迷ぞといひ消して、却りておのれが早く君を見きと覺ゆる由を語りぬ。姫、そは又いかにしてと問ひしが、その聲うち顫ふ如くなりき。われ。ベルナルドオが君を見きといふは、いたく變りたる境界なり。惡しくな聞き給ひそ。ベルナルドオも後に誤れることを覺りぬ。君が髮の色濃きなど、人にしか思はるゝ端となりしなるべし。君は、君はわが加特力教の民にあらず、されば「アラチエリ」の寺にて説教のまねし給ふ筈なしとの事なりき。姫は媼の方を指ざして、さては我友とおなじ教の民ぞといひしなるべしといふ。われは直にその手を取りて、わが詞のなめしきを咎め給ふなと謝したり。姫微笑みて、君が友の我を猶太少女とおもひきとて、われ爭でか心に掛くべき、君は可笑しき人かなといひぬ。この話は我等の交を一と際深くしたるやうなりき。わが日頃の憂さは悉く散じたり。さてわが再び見じとの決心は、生憎にまた悉く消え失せたり。
姫はふと基督再生祭前のこの頃閉館中なる羅馬の畫廊の事を思ひ出でゝ、かゝる時好き傳を得て往き看ば、いと面白かるべしといふに、姫の願としいへば何事をも協へんとおもふわれ、幸にボルゲエゼの館の管守、門番など皆識りたれば、そは容易き事なりとて、あくる朝姫と媼とを伴ひ往かんことを約しつ。かの館は羅馬の畫廊のうちにて最も備れる一つなり。フランチエスカの君の穉き我を伴ひ往き給ひしはかしこなれば、アルバニが畫の羽ある童は皆わが年ごろの相識なり。
靜なる我室に歸りて、つら/\物を思ふに、ベルナルドオはまことに彼君を戀ふるに非ず。卑しき色慾を知りて、高き愛情を解せざる男の心と、深けれども能く澹泊に、大いなれども能く抑遜せる我心とは、日を同じくして語るべからず。さきの日の物語の憎かりしことよ。彼はたゞ驕慢なり。彼はたゞ放縱なり。かくて飽くまで我を傷けたり。そはアヌンチヤタの我に優しきを妬みてなるべし。初め我を紹介せしは、いかにも彼男なりき。されど今その心を推すれば、好意とはおもはれず。おのが風采態度のすぐれたるを彼君に見するとき、その側に世馴れぬ我を居らせて反映せしめんためにはあらずや。さるを我歌我詩は端なく彼君の心にかなひぬ。妬の心はこれより萌せるならん。さて我を又姫に逢はせじとて、かくは我を脅しゝなるべし。幸にわれ好き機會を得て、今は姫との交いと深くなりぬ。姫は我を憐めり。加之ず姫は我戀を知りたり。かく思ひつゞけつゝ、我は枕に接吻せり。さるにても口惜しきは、わが意氣地なき性質なり。いかなれば我は先の日直ちに彼の無禮を責めざりしぞ。かの詞にはかく答ふべかりしなり。かの辱をばかく雪ぐべかりしなり。我血は湧き上りたり。無上の快樂に無比の慙恨打ち雜りて、我は睡ること能はざりしが、曉近くおもひの外に妥なる夢を結びぬ。
翌朝は夙く起き、管守を訪ひて預めことわりおき、さて姫と媼とを急がせつゝ共にボルゲエゼの館に往きぬ。
畫廊
畫廊はわが穉かりしとき、惠深き貴婦人の我を伴ひ往きて、おろかなる問、いまだしき感の我口より出で我言に發するごとに、面白しとて嬉み笑ひ給ひしところにして、又わが獨り入りて遊び暮らしゝところなれば、今アヌンチヤタを導き往くことゝなりたる我胸には、言ひ知らず怪しき情漲り起れり。既に入りて畫を看れば、幅ごとに舊知なるごとく思はる。されど姫は却りてこれを知ること我より深かりき。姫は生れながらの官能に養ひ得たる鑒識をさへ具へたれば、その妙處として指し示すところは悉く我を服せしめ、我にその神會の尋常に非ざるを歎ぜしめたり。
