10話 二つの繪 死場所
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死場所として海には格別の誘惑を感じなかつたやうである。水泳ぎができるからと言つてゐたのはいひわけのやうで、濱邊にころげてゐる死體を考へてゐるといふよりも、(芥川はスパァニッシュ・フライをのんで死んでて陰莖勃起は滑稽だねえと言つてゐた、)行方不明になりきる死體の行方のはうを心配だと言ふのである。深山幽谷で死ぬことには多少の關心があつたやうだが、これとても糜爛しきつたのを發見されるのはいやだと言ひ、死體が木乃伊になつてゐるのならば興味があるといふ贅澤を言つてゐた。
大正十五年鵠沼には、まだ震災で潰れたままの廢屋と言つてよろしい物があちこちにあつた。芥川が一日、僕を散歩にかづけて案内したところは、なるほど死なうといふ者にとつては、白骨か木乃伊になるまでは、發見されないと思へる場所の家であつた。(「悠々莊」ではない、)芥川はその家までたどりつくと、活溌に先きに立つて屋敷の中をぐるぐる歩きまはり、その安全さを言つてゐた。その道の途中で芥川は、「こないだ比呂志と歩いてゐたら道に釘が落ちてたが、比呂志がそれをみて、くろがねが落ちてゐるといつてゐたよ、」とほほゑましげにそのことを僕に言つてゐた。比呂志君が尋常一年のときであらう。
芥川は、「自分の家で變死をすれば、やがては家を賣るであらう、それを考へれば養父に迷惑をかけるのは忍びないことだが、自分の建てた書齋なら、そこさへ潰せば大したこともなからう、」といふことを言つてゐた。(彼はま新らしい書齋で死んでゐた。)
菊池寛は芥川の死後に、「芥川のところで、もし家を賣るやうなら自分が買ふから、」と僕に言つてくれた。また、「比呂志君にお小遣として、文藝春秋の株を貳百あげるつもりだ。」ともいつてそのとほりした。
妻に對する、
子に對する、
僕の家の勝手口からはいつてきた芥川は、いつもとちがつた明るい顏で言つた。
「僕はやつと安心したよ。僕の讀者は三千ある。僕が死んでも全集が三千は出るとやつとけふさう自信がついた。三千出れば死ねる。」
朝、わりあひ早くきて、さう言ふとそのまま歸つていつた。伊四號の家から別の家に移つてゐたときのことであつたが、芥川はきまつて勝手口から音もなく(麻裏草履で砂地であるためもあるが、)すうつとはいつてきてゐた。伊四號の家にゐたときには懸垂の要領で窓から首をさきにだし、猫のやうにはいつてきて、縁側から上つてくるとか、玄關からはいつてきたといふためしはなかつた。(鵠沼での話)
昭和二年に、芥川の第一囘の全集が岩波から出た時の部數は五千七百、漱石全集の第一囘の時よりも七百多いといふ話であつた。全集といふものは、第一册より二册目、三册目と、多少月々に減つてゆくものであるが、その減りかたが少ないのを木版屋の都築(故人)が感心してゐた。出版屋といふものは木版屋に十減れば十だけ注文を減らすので、割合確かな數が知れてくるものだが、芥川の全集といふものは他の人のに比べると減り方は少ないらしい。
芥川と話をしてゐると、きまつて、「死ぬ話をしようや、」に話をもつてゆく。さういふ芥川はいつも「僕の女房は自分には過ぎた者だ。」と言つて涙を湛へてゐた。「女房も僕のやうに、過去に過失を持つてゐてくれる女であれば、また、今日に、或は先きにいつてでも過失を犯してくれるやうな人間であつてさへくれるのなら、どれほど僕の氣持は救はれるか」と掻き口説いてゐた。
芥川の遺書のなかには、〔一、もし集を出すことあらば、原稿は小生所持のものによられたし。二、又「妖婆」(「アグニの神」に改鑄したれば、)「死後」(妻の爲に)の二篇は除かれたし。〕といふ字句があつた。
芥川は鵠沼で、「女房のおふくろが君、自分の亭主が死んだときに、誰もわたしに再婚しろと言つてくれる人がなかつたと、まるで怒つてでもゐるやうに言つてたよ。」と言つてゐたことがある。(塚本さんの旦那さんは初瀬の機關長、日露戰爭のとき艦の沈むに殉じて死んだ。芥川の話だと、兵學校、大學ともに首席で通した人。芥川は兵學校と言つてゐたが、機關學校の言ひちがひであらう。)芥川が死にたがつてゐると知つて、塚本さんがさういふことを口にしてゐるのは了解できるが、さういふことを言はれたためであるのかどうか、芥川の夫人に宛てた遺書のなかには、僕といつしよになれと書いてあつたのもあつてみせられたが、それでもつて僕は新原得二に「六ヶ月たつてみなければ……」といふ二つの意味をふくめた心外な嫌味を言はれてゐる。(芥川はこの實弟と實姉とは義絶せよと家人に書いてゐた。)多分芥川のところの年寄達も當時腹の中では、なにか新原と似た考へを持つたことであらうと思ふ。
芥川は二度ばかり僕に「僕は子供を大事にしない女は嫌ひだ。」と言つてゐたことがあつた。いつも話になんの連絡のないときに言つたのであつたから、それがこちらには突然でて耳に殘つてゐる。
關東大震災のすぐあとであつた。(芥川がまだ死ぬ話をしない前のこと、)芥川のところから渡邊町へでる角のところで、(よくそこの家角までくると家庭の話を聞かせてゐたものだ。)聲を小さくして、「女房がわたしも小さい文房具屋をやつてみたいといつてゐる、」と言つてくすつと笑つてゐた。それからその場所で、「女房は子供を一人は小説家、一人は畫かき、一人は音樂家にしたいといつてゐるのだ、」といかにも滿足してゐる顏で言つてゐたこともある。
「女房は子供たちのためにもいつしよに死ねないと言つてゐる、」と芥川は言つてゐた。子供達といふのは、比呂志(菊池寛のひろしをとつて、ひろしと名づけた)多加志(これは僕の隆一の隆をたかしと讀ませてたかしと名づけた。ビルマの最後の戰鬪で死を傳へられたままになつてゐる子供、)也寸志(この名のゆかりは恒藤恭のやすしであらう)の三君である。
比呂志君が生れたときのことであつたと思ふが、芥川は、丁度きた屑屋の秤で目方をはかつて貰ひ、目方が多かつたといふことを言つてゐた。これは一寸、芥川らしくない話でゐて、いかにも芥川のやりさうなことだと思ふ。
室生犀星の長男の豹太郎が死んだときに、芥川夫人がお悔みにゆくと室生夫人が、「わたしたちお互ひにおでぶちやんは……、」と言つたといふ。それで芥川夫人は家に歸つて、「わたしはおでぶちやんぢやないわ……」と言つてゐたといふが、室生夫人は子供に死なれた悲しみで一貫目痩せて十八貫、芥川夫人は十六貫、と十二貫五百の芥川は笑つて聞かせてた。
伊四號の家の庭のなかほどに、つゆくさが咲いてゐた。芥川は也ちやんを抱いてそこまでゆくと、下におろされても泣きもせずにあつぷあつぷ這はうとしてゐる也ちやんに、立つたままじつと目をすゑてゐた。僕が、「しやうがないおとうさんだなあ、」と言つて抱きあげようとすると、芥川は急に抱きあげて、「この兒は君にやるよ、」と言つた。