9話 九
読み方を変える
その他に此処で動いてるものは与吉が鋸に過ぎなかった。
余り静かだから、しばらくして、又しばらくして、樟を挽く毎にぼろぼろと落つる木屑が判然聞える。
(父親は何故魚を食べないのだろう、)とおもいながら膝をついて、伸上って、鋸を手元に引いた。木屑は極めて細かく、極めて軽く、材木の一処から湧くようになって、肩にも胸にも膝の上にも降りかかる。トタンに向うざまに突出して腰を浮かした、鋸の音につれて、又時雨のような微な響が、寂寞とした巨材の一方から聞えた。
柄を握って、挽きおろして、与吉は呼吸をついた。
(左様だ、魚の死骸だ、そして骨が頭に繋がったまま、皿の中に残るのだ、)
と思いながら、絶えず拍子にかかって、伸縮に身体の調子を取って、手を働かす、鋸が上下して、木屑がまた溢れて来る。
(何故だろう、これは鋸で挽く所為だ、)と考えて、柳の葉が痛むといったお品の言が胸に浮ぶと、又木屑が胸にかかった。
与吉は薄暗い中に居る、材木と、材木を積上げた周囲は、杉の香、松の匂に包まれた穴の底で、目を《みは》って、跪いて、鋸を握って、空ざまに仰いで見た。
樟の材木は斜めに立って、屋根裏を漏れてちらちらする日光に映って、言うべからざる森厳な趣がある。この見上ぐるばかりな、これほどの丈のある樹はこの辺でついぞ見た事はない、橋の袂の銀杏は固より、岸の柳は皆短い、土手の松はいうまでもない、遥に見えるその梢は殆ど水面と並んで居る。
然も猶これは真直に真四角に切たもので、およそ恁る角の材木を得ようというには、杣が八人五日あまりも懸らねばならぬと聞く。
那な大木のあるのは蓋し深山であろう、幽谷でなければならぬ。殊にこれは飛騨山から廻して来たのであることを聞いて居た。
枝は蔓って、谷に亘り、葉は茂って峰を蔽い、根はただ一山を絡って居たろう。
その時は、その下蔭は矢張こんなに暗かったか、蒼空に日の照る時も、と然う思って、根際に居た黒い半被を被た、可愛い顔の、小さな蟻のようなものが、偉大なる材木を仰いだ時は、手足を縮めてぞっとしたが、
(父親は何うしてるだろう、)と考えついた。
鋸は又動いて、
(左様だ、今頃は弥六親仁がいつもの通、筏を流して来て、あの、船の傍を漕いで通りすがりに、父上に声をかけてくれる時分だ、)
と思わず振向いて池の方、うしろの水を見返った。
溜池の真中あたりを、頬冠した、色のあせた半被を着た、脊の低い親仁が、腰を曲げ、足を突張って、長い棹を繰って、画の如く漕いで来る、筏は恰も人を乗せて、油の上を辷るよう。
するすると向うへ流れて、横ざまに近づいた、細い黒い毛脛を掠めて、蒼い水の上を鴎が弓形に大きく鮮かに飛んだ。