姫はジエラルドオ・デル・ノツチイの名ある作なるロオト(ソドムに住みしハランの子)とその女兒との圖の前に立てり。われはをゝしき父の面、これに酒を勸むる樂しげなる少女の姿、暗く繁りあひたる木立のあなたに見ゆる夕映の空などめでたしと稱へしに、姫我ことばを遮りて、げに/\奇なる才激せる情もて畫けるものと覺し、作者の筆の傅色表情の一面は寔に貴むべし、さるを此の如き題(ロオトは其女子と通じたり)を選みしこそ心得られね、畫にも禮儀あり、品性あらんは我がつねに望む所なり、コルレジヨオがダナエなども、己れは人の愛づらんやうには愛でず、少女(ダナエを謂ふ、希臘諸神の祖なるチエウス黄金の雨となりて遘き給ひ、ペルセウスを生ませ給ふ)の貌はいかにも美しく、臥床の上にて黄金掻き集むる羽ある童の形もいと神々しけれど、その事餘りにみだりがはしくして、興さむる心地す、ラフアエロの大なるはこゝにあり、わが知れる限は、その採るところの題、毎に高雅にして些の穢れだになし、かくてこそめでたき聖母の面影をば傳ふべかりしなれといふ。われ。仰せは理あるに似たれども、畫の妙は題の穢を忘れしむることあるべし。姫。そはきはめて有るべからざる事なり。藝術はその枝その葉の末までも、清淨醇白なるべきものにて、理想の高潔は人を動かすこと形式の美麗に倍す。古の作者の手に成りし聖母の像を視るに、すべて硬く鋭くして、支那人の畫もかくやとおもはるれども、我はこれに打ち向ふごとに、必ず心の底に徹する如き念をなせり。この高潔といふものは、その作畫者のために缺くべからざること、度曲者に於けると同じ。名作中こゝかしこに稍過ぎたりと見ゆる節あるをば、その作者の一時の出來心と看做して、恕すこともあるべけれど、その疵瑕は遂に疵瑕たることを免るべからず。わがまことに愛づるは無瑕の美玉にこそ。われ。さらば君は變化を命題の間に求めんことをば是とし給はずや。いかなる大家鉅匠にても、幅ごとに題を同うせば人の厭倦を招くなるべし。姫。否々、そは我が言はんと欲せしところにあらず。わが本意は畫工に聖母のみ畫かせんとにはあらず。めでたき山水も好し。賑はしき風俗畫、颶風に抗ふ舟の圖も好し。サルワトオレ・ロオザが山賊の圖もいかでか好からざらん。われは唯だ藝術の境に背徳を容れじとこそ云へ。わが趣味より視れば、かの「シヤリア」宮なるシドオニイの畫の如きすら、その巧緻その汚穢を掩ふに足らず。君は猶彼圖を記し給ふや。驢に騎りたる農夫二人石垣の下を過ぐ。垣の上に髑髏ありて、一鼠、一蚯蚓、一木これに集り、石面には「エツト、エゴオ、イン、アルカヂア」と云ふ四つの拉甸語を書したり。われ。その畫はラフアエロの「ヰオリノ」彈きの隣に懸けられたるを、われも記憶す。姫。さなり。そのラフアエロが落の見苦しき彼圖の上邊にあるこそ憾なれ。
既にしてわれ等はフランチエスコ・アルバニイが四季の圖の前に來ぬ。われは昔穉かりし日にこゝに遊び、この圖の中なる羽ある童を見て感ぜし時の事を語りぬ。姫は君が穉くて樂しき日を送り給ひしこそ羨ましけれといひて、憂をかくすやうなるさまなり。昔の身の上にや思ひ比べけんと、あはれに覺ゆ。われ。君とても樂しき日少なからざりしならん。わが初めて相見しときは、君は幸ありげなるをさな子なりき、人々に感覆られたるをさな子なりき。わが再び相逢ふ日は、羅馬全都の君がために狂するを見る。餘所目には君、まことに樂しく見え給へり。さるを心には樂しとおもひ給はずや。