三尺角

9話

1,107字 約2分 2016年7月1日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 その()に此処で動いてるものは与吉が(のこぎり)に過ぎなかった。

 余り静かだから、しばらくして、又しばらくして、(くすのき)()(ごと)にぼろぼろと落つる木屑(きくず)判然(はっきり)(きこ)える。

父親(ちゃん)何故(なぜ)魚を食べないのだろう、)とおもいながら(ひざ)をついて、伸上(のびあが)って、鋸を手元に引いた。木屑は極めて細かく、極めて軽く、材木の一処(ひとところ)から()くようになって、肩にも胸にも膝の上にも降りかかる。トタンに向うざまに突出して腰を浮かした、鋸の音につれて、又時雨(しぐれ)のような(かすか)(ひびき)が、寂寞(せきばく)とした巨材の一方から聞えた。

 ()を握って、挽きおろして、与吉は呼吸(いき)をついた。

左様(そう)だ、魚の死骸だ、そして骨が頭に繋がったまま、皿の中に残るのだ、)

 と思いながら、絶えず拍子にかかって、伸縮(のびちぢみ)身体(からだ)の調子を取って、手を働かす、鋸が上下して、木屑がまた(こぼ)れて来る。

(何故だろう、これは鋸で挽く所為(せい)だ、)と考えて、柳の葉が痛むといったお品の(ことば)が胸に浮ぶと、又木屑が胸にかかった。

 与吉は薄暗い中に居る、材木と、材木を積上げた周囲は、杉の()、松の(におい)に包まれた穴の底で、目を《みは》って、(ひざまず)いて、鋸を握って、(そら)ざまに仰いで見た。

 樟の材木は斜めに立って、屋根裏を()れてちらちらする日光に映って、言うべからざる森厳(しんげん)(おもむき)がある。この見上ぐるばかりな、これほどの(たけ)のある樹はこの(あたり)でついぞ見た事はない、橋の(たもと)銀杏(いちょう)(もと)より、岸の柳は皆(ひく)い、土手の松はいうまでもない、(はるか)に見えるその(こずえ)(ほとん)ど水面と並んで居る。

 (しか)(なお)これは真直(まっすぐ)に真四角に(きっ)たもので、およそ(かか)(かく)の材木を得ようというには、(そま)が八人五日あまりも懸らねばならぬと聞く。

 (そん)な大木のあるのは(けだ)深山(しんざん)であろう、幽谷(ゆうこく)でなければならぬ。(こと)にこれは飛騨山(ひだやま)から(まわ)して来たのであることを聞いて居た。

 枝は(はびこ)って、谷に(わた)り、葉は茂って峰を(おお)い、根はただ一山(ひとやま)(まと)って居たろう。

 その時は、その下蔭(したかげ)矢張(やっぱり)こんなに暗かったか、蒼空(あおぞら)に日の照る時も、と()う思って、根際(ねぎわ)に居た黒い半被(はっぴ)()た、可愛(かわい)い顔の、小さな(あり)のようなものが、偉大なる材木を仰いだ時は、手足を縮めてぞっとしたが、

父親(ちゃん)()うしてるだろう、)と考えついた。

 鋸は又動いて、

(左様だ、今頃は弥六親仁(やろくおやじ)がいつもの(とおり)(いかだ)を流して来て、あの、船の(そば)()いで通りすがりに、父上(ちゃん)に声をかけてくれる時分だ、)

 と思わず振向いて池の方、うしろの水を見返った。

 溜池(ためいけ)真中(まんなか)あたりを、頬冠(ほおかむり)した、色のあせた半被を着た、(せい)の低い親仁が、腰を曲げ、足を突張(つッぱ)って、長い(さお)(あやつ)って、()の如く漕いで来る、筏は(あたか)も人を乗せて、油の上を(すべ)るよう。

 するすると向うへ流れて、横ざまに近づいた、細い黒い毛脛(けずね)(かす)めて、蒼い水の上を(かもめ)弓形(ゆみなり)に大きく(あざや)かに飛んだ。

目次に戻る

目次