5話 五
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「さもなければ、あの野蛮な、残酷な敵がそうやすやす捕虜を返す法はない。しかしそれには証拠がない、強て敵に内通をしたとは謂わん、が、既に国民の国民たる精神の無い奴を、そのままにして見遁がしては、我軍の元気の消長に関するから、きっと改悟の点を認むるか、さもなくば相当の制裁を加えなければならん。勿論軍律を犯したというでもないから、将校方は何の沙汰をもせられなかったのであろう。けれどもが、吾々父母妻子をうっちゃって、御国のために尽そうという愛国の志士が承知せん。この室に居るものは、皆な君の所置振に慊焉たらざるものがあるから、将校方は黙許なされても、そんな国賊は、きっと談じて、懲戒を加ゆるために、おのおの決する処があるぞ。可か。その悪むべき感謝状を、こういった上でも、裂いて棄てんか。やっぱり疚ましいことはないが、ちょっとも良心が咎めないか、それが聞きたい。ぬらくらの返事をしちゃあ不可ぞ。」
看護員は傾聴して、深くその言を味いつつ、黙然として身動きだもせず、やや猶予いて言わざりき。
こなたはしたり顔に附入りぬ。
「きっと責任のある返答を、此室に居る皆に聞かしてもらおう。」
謂いつつ左右を《みまわ》したり。
軍夫の一人は叫び出せり。「先生。」
渠等は親方といわざりき。海野は老壮士なればなり。
「先生、はやくしておくんなせえ。いざこざは面倒でさ。」
「撲っちまえ!」と呼ばわるものあり。
「隊長、おい、魂を据えて返答しろよ。へん、どうするか見やあがれ。」
「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」
と口々にまたひしめきつ。四五名の足のばたばたばたと床板を踏鳴らす音ぞ聞こえたる。
看護員は、海野がいわゆる腕力の今ははやその身に加えらるべきを解したらむ。されども渠はいささかも心に疚ましきことなかりけむ、胸苦しき気振もなく、静に海野に打向いて、
「ちっとも良心に恥じないです。」
軽く答えて自若たりき。
「何、恥じない。」
と謂返して海野は眼を《みは》りたり。
「もう一度、きっとやましい処はないか。」
看護員は微笑みながら、
「繰返すに及びません。」
その信仰や極めて確乎たるものにてありしなり。海野は熱し詰めて拳を握りつ。容易くはものも得いわでただ、ただ、渠を睨まえ詰めぬ。
時に看護員は従容、
「戦闘員とは違います、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願いたいです。」
謂い懸けて片頬笑みつ。
「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵というのがある筈です。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、遁げらるれば遁げるんですが、行り損なえばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国だのという、さような名称も区別も無いです。ただ病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。ちょうど自分が捕虜になって、敵陣に居ました間に、幸い依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の名折になる。いや名折は構わないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさっきもいいます通り、我軍と違って実に可哀想だと思います。気の毒なくらい万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、ようよう赤十字の看護員という躰面だけは保つことが出来ました。感謝状はまずそのしるしといっていいようなもので、これを国への土産にすると、全国の社員は皆満足に思うです。既に自分の職務さえ、辛うじて務めたほどのものが、何の余裕があって、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。またよしんば兼ねることが出来るにしても、それは余計なお世話であるです。今貴下にお談し申すことも、お検べになって将校方にいったことも、全くこれにちがいはないのでこのほかにいうことは知らないです。毀誉褒貶は仕方がない、逆賊でも国賊でも、それは何でもかまわないです。ただ看護員でさえあれば可。しかし看護員たる躰面を失ったとでもいうことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷うです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心がどうであるのと、さようなことには関係しません。自分は赤十字の看護員です。」
と淀みなく陳べたりける。看護員のその言語には、更に抑揚と頓挫なかりき。