かく問ひつゝ、我は頭を傾けて姫の面を俯し視たるに、姫はそのそこひ知られぬ目なざしもて打ち仰ぎ、そのめでくつがへられたるをさな子は、父もなく母もなきあはれなる身となりぬ、譬へば木葉落ち盡したる梢にとまる小鳥の如し、そを籠の内に養ひしは世の人にいやしまれ疎まるゝ猶太教徒なり、その翼を張りておそろしき荒海の上に飛び出でたるはかの猶太教徒の惠なりといひかけて、忽ち頭を掉り動かし、あな無益なる詞にもあるかな、由縁なき人のをかしと聞き給ふべき筋の事にはあらぬをといふ。由縁なき人とはわれかと、姫の手首とりてさゝやくに、暫しあらぬ方打ち目守りてありしが、その面には憂の影消え去りて、微笑の波起りぬ。否々、われも樂しかりし日なきにあらず、その樂しかりし日をのみ憶ひてあるべきに、君が昔話を聞きて、端なくもわが心の裡に雕られたる圖を繰りひろげつゝ、身のめぐりなるめでたき畫どもを忘れたりとて、姫は我に先だちて歩を移しき。
わがアヌンチヤタと老媼とを伴ひて旅館にかへりしとき、門守る男はベルナルドオが留守におとづれしことを告げたり。我友はこの男の口より二婦人を連れ出だしゝものゝ我なるを聞けりといふ。友の怒は想ふに堪へたり。かゝる事あるごとに、我は前の日には必ず氣遣ひ憂ふる習なりしが、アヌンチヤタに對する戀は我に彼友に抗する心を生ぜしめき。さきには友我を性格なし、意志なしと罵りき。今はわれ友に見すに我性格と我意志とをもてすべしとおもひぬ。
姫が猶太教徒の籠の内に養はれきといふ詞は、絶えず我耳の根にあり。依りておもふに、友がハノホの許にて見きといふ少女はアヌンチヤタなりしならん。されど又姫にそを問ふ機會あるべきか、心許なし。
あくる日往きしときは、姫は一間にありて某の役を浚ひ居たり。われはおうなに物言ひこゝろみしに、この人はおもひしよりも耳疎かりき。されどそのさま我が詞を交ふるを喜べる如し。われは前の日即興の詩を歌ひしとき、この人の嬉み聽けるさまなりしをおもひ出でゝ、その故をたづねしに、あやしとおもひ給ひしも理りなり、君の面を見、君の詞の端々を聞きて、おほよそに解したるなり、さてその解したるところはいとめでたかりき、平生アヌンチヤタが歌うたふを聽くときも亦同じ、耳の遠くなりゆくまゝに、目もて人の聲を聞くすべをば、やう/\養ひ成せりといふ。媼はベルナルドオが上を問ひ、そのきのふ留守の間におとづれて、共に畫廊に往くこと能はざりしを惜みき。われ媼がベルナルドオを喜べるゆゑを問ふに、かの人の心ざまには優れたるふしあり、われその證を見しことあればよく知りたり、猶太の徒も基督の徒も、神の目より視ば同じかるべければ、彼人の行末を護り給ふならんといふ。やうやくにして媼はことば多くなりぬ。その姫を愛でいつくしむ情はいと深しと見えたり。物語のはし/″\より推するに、姫が過ぎ來し方のおほかたは明かになりぬ。姫は西班牙に生れき。父も母も彼國の人なり。穉くて羅馬に來つるに、ふた親はやく身まかりて、頼るべき方もなし。猶太の翁ハノホは西班牙に旅せしころ、彼親達を識りつれば、孤兒を引き取りて養へりしに、故郷なる某の貴婦人あはれがりて迎へ歸り、音樂の師に就きて學ばしめき。その頃某の貴公子この若草手に摘まばやとてさま/″\のてだてを盡しゝに、姫の餘りにつれなかりしかば、公子その恨にえたへで、果はおそろしき計をさへ運らしつ。その始末をば媼深く祕めかくす樣なれど、姫の命も危かるべき程の事なりきとぞ。姫は彼公子に索ね出されじとて、再び羅馬に逃れ來たり。かくて昔のやしなひ親にたよりて、人目少き猶太廓に濳み居たるは、一年半ばかり前の事といへば、ベルナルドオが逢ひしは此時なり。幾もなくして彼公子身まかりぬ。姫はこれより一身をミネルワの神(藝術の神)に捧げまつりて、その始て桂冠を戴きしはナポリにての催しなりき。媼はその頃より姫のほとりを離れずといふ。語り畢りて媼は、姫の才あり智ありて、敬神の心いよ/\深きを稱ふること頻りなりき。
