教育と迷信

8話 八 教育上の注意

1,463字 約3分 2017年7月26日 公開

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 新聞紙の報ずるところによると、近来わが国では教育の一手段として、神社仏閣等に参詣することが行なわれ始めたようで、何村の小学校では校長が生徒全部を率いて鎮守の社に参拝して御供物をいただいて帰ったとか、何学校の生徒団体が何寺に詣でたとかいう記事を見ることがしばしばあるが、これについては教育者のよほど注意しなければならぬ点があると思う。それは何かといえば、すなわち迷信を避けることである。神社仏閣に参詣することはわが国従来の風俗であって、われらのごとき者でさえ、神社仏閣のあるところへ行けば必ず参拝することに定めているが、神社や仏閣の由来、縁起を書いたものを見ると、いずれも昔の未開の時代に誰かが造ったものと見えて、今の知識をもっては明らかに迷信と見なさざるをえぬようなことで充たされている。学校の生徒などに特に神仏を敬わしめようと導く場合には、往々かような迷信を迷信として退けることを躊躇するごときことがないであろうか。もしいささかでも迷信を退けることを躊躇し、生徒らをしていささかでも迷信におちいらしめるおそれがあったならば、その国家の将来におよぼす影響は決して好良なりとは言われぬ。現在の宗教から迷信に属する部分を引き去って、残余の部分を尊崇するように導くことができるならばまことに結構であるが、神仏を敬う心を速かに養おうと急ぐのあまり、知らずしらず迷信を伝え広げるようなことがあったならば、利よりも害のほうがはるかに多い。これは実際教育に従事している者の深く考えなければならぬことである。

 元来神仏を尊崇することを奨励したならば、世の風俗が改良せられるであろうか否かがすでに疑問である。今日教育ある一部の人々の間に宗教が全く勢力を失うにいたったのは、現在の宗教がもはやかかる人々に適せぬゆえであって、とうていこれを回復することはむずかしい。また昔から「椿の木と後生願いに真直(まっすぐ)はない」と言うて宗教に熱中する人に模範的人格を備えたものはかえって少ない。成田山に詣でる連中や太鼓をたたきお題目を唱えて練り歩く人たちが盛んにふえたら、世の中の風俗が立派になろうとはいかにも考えられぬ。知事が衣冠束帯して赤地金襴の覆いかけたる唐櫃を奉侍して神社に詣でるとか、烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)伶人(れいじん)綾錦(あやにしき)水干(すいかん)に下げ髪の童子、紫衣(しい)の法主が練り出し、万歳楽(まんざいらく)延喜(えんぎ)楽を奏するとかいうことは、昔の風俗を保存するとしてはよろしいかもしれぬが、これによって世道の敗頽を防ごうと企てるのはもはや今日の時世には適せぬことである。

「苦しい時の神頼み」という諺もあるとおり、何事でも種々の方法をつくしても効果の現われぬ場合には神仏に頼るようになりやすい。たとえば病人でもかの医者にも診てもらい、この病院へも入れたりしてもいちじるしく効のないときは、ついに加持(かじ)祈祷(きとう)を頼むようになるが教育者が今ごろ急に思い立ったかのごとくに、神社仏閣をあがめるようになったのは、あるいは世道人心の敗頽に対して種々の救治策を試みて、いずれも効を奏せぬところからついに神仏でも信心したら少しはご利益があろうかと考えるにいたったかもしれぬ。もしさようなれば事情は大いに察すべきであるが、いまだ講究の余地があろうと思う。とにかくわが国の現状を顧みると、大いに理科的精神を鼓吹して各方面の研究心を養成し、文明に進む基礎を造ることが目下の急務なることは明らかであるから、普通教育においては特にこのことに意を注ぎ、いささかでもこれを妨げるおそれのあることは絶対に避けなければならぬ。

(明治四十四年五月)

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