旅館を出でしは祝射の眞盛なりき。玄關よりも窓よりも、小銃拳銃などの空射をなせり。こは精進日の終を告ぐるなり。寺々の壁畫を覆へる黒布をば、此聲とゝもに截りて落すなり。鬱陶しき時はけふ去りて、蘇生祭のうれしき月はあすよりぞ來るなる。その嬉しさはアヌンチヤタと媼とを祭見に誘ひ得たるにて、又一層を加へたり。
蘇生祭
祭の鐘は鳴りわたれり。僧官を載せたる彩車は聖ピエトロの寺に向ひて奔りゆく。車の後なる踏板には、式の服着たる僮僕あまた立てり。外國人の車馬、ところの子女の裙屐に、狹き巷の往來はむづかしき程になりぬ。神使の丘の巓には、法皇の徽章、聖母の肖像を染めたる旗閃き動けり。ピエトロの辻には樂人の群あり。道の傍には露肆をしつらひて、もろ手さし伸べたる法皇授福の木板畫、念珠などを賣りたり。噴水の銀線は日にかゞやけり。柱弓の下には榻あまた置きたるに、家の人も賓客も居ならびたり。群衆は忽ち寺門より漲り出でたり。供養の儀式聲樂を見聞き、磔柱の鐵釘、長鎗などありがたき寶物を拜み得しなるべし。廣き十字街は人の頭の波打ちて、車は相倚りて隙間なき列をなせり。父少童には石像の趺に攀ぢ上れるあり。全羅馬の生活の脈は今此辻に搏動するかと思はる。既にして法皇の行列寺門を出づ。藍色の衣を纏へる僧六人に舁かせたる、華美なる手輿に乘りたるは法皇なり。若僧二人大なる孔雀の羽もて作りたる長柄の翳を取りて後に隨ひ、香爐搖り動かす童子は前に列びてぞゆく。輿に引き添ひて歩めるは
僧官達なり。行列の門を出づるや、樂隊は一齊に聲を揚ぐ。輿を大理石階の上に舁き上げて、法皇の姿廊の上に見ゆるを相圖として、廣き辻なる老若の群集は跪けり。隊伍をなせる兵士もこれに倣へり。こゝかしこに立てる人の殘りしは、新教を奉ずる外國人なるべし。アヌンチヤタは停めたる車の内に跪きて、その美しき目を法皇の面に注げり。われは見るべからざる法雨のこの群の上に降り灑ぐを覺えき。廊の上より紙二ひら翩り落つ。一は罪障消滅の符、一は怨敵調伏の符なり。衆人はその片端を得んとてひしめきあへり。鐘の音再び響き、奏樂又起りぬ。われ等の乘れる車の此辻を離るゝとき、ベルナルドオが馬、側を過ぎたり。馬上の友はアヌンチヤタと媼とに禮して、我をば顧みざりき。姫は君が友の色の蒼さよ、病めるにあらずやとさゝやきぬ。われはたゞさることはあらざるべしと答へしが、我心は明に友の面色土の如くなりし所以を知りたり。而してわれは我決心の期到れるを覺えき。
わが姫を慕ふ情は甚だ深し。姫にしてわれを棄てずば、我は一生を此戀に委ぬとも可なり。われは嘗て我才の戲場に宜くして、我吭の喝采を博するに足るを驗し得たれば、一たび意を決して俳優の群に投ぜば、多少の發展を見んこと難からざるべし。ベルナルドオ畢竟何爲者ぞ。その年ごろ姫に近づかんとする心にして、公正なる情ならば、われ決してこれが妨碍をなさじ。友と我との間に擇ばんは、一にアヌンチヤタが寸心に存ず。姫我を取らば友去れかし。友を取らば我退かん。この日われは机に對ひて書を裁し、これをベルナルドオが許に寄せたり。筆を落すに臨みて舊情を喚び起せば、不覺の涙紙上に迸りぬ。發送せし後は心やゝ安きに似たれど、或は姫を失はんをりの苦痛を想ひ遣りて、プロメテウスの鷲の嘴に刺さるゝ如き念をなし、或は姫に許されて戲場を雙棲のところとなさん日の樂奈何なるべきと思ひ浮べて、獨り微笑を催すなど、ほとほど心亂れたる人に殊ならざりき。
燈籠、わが生涯の一